寺澤芳男(17) 野村を退社

副社長業務、退屈で嫌気
新設の国際機関長官に転身

1985年に私は副社長になっていた。東京での副社長の仕事は面白くなかった。実務は常務以下が仕切っているから現場には入れない。社長の名代で外国からの賓客の接遇をすることなどが多く、そういうことにもうんざりしていた。力を持て余し鬱々とした毎日を送っていた。

私が初めて書いた本「ウォール・ストリート日記」はそんなころに出版された。ニューヨークでの生活を書いたエッセー集だ。ニューヨーク・アスレチック・クラブという男だけのクラブのプールでルールに従い、スッポンポンで泳いでいたことなどを読者は面白がってくれた。ニューヨークでは泌尿器科のドクター・ジョージ・ナガマツが毎朝6時半に家に迎えに来てくれて一緒に泳いでいた。

出版と同じころブラックマンデーと呼ぶ米国株の大暴落があって、ウォール街は一躍日本人の注目の的になっていた。本の売れ行きはよく、20万部近く売れた。

この本をきっかけに新聞や雑誌からエッセーの注文が来始めた。つまらない会社の仕事のうっぷんを晴らすように原稿を書いた。

大蔵省の行天豊雄財務官から電話があった。彼は早稲田大学政経学部で1年間だけ同級生で、その後東大に入り直した。「今度ワシントンに新しい国際機関ができる。長官をやってほしい」。その国際機関は多国間投資保証機関(MIGA)といい、発展途上国に向けた先進国の民間投資を促すために、通貨送金や戦争など途上国のカントリーリスクの保険を引き受けるのだという。

宮沢喜一蔵相はMIGAの長官に日本人を送り込むことを熱望していた。外務省と大蔵省、通産省がそのポストを狙って激しく競っていたらしい。しかし国際機関ではおしなべて官僚出身者の評判はよくない。欧米のように民間金融機関のトップ級が望ましいと判断したようだ。

ただこの時は一つだけ気がかりなことがあった。それは英語の問題だ。世界銀行などの国際会議には何度も出て、各国の代表者は明日から大学の教授になってもおかしくないほど優秀な人々であることを知っていた。そういう人々を相手に私の英語が通用するか自信がなかったのだ。

しかし私は熟慮するタイプではない。熟慮すればよい考えが浮かぶとも思わない。何事もエイヤと即決する。

このまま野村証券に残っても、社長になる目はまずない。それではあまり仕事のやりがいはない。副社長と社長の距離は地球の直径よりも遠い。それより好きなアメリカにもう少し住むのもいい。ワシントンはニューヨークとは違う住み心地だろう。これは私にとって素晴らしいチャンスだと思った。

行天君と2人で各国の財務長官や大蔵大臣に宛てた宮沢蔵相名の手紙を書いた。私がウォール街の経験が長い民間人であり、MIGA長官に推薦するので認めてほしいという内容である。経歴を具体的に書いたのがよかったのか、どこの国からも異論は出なかった。

88年7月4日、ワシントンに赴任した。アメリカの独立記念日である。その4日前に野村を辞めた。新しい人生が始まる。MIGAの初代長官ということだが、一体どんな仕事が私を待ち受けているのだろう。

(元米国野村証券会長)

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