松本幸四郎(30) これから

公演目白押し 挑戦続く
総合芸術追究貫いた誇り胸に

今年も大晦日(おおみそか)となり、除夜の鐘を聞くときとなった。

 「人生、これからが面白い」

希代の興行師、松尾國三氏がニヤっと笑いながら私に言った言葉だ。大阪の新歌舞伎座に出ていた時で、人生の壁にぶち当たっていた。

歌舞伎とミュージカルを同時に演じることへの風当たり、幸四郎襲名の重圧、父白鸚の死など人生の荒波を乗り越えようとしている最中だった。松尾氏のその言葉は、辛いこと、苦しいことを実感し、噛(か)みしめ呑(の)み下し、それをも味わい楽しんでしまうこと、それが「人生の本当の面白さだ」という意味だった。

10年続けたシアターナインスの活動は一応、使命を果たし、今後は自分の現代劇の集大成として「ナインスレパートリー」を構想している。シアターナインスの創作劇を始め、「梨苑座」の演目、シェークスピア劇、「アマデウス」などの翻訳劇、「ラ・マンチャの男」などのミュージカルと、幸四郎の現代劇の演劇活動の中から精選する。

来年は国立劇場の正月公演「三人吉三巴白浪(ともえのしらなみ)」で始まり、3月は新橋演舞場での歌舞伎。そしてミュージカル「ラ・マンチャの男」を5、8月に再演する。

もちろん千回、2千回と回を重ねられるのは俳優として名誉なことだが、その陰には、必死に作り上げてもたった1回の公演で2度と日の目を見ない舞台が数限りなくある。今となっては、その一つ一つが、一緒に作ったスタッフ、キャストと共にどれも本当に愛(いと)おしい。

来秋の歌舞伎公演ではかねての夢が叶(かな)いそうだ。歌舞伎に対し志や考えを同じくする者が集まっての歌舞伎公演が実現できる見通しとなった。ぜひとも歌舞伎俳優、九代目松本幸四郎としてのイニシアチブをとって成功させたい。

先代勘三郎の大叔父(おおおじ)は「歌舞伎だからなんでもすばらしいのではない。すばらしいから初めてそれが歌舞伎なんだ」と言った。私は「演劇として面白い歌舞伎」と「洒落(しゃれ)っ気のある荒唐無稽な歌舞伎」、この二つをこれからの自分の歌舞伎の柱として勤めてゆきたい。

演劇は総合芸術だというが、それは一つの知識しか持っていないスタッフ、キャストを10人集めることではない。一人の中に10の知識が詰まっている演劇人を10人集めるということだ。役者一人一人が演劇人としての素養をあふれるほど持っていなければ舞台に厚みが出てこない。そうした思いが2013年に再開場する歌舞伎座の新しい時代に花開けばと願っている。

「役者はうまくなるのではない、だんだん下手になってゆく。うまくなったと思うのは慣れからくる錯覚だよ」。これは亡き成駒屋(六世歌右衛門)の小父の言葉だ。

この履歴書を提出して、今自分は人生の入社試験を受けているというところかもしれない。合格するか、しないかまだ答えは出ていない。しかし、私の胸にはっきりと刻まれているのは、三つの時に歌舞伎の初舞台を踏み、22歳でブロードウェーミュージカルに出会い、今年まで半世紀近く、この生き方を貫き通してきたという“秘(ひそ)かな誇り”である。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(29) 歌舞伎座

さよなら公演で孫と
勉強の場、先達に思い馳せ

染五郎の長男である孫の齋(いつき)が2009年(平成21年)6月、歌舞伎座で四代目金太郎として初舞台を踏んだ。

「歌舞伎座さよなら公演」の一環で、出し物は「門出祝寿連獅子(かどんでいおうことぶきれんじし)」。4歳だったが、歌舞伎座が取り壊される前に、代々受け継がれてきた金太郎の名で舞台に立たせてやりたいという染五郎の親心であった。

私が初舞台を踏んだ時は、七世幸四郎、初世吉右衛門の両祖父に見守られてだったが、今度は私がその祖父たちの立場にいた。襲名とは「命」をつなぐものだと言った父の言葉を改めてかみしめた。

翌10年4月の歌舞伎座最後の公演では、私が松王丸を演じる「寺子屋」で、金太郎が菅秀才役を勤めた。60年ほど前、私が勤めた同じ役を孫が勤めている。自分にとってはまさに奇跡に近い喜びであった。

歌舞伎座は戦災で焼失した建物を復興し、1951年(昭和26年)の開場以来、歌舞伎の殿堂、戦後歌舞伎の象徴として多くの人に親しまれてきた。歌舞伎座開場時、私は8歳で「喜撰」の所化役で出た。天井からライトの破片が落ちてきてびっくりした思い出がある。歌舞伎座は若手にとって先輩の舞台を通して勉強する場だった。先代勘三郎の大叔父(おおおじ)、歌右衛門の小父ら、今は亡き名優の胸を借りて演じたことは私の宝である。

今の歌舞伎は播磨屋(初世吉右衛門)の祖父、七世幸四郎の祖父それに六代目(菊五郎)の小父さんたちが、写実を追求する中で歌舞伎に心理描写を取りいれた。ロマンや情緒を嗜好する大正、昭和初期そして戦後の合理主義のお客様に合うよう、古い型にとらわれず、歌舞伎を柔軟にとらえていたのだと思う。

また、祖父たちは十八番物に代表されるいわゆる荒唐無稽な歌舞伎を演じるときはそこに必ず「洒落(しゃれ)っ気」を加えていた。今、私の演じている歌舞伎は若いころの歌舞伎勉強会「木の芽会」で習ったその時代の老優たちの歌舞伎である。

自分が行き詰まるといつも彼ら古老たちの歌舞伎に思いを馳(は)せ、先達たちに問いかける。シェークスピアの「ハムレットのことはハムレットに聞け」ではないが、「歌舞伎のことは歌舞伎に聞け」である。

歌舞伎は文楽でも、能、狂言でもない「歌舞伎劇」なのである。舞台で役者は歌舞伎の踊りを踊り、歌舞伎のセリフをしゃべらなければならない。

私が「魚屋宗五郎」を05年に初役でやった時、芝の明神様の祭りの日の出来事なのに門口に提灯(ちょうちん)がない。お通夜の宗五郎の家の内と、外の祭りの陰と陽の対比が悲劇性を際立たせるわけで提灯をつけてもらったら、稽古を見た芝翫兄さんが「これが正しい」とおっしゃった。以前は提灯があったという。

また殿様に妹を殺された宗五郎が、屋敷に怒鳴り込む場面で「殿のデコスケ」と台本にあった。しかし、原本は「殿の野郎」とあり、私は原本に戻してやってみた。

型を自分勝手に解釈し「セリフも型もかたなし」にするのはダメである。発声も形も歌舞伎の根本にかなっていなければならない。「本当にいい古いものは新しい」。そういうことのわかる人が、日本のいいものを残してきてくれたのである。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(28) 「勧進帳」の弁慶

見たい人の元へ行脚
常に全力、祖父の偉業を実感

一通の絵はがきが私の目を見開かせた。10年前のことで、差出人は沖縄の女子大生。歌舞伎好きの父親が東京までは見に行けないので、沖縄で「勧進帳」を上演してほしい、と書いてあった。

東京で働いておられたお父さんは、父白鸚の弁慶が大好きで必ず見に行かれていたが、沖縄に戻った後、数年前に病に倒れたということだった。

これを読みハッと思った。本当に見たいとおっしゃるお客様のところへ出向いて行って、歌舞伎をお見せするのが大事な歌舞伎役者の勤めだと。こうして私の「勧進帳」行脚が始まった。便りから3年後の2004年(平成16年)11月、那覇市での歌舞伎公演が実現した。沖縄で初めての歌舞伎公演である。

地方を回って、祖父七世幸四郎の偉業が実感できた。祖父は生涯で「勧進帳」の弁慶を1600回以上も演じている。それも都会の大劇場ばかりでなく、地方の公会堂や学校の講堂、古い芝居小屋など様々な場所で演じた。映画館のスクリーンの前にベニヤ板を敷き、花道もないところで弁慶をやったこともあったという。

敗戦後の日本にあって、どれだけ人々を勇気づけたか、そうやって祖父は「勧進帳」を今日の人気狂言にしたのである。

晩年、祖父は心臓に病を抱えていた。ある時、花道を六方で引っ込むと、そこにうずくまってしばらく動けなかった。四天王で出ていた父(白鸚)は、体のことを考えて演じたらどうかと言った。すると祖父は「今日初めて、幸四郎の弁慶をご覧になるお客様もいらっしゃるんだ。そんなことはできない」と答えたという。

私は16歳で「勧進帳」の弁慶を初演してから、半世紀以上を経た昨年の夏、茨城県土浦市の公演まで1046回演じた。この時点で、私の弁慶は全国47都道府県をすべて巡演した。

九代目幸四郎の襲名公演(1981年)での「勧進帳」のビデオを病床にあった父が見て、「ああ、オヤジ(七世幸四郎)の弁慶が残った」と言った。父はきっと祖父の弁慶を知らない私のどこかに祖父の面影を感じたのかもしれない。その父のひとことで私は祖父、父、自分と芸の命をつなぐことができたと思った。

旅公演で三代の弁慶を見てくださった老齢のお客様が終演後、楽屋に訪ねてみえ、涙を流して私の手を握ってくれたこともあった。

 そしてついに08年10月15日、奈良・東大寺の大仏殿の前で、千回目の弁慶を勤めた。満月が空に浮かび、5千人の観客見守るなか、僧侶の声明朗誦(ろうしょう)の後、●(き、きへんに斥)が入り片シャギリの笛と太鼓の音が奈良春日の山々にこだました。東大寺で歌舞伎が演じられたのは初めてのことだった。

私が還暦を迎えた02年、「ラ・マンチャの男」の千回公演達成で永山松竹会長からお祝いの電話をいただき、「幸四郎なら勧進帳も千回やって幸四郎だろう」と言われた。それが東大寺での公演につながった。

力みがあった若いころの弁慶に比べ、最近は弁慶が舞台の上でその一瞬一瞬を生き「今在る我でよし」と思えるようになってきた。いつの日か父のように「弁慶とはこういう人なんだね」と言われる舞台を勤めてみたい。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(27) あるべき姿

「ラ・マンチャ」と一体化
日本にミュージカルの種

「本当の狂気とはなんだ。夢に溺れて現実を見ないものも狂気かもしれない。また現実のみを追って夢を持たないものも狂気だ。しかし、人間として一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために闘わないことだ」

ミュージカル「ラ・マンチャの男」の中でのM・セルバンテスのセリフである。

1969年(昭和44年)4月の帝劇初演以来、一昨年5月の27演まで、出演回数は1149回に達した。

このミュージカルに、私自身、ずいぶん助けられ、励まされた。そして、長い間勤めてきて、この役と自分が一体化したように思えてきた。

実際、初演以来四十数年の間にはいろいろなことがあった。70年、日生劇場の舞台で、ドン・キホーテが鏡の騎士に追い詰められる場面で、後ずさりしていた私が突然、舞台の前面に落ちてしまったのだ。高さは2メートル半くらいあった。

私はとっさに下手の階段から舞台の上によじ登っていった。カラスコ役の井上孝雄さんが私に気づいてくれ芝居を合わせてくれた。お陰(かげ)でお客様は気づかれなかった。

舞台用の靴だったので木製のヒールが折れて助かった。そうでなかったら、骨折していたかもしれなかった。今でも跡が残っている。

母が亡くなった89年8月2日は、「ラ・マンチャの男」の大阪公演の初日だった。舞台がはねてから車に飛び乗り東京へ帰る途中、母の死を聞いた。母の亡骸(なきがら)と対面し、翌日の飛行機第1便で大阪に戻り舞台を勤めた。母は「見果てぬ夢」の歌が大好きだった。その日から千秋楽まで、亡き母のために心を込めて「見果てぬ夢」を歌い続けた。母は65歳で逝ったが、その歌声は母の元に届いてくれていたと信じている。

半面、喜ばしいこともあった。2005年5月には名古屋の名鉄ホールの舞台で、スペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州政府のホセ・フォンテス首相から同州の栄誉賞を授与された。「ラ・マンチャ」の名前を日本中に広めたということで表彰されたのだが、この年は原作の「ドン・キホーテ」が出版されて400年とのことだった。

またミュージカルで活躍する今井清隆君も「ラ・マンチャの男」でミュージカルを目指したと言ってくれた。私が初めて「王様と私」に出た昭和40年ごろは、年に1、2本のミュージカルしか上演されておらず、劇団四季の浅利慶太さんもまだミュージカルには進出していなかった。それが今では、毎日どこかで大小数多くのミュージカルが上演されている。確かに種はまかれていたのだ。

ミュージカル全盛の今日、かつて菊田一夫先生が私に言われた言葉を思い出す。「染五郎君、続けようよ、とにかく続けてミュージカルを上演しようよ」。「ラ・マンチャの男」は、同じ俳優が単独主演し続けているミュージカルの最多日本上演記録を更新中という。

来年も5月の博多座の後、8月の帝劇の公演中、70歳の誕生日を迎える日に1200回目の記念となる。紀保、たか子の娘たちと一緒に、世界でも類のない古希を迎えるドン・キホーテの舞台に立つことになる。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(26) 家族

妻の支えがあってこそ
3人の子供、役者として自立

わが家族を称して「お宅は無駄のない家族だ」と言った人がいる。お陰様(かげさま)で3人の子供は独り立ちし、役者として活動している。

3歳で舞台に立った私は、すでに物心つく前に役者の道を歩んでいた。その上あの時代は、物不足で食べるものも少なく、小学生だったころの一日は学校、稽古、舞台で終わる。一家団欒(だんらん)というものもほとんどなく、自然と笑顔の少ない子供になっていた。今でも写真を撮られる時、「もう少し笑って」と必ず言われる。「親子断絶」という言葉があるが、我が家は「断絶以前」だった。断絶しようにも交流がなかったのである。

そんな自分が結婚して家庭を持ち、家族を持った。妻の紀子がいてくれなかったら、とっくの昔に破滅していたことだろう。自分は、芝居以外、何もしてこなかったし、ほかに何もできない人間である。今あることは、妻が「高麗屋の女房」になってくれたからにほかならない。

長男染五郎が生まれた。目がギョロっと大きく鼻が高かった。ヨチヨチ歩きのころから歌舞伎が大好きで、幼稚園よりも歌舞伎座の楽屋に行きたがった。幼稚園の学芸会「アリババと四十人の盗賊」に出た時は盗賊Cの役。主役でない悔しさからか、油の壺(つぼ)に押し込まれて何度死んでも顔を出してきて生き返る。それが先代萩の刃傷の仁木弾正のような名演技だったと今では我が家の伝説になっている。

染五郎は踊りが好きで、15歳で「鏡獅子」を踊る機会があった。稽古を見てくれた晩年の松緑の叔父が「高麗屋にも弥生を踊る役者が出たな」と言ってくれた。その後は劇団☆新感線と共演して歌舞伎界を覚醒させるなど、エネルギッシュに活躍している。

長女の紀保はキホーテにちなんで亡き父が名づけた。芝居とは無縁の人生を歩むと思っていたが、短大生の時に「リア王」のプロンプターをしてみないかと私が誘ったのを機に芝居に興味を示すようになり、誰にも相談せず英国人演出家デヴィッド・ルヴォーのオーディションを受け、「チェンジリング」の舞台で女優デビューしてしまった。

今も芝居好きの仲間に誘われて小さな芝居に出る機会に恵まれ、私の創作劇での活動を継いでくれている。芝居を客観的にとらえる観察力と批評眼があり、「アマデウス」や「ラ・マンチャの男」では私の演出助手も務めてくれた。

末娘のたか子は小さいころから手のかからない子だった。いつの間にか大人になり、ごく自然に女優(当人は一大決心をしたらしいが)になった。何年か前、ギター好きの私にマーティンのアンティークギターをプレゼントしてくれた。が、それには、なんとギタリストの彼までついていて、今も夫婦仲睦(むつ)まじく実家を訪ねてくれている。

最近では私も「染五郎の親父」とか「松たか子のお父さん」などと言われ、うれしい反面、また役者の世界は親兄弟、そして我が子さえも強力なライバルとなる。親といえどもうかうかしてはいられない。

したがって、今まで役者幸四郎としてやってきた自分としては「なお、やってやろう」という心意気とともに、「負けない強さ」をもって日々精進してゆきたいと思っている。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(25) 梨苑座

芸の鬼・仲蔵を追い結成
物語さながら不思議な体験

中村仲蔵という江戸中期の歌舞伎役者が前から気にかかっていた。彼は下積み役者からはい上がり、後に大立者(おおだてもの)になった人物である。「仲蔵ぶり」「仲蔵狂乱」という言葉を残した。

有名なのは「仮名手本忠臣蔵」5段目「山崎街道の場」の定九郎(さだくろう)。どてらを着たやぼったい山賊の格好だったのを、白塗り、着流し姿の浪人が朱鞘(しゅざや)の一本差しに破れ傘で見得(みえ)を切る、粋な色悪(いろあく)に変えてしまった。真っ白な胸元を血のりで濡(ぬ)らす悶絶(もんぜつ)の表情は絶大な人気を博し、今は誰がやっても定九郎は仲蔵の型だ。つまり彼は250年たった今も生き続けている。

芸の鬼だった仲蔵が夢見たであろう歌舞伎。そんな「演劇としての歌舞伎」を追求していきたいと「梨苑(りえん)座」を結成した。昔あった若手勉強会「梨苑会」から名前を採った。梨苑座第1回公演が、2000年(平成12年)9月の「夢の仲蔵」(日生劇場)で、私が九代琴松(九代目幸四郎の九代と俳号の琴松からとった)の名で演出もした。

作家の荒俣宏さんに歌舞伎台本をお願いした。市村座の楽屋を舞台に、私が演じる仲蔵と、染五郎の五世団十郎との生き方、芸を対比させる形で展開する。「山崎街道の場」や「蘭平物狂」「道成寺」などを劇中劇として入れた。

荒俣さんとは、早稲田大学の演劇博物館などを探訪する雑誌の企画で知り合った。荒俣さんのお父さんは歌舞伎座の前で交通事故で亡くなり、また私が仲蔵に関心があると言うと、荒俣さんもそうだと意気投合したのが縁だった。

02年12月は第1作に手を入れ、続編「新・夢の仲蔵」を上演した。仲蔵が名門の団十郎に抱くライバル心、屈折感などを際立たせた。

続いて03年5月には、「夢の仲蔵千本桜」を新橋演舞場で上演した。斎藤雅文さんの作で、座頭になった仲蔵が、森田座の顔見世興行で「義経千本桜」を出すが、役者の間に不満が渦巻き、次々に奇怪な事件が起きる話だ。

実際、「夢の仲蔵」では不思議なことが起こった。当時の役者の楽屋髷(まげ)の形がわからなかった。錦絵にも残っていない。考えあぐねていたのだが、ある夜、夢の中に仲蔵らしき大首絵の役者の顔が現れ、「俺の髷はこれだよ」と言った。ぱっと目が覚めて、その髷を急いでスケッチし、床山に回して、役者髷を作ってもらった。

「仲蔵千本桜」では、劇中劇の「碇知盛(いかりとももり)」の舞台稽古で、平知盛が後ろへ背ギバで倒れ入水(じゅすい)するスペースのないことがわかった。皆が頭を抱えているところへ橋本幸喜プロデューサーが飛んできて、「仲蔵は後ろに飛び込んでいない、という記録が残っていました」と言った。そこで知盛が碇を差し上げ見得をきり幕という仲蔵の型で問題解決した。

またカーテンコールの時、「千鳥の合方(あいかた)」を使ったが、拍手の中、下手の方で「チンチリ、トチチリ……」と「千鳥の合方」を鼻歌風に唄(うた)う役者の声が聞こえた。後で「今、誰か唄ってたけど、お客様に失礼だし、いけないよ」と役者たちをたしなめたら、「誰も唄ってません」という。思わず皆顔を見合わせてゾッとした。

「夢の仲蔵」シリーズは一応3作で打ち止めとし、梨苑座の精神は、江戸川乱歩の「人間豹(ひょう)」を歌舞伎化した国立劇場での「乱歩歌舞伎」(08、09年)に引き継がれた。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(24) シアターナインス

創作劇を相次ぎ上演
喜劇の味、歌舞伎に生きる

私はいわゆる新歌舞伎と言われているものをやった時、役者として自分の中に、どこかしっくりしない未消化な部分が残る。わずか4、5日の稽古で幕をあけ、もっと稽古をと言えば煙たがられ、結局不完全なまま幕をあける。

しかし、私としてはその一切合切を引き受け、大げさにいえば、日本の役者の質の高さを信じて今まで毎日勝負してきたと思っている。そんな中で、ジャンルにとらわれない良質な演劇を発信したいとの思いを形にしたのが、創作演劇集団シアターナインスだった。九代目幸四郎の九代目にちなみ命名した。

20歳の時、石川啄木を描いた菊田一夫先生の「悲しき玩具」に出たが、これが私にとって初めての現代劇主演だったこと。また寺山修司さんと対談し、日本の創作劇の必要性に目覚めたこと。それらがシアターナインスのルーツになっているように思う。

三谷幸喜さんとの出会いが長年の夢を具現化する転機となった。翻訳劇のように欧米をまねた「赤毛もの」ではなく、日本の創作劇である「黒毛もの」の舞台を創ろうと意気投合、1997年(平成9年)、「バイ・マイセルフ」(パルコ劇場)でシアターナインスの活動を開始した。

きっかけは三谷さんの脚本で私が主演したフジテレビ系連続ドラマ「王様のレストラン」(95年)で、この時に売れっ子の三谷さんに無理やり新作をお願いしてしまった。

「バイ・マイセルフ」(山田和也演出)は息子の染五郎との二人芝居だった。私が演じる伝説的な名優の自伝を書くゴーストライターとして、染五郎演じる若いルポライターが訪ねてくる。しかし、「ウソをつく商売」という俳優の性(さが)から、とんでもない身の上話にエスカレートするという喜劇である。シェークスピアでは主に悲劇をやってきただけに、軽妙な喜劇も幸四郎のレパートリーに加わった。

2作目が98年、大河ドラマ「黄金の日日」で仕事を一緒にした今は亡き市川森一さんの「ヴェリズモ・オペラをどうぞ!」(遠藤吉博演出)。3作目が99年、再び三谷さんの「マトリョーシカ」だった。4作目は2001年、5周年記念で岩松了さんが作・演出した「夏ホテル」、03年にはマキノノゾミさん作・演出の「実を申せば」を上演した。

演劇の世界で新作を続けるのはリスクが高い。「実を申せば」で共演した杉浦直樹さんに、「創作劇を続けて上演するなんてあなたは勇気がある。どんな作品が生まれてどうなっていくかわからないのに」と感心された。この時は詐欺師を演じた。喜劇役者としての自分の持ち味は、後に初役で演じた数々の歌舞伎の世話物にも生かされているような気がする。

65歳を迎えた07年は、10周年を記念する「シェイクスピア・ソナタ」で、岩松さんに作・演出をお願いした。シェークスピアの四大悲劇を取りこんだもので、チェーホフが見たシェークスピア、といったような面白いものが出来上がった。

私はシアターナインスの初回プログラムにこう書いた。「役者に引退はありません。お客様に忘れられた時が引退なのです」。その気持ちは今も変わっていない。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(23) 俳句

役者の宿命・魂が凝縮
難しい「セリフの間」教わる

「キホーテと五十路の旅の青しぐれ」

50代の時に「ラ・マンチャの男」の公演の最中に詠んだ句である。私の俳句は、役者幸四郎の労働句だと思っている。笑い話のようだが、日々舞台に立ち、膨大なセリフをしゃべり続け、舞台を終えると、心身ともにへとへとになって、五・七・五の17文字くらいしかしゃべれないのが現実なのである。

俳句をやるようになったのは20代後半からだった。

「ベゴニアを植ゑて涼しきテラスかな」

私が初めて作った句で、亡き母が添削してくれた。新婚のアパートの12階に妻と2人で住んでいた時、テラスが殺風景だったので、自分でレンガの花壇をこしらえ、ベゴニアを植えたことを詠んだ。

私の俳句の師匠は母だが、母の師匠は父親である初世中村吉右衛門、そして祖父は高浜虚子先生から薫陶を受けた「ホトトギス」の同人であった。思い出に残る祖父は、洒落(しゃれ)っ気があり、疎開先の日光で、裏山で拾った薪を幼い私に背負わせ、ついでに本を持たせて二宮金次郎の銅像を気取らせてみたりした。

祖父の句に「雪の日や雪のせりふを口ずさむ」というのがあった。中学生のころは、功成り名を遂げた名優がコタツにあたりながら詠んだ風流な句というような感じしか持っていなかったが、父の死をみとって大阪の襲名披露公演に戻る機中、ふいにその句が口をついて出た。実は自分が今出ている舞台で、雪のセリフをしゃべっていることに気がついたのである。祖父のその句は雪が降っても、親が死んでも、舞台でセリフをしゃべっている役者の宿命を詠んだものだったのだ。

江戸時代から歌舞伎役者は皆、俳号を持ち、それを芸名にもした。梅幸、訥升(とつしょう)などがそうである。ちなみに幸四郎の俳号は錦升である。今では次女のたか子も俳句を詠むようになった。「打ち出して銀座は薫る月の道」。彼女がオフィーリアを勤め終えての帰路に詠んだ句である。

「アマデウス」を1993年(平成5年)、サンシャイン劇場で再演した時、宮廷楽長役が俳句好きの林昭夫さんで、彼が幹事役となって「アマデウス句会」ができた。参加者が課題句と自由句を提出し、全句を一覧表にして皆が点数投票するもので、結果が発表された後、楽しい飲み会となった。「アマデウス句会」は98年まで4回開催した。

折に触れて詠んだ句が積もり積もって、これまでに「松本幸四郎の俳遊俳談」と「句集 仙翁花」という俳句の本を2冊出した。また詩人の大岡信さんが、新聞の「折々のうた」に「幾千の木漏日いだき山眠る」という句を選んでくださったこともあった。

何気なく胸に浮かんだ言葉が、その時の自分を表していると思うので句はほとんど推敲(すいこう)しない。俳句は無駄をそぎ落とし魂そのものを取り出してみせる。セリフはしゃべっている時より、しゃべっていない時の方が難しい。長い間(ま)、短い間、息を吸う一瞬の間、その沈黙のほんのかすかな空白に何をどう表現するかが、役者の生命でもある。わずか17文字にすべてを凝縮する俳句は、言葉を扱う商売でもある役者に、必要な「セリフの間」を教えてくれる。

「絵を描いている時と句を詠んでいる時が一番楽しそう」――長年連れ添った妻はそんなふうに言っている。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(22) 次の王様

英から指名、現地で主演
ブリンナーの激励が現実に

日本人が外国人俳優に交じって英語で主役を演じる。27歳の時に「ラ・マンチャの男」でブロードウェーの舞台に立ったが、こんな苦しいことを2度も経験するとは思ってもいなかった。というのも1990年(平成2年)、48歳になった私が英国に渡り、現地の俳優と一緒にミュージカル「王様と私」の王様を演じることになったのだ。

この企画は英国の演劇プロデューサー、R・S・リーさんが持ち込んだ。リーさんはユル・ブリンナーの「王様と私」で、皇太子役で出演した経験があった。ブリンナーの強烈な個性を超える俳優、と私を名指しで望まれた時、実は私しか知らない運命的な出来事があったのだ。

「王様と私」は65年、22歳でミュージカルに初出演した思い出の作品だ。80年までに出演回数は270回を超えたが、84年、東宝から「次の王様役が他の人に決まった」と告げられた。私は「それが日本のミュージカルのためになるなら」と了承したものの、突然でもあり、何か裏にあるなと感じたが、そんなことはおくびにも出さなかった。

自分なりに「王様と私」に決別しようと、翌年、ブリンナーの舞台を見るためニューヨークに行った。現地で「レストラン日本」を経営する倉岡伸欣氏がブリンナーと親しく、観劇後、会食を設営してくれた。ブリンナーに、自分はこの役を降ろされたと言うと、彼は私の手を握って、「次の王様は君だよ」と激励してくれた。そして、なんと、それから5年後、英国での公演話が舞い込んだのだ。

90年8月に渡英、約1カ月の稽古後、9月下旬から翌年の3月末までエジンバラ、ブラッドフォード、グラスゴー、バーミンガム、ロンドンと各地の劇場で上演した。思えば半年間、207ステージに及ぶ長いツアーだった。

相手役のアンナはスーザン・ハンプシャーさんという有名な舞台女優だった。彼女は大の日本びいきで、私がブロードウェーで演じた「ラ・マンチャの男」も見ていた。失読症というハンディを克服した彼女は、私が英語のセリフで苦しんでいるのを見て、「病気と闘った時の私と同じね」と元気づけてくれ、彼女の好物の揚げ豆腐を昼食に差し入れてくれた。

グラスゴーの初日、2幕の途中でカーテンが燃え上がって公演がストップ、出演者全員が衣装のまま近くの駅へ避難した。バーミンガムでは20年ぶりの大雪で、土曜の昼夜公演が中止となった。劇場から一人でタクシーに乗ったら突然ドライバーが「この間、あんたの舞台を見た。素晴らしかった。遠い日本からきて頑張っているのだから、タクシー代はいらない」と言った。思いもかけない温かい言葉に、つくづく英国で「王様」を演(や)ってよかったと思った。

実は英国滞在中に岳父が亡くなった。家内はリハーサル中に知らせを受けたが、初日前の私を思って自分一人の胸に秘め、初日を開けてから私に告げた。バーミンガムに移ってから、クリスマス休暇の3日間の休みを利用して、お線香をあげに東京にトンボ返りした。やさしかった内科医の岳父は、私が体調を崩した際に、よく注射を打ってくれた。結婚する時、私の実父と同じように、「僕は昭暁君を信じている」と言ってくれたことも忘れられない。

(歌舞伎俳優)

松本幸四郎(21) 「アマデウス」

天才相手の苦悩に共感
現代戯曲「世阿弥」が米国公演

さる15日、今年の「アマデウス」のツアーを豊橋市のアイプラザ豊橋で終えた。上演回数は438回になった。

20世紀に書かれた最高戯曲の一つ「アマデウス」に出会ったのは、父が亡くなった1982年(昭和57年)、不惑の40歳を迎えた時だった。英国のピーター・シェファーの作品で、79年にロンドン初演、81年にトニー賞を受賞した。ロンドンとニューヨークで舞台を見た松竹の永山武臣副社長(当時)は、宮廷作曲家サリエーリは幸四郎以外にいない、と思われたという。

戯曲を読んだ時、何と深く難しい芝居だと思った。ウィーンの宮廷で出世したサリエーリの前に、神の寵児(ちょうじ)モーツァルトが現れる。野卑で行儀の悪いモーツァルトが世にも美しい音楽を創造することに憎悪の念を燃やし、神との闘いを決意してモーツァルトを死に追い込む話だ。神対人間、天才対凡人という普遍的なテーマに卑小で平凡な事柄を織り交ぜ、非常にダイナミックでかつ緻密な構成だ。

演出に英国からジャイルス・ブロックさんを招き、6月、東京・池袋のサンシャイン劇場で幕を開けた。モーツァルトは江守徹さんが演じた。

実は、文学座の江守徹さんが「アマデウス」を気に入って、上演を前提に自分で翻訳をしていた。ところが、松竹が先に日本での上演権を取ってしまっていた。松竹のプロデューサーだった寺川知男さんがその翻訳を読んだ上で、本当はサリエーリをやりたい江守さんに、作品を熟知しておられるからとモーツァルトをお願いした経緯があった。

「アマデウス」は毎日芸術賞を受賞。その後も再演を重ね、2004年(平成16年)からは私が演出を手掛けさせていただき、今回、7年ぶり11度目の公演を行った。

サリエーリが持つ苦悩や嫉妬は、これまで自分が生きてきた役者の世界にも通じ、我が姿を見るような芝居だ。日本の現代戯曲として定着するよう、これからも上演を続けていきたい。

「アマデウス」に相当する手応えを感じた舞台が、87年の山崎正和作、末木利文演出「世阿弥」である。初演は63年だったが、新劇団協議会創立30周年記念公演として新たに企画されたもので、父と親交があった福田恆存さんからの指名であった。世阿弥が権力者の足利義満に翻弄される姿は、歌舞伎役者である自分の姿が反映されているようであり、古典演劇に生きている自分がやることに意義があると思って受けることにした。

情緒ではなく、論理で構成された点で珍しい日本の現代戯曲であるとも感じた。

日本の芸は、余分なものをそぎ落としていき、その究極に真の芸の世界を拓(ひら)くものと思っている。この2作品との出会いが、改めて西欧と日本の演劇の違いについて考えるきっかけになった。

この「世阿弥」は88年秋に米国のセントポール、ミルウォーキー、シカゴの3都市で上演された。ブロードウェーでの「ラ・マンチャの男」以来、18年ぶりの米国公演になった。90年にはミュージカル「ZEAMI」となり、神戸で初演された。

私は、舞台については歌舞伎、ミュージカル、現代劇(シェークスピアなど外国劇も含む)の3本柱でやってきたが、そんな中で、日本の創作劇に何か自分が貢献できることはないかと思い始めた。

(歌舞伎俳優)