松本幸四郎(3) 吾兒の生立

子への愛情、克明に記述
歌舞伎界への父の心情も

私が生まれた時、32歳であった父の言葉がある。

「今 日本では『道義』を提唱し『仁義』を説いてゐる。併(しか)し一歩振りかえつて其(そ)の裏をみる時、殊に芝居道において偽善者様の我物顔の横行は自分のような馬鹿正直者にとり実に慨歎(がいたん)の堪(たえ)づ。諸先輩は即是(すなわちこれ)世の中なりと諭せども、自分は飽迄(あくまで)『道義』を提(たずさ)へ心の真を信条に一生を終らんと思ふ。何に感じてか君の父はこんな事を書いてみたくなつたよ。馬鹿になりきれぬ●(くの字点)」

時は1942年(昭和17年)8月30日。私が生まれて11日目のことで、「吾兒(わがこ)の生立(おいたち)」という育児日記を買って、表紙の裏に記したのだった。

当時の日本の情勢は6月にミッドウェー海戦で敗北、8月には日米のガダルカナル島をめぐる攻防戦が始まった。敗色の度が強まっていく戦時下にあって、私の父は歌舞伎への熱い真情を抱えてもんもんとしていたのだ。

このころの父は市川染五郎(五世)を名乗っていた。初世中村吉右衛門の一人娘、正子と結婚して、私が生まれたのだ。誕生日、8月19日のページを見てみよう。

「僕は君の生れる日、築地の家でひる食をすませたところに、病院から『男の子ですよ』と只(ただ)一言の報だ、早速神様へ全部お燈火を上げた。二階の机の前に僕の生母の写真を出した。ぽろ●(くの字点)涙が出た(若い父はこんな感傷的なところもあつた)病院へ行くまで母と君の健全な事のみであつた。着いて母子の顔を見てほつとして君の母に『有り難う』といつたよ。   父」

「看護婦さんに、大きな男の赤ちやんですヨと云(い)はれた時 今までのつらい死ぬ程の苦しみが一ペンに飛んでいつてしまひました。しばらくして あなたは真赤なお顔をしてお母様の横におねんねしたのヨ。お父様がいらつしやつた時 そばに人が居なかつたら弱虫の母様は泣いてしまつたでせう 母様は幸者ヨ 世界中の幸福者ヨ 又あなたも幸ネ コンナいゝ父様を持つて。   母」

難産だったようである。生まれた時の身長は「五十四センチ」、体重は「九二〇匁(もんめ)」(3450グラム)。比較的大きな赤ん坊だった。

「藤間昭暁(てるあき)」と命名されたが、そのいきさつは「君の名前につき君の母と毎日毎晩相談した。八紘一宇の紘一、大東亜戦争に勝夫等々。併(しか)し僕の一番にがてな易者の考えた昭暁にした。僕は一晩中口の中で昭暁てるあきと二、三百回口吟(くちずさ)んでみた。僕は良いと思つてきめた。君の祖父(七世幸四郎)の金太郎をもらおうと思つたがそれは芸名にしたい」と書いてあった。

冒頭の続きを引用する。

「君の若い父の現在だが、所謂(いわゆる) 歌舞伎俳優として若い女の人達に騒れる花形でもなく、といつて役者か 弁護士かわからぬ程よくしやべる新人でも無い。平凡な役者だ。先(ま)づ話相手は軍人か僧か小僧からたたきあげた実践家といふところかナア、性格は強情で偏屈だ是は僕の一番悪いところだが、いや悪いところはまだ●(くの字点)あるが、善いところは捜さぬと自分ではわからぬ」

欄外に、新聞に載った(東京市の)岸本(綾夫)将軍市長(最終階級が陸軍大将だったので将軍市長と呼ばれた)の言葉「情実を排して明朗化」が書き出され、「芝居道の情実は僕の一生いや永久に排せまい……」と父の慨歎が記されている。この時、父が歌舞伎に対して持っていた鬱屈した思い、それが将来、私が大きくなった時に爆発することになる。

(歌舞伎俳優)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。