寺澤芳男(16) バブル経済

国内営業手法に違和感
「いずれ国際派の時代に」信じ

米国野村証券会長の務めを終えて帰国する日がやってきた。1987年1月、ケネディ空港からジャンボ機で東京に向かった。ニューヨーク勤務は通算16年。34年間の会社生活で私は本社の国際部門とニューヨークしか知らない。社内の「国際派」と呼ばれる人々の中でも異例だった。

長いアメリカ生活では常に日本との時差に悩まされた。ある時、痛飲して熟睡していた夜中に仕事の電話でたたき起こされた。ところが朝起きると、どんな内容だったかさっぱり覚えていない。伊藤正則さんというこわもての上司からの電話で、しまったと思った。

日米の取引方法の違いも悩ましかった。アメリカの客から日本株の「逆指し値」の注文を受けた。例えば500円で買った株が400円に下がったら、それ以上損が大きくならないように売る注文である。ところが当時の日本では株価が下がったら売るという注文を受ける仕組みがなく、値下がりしても注文を執行してくれなかった。その客が1カ月の出張から戻ってきたときには再び株価が上がっていて胸をなで下ろした。

帰ってきた日本はバブル経済の真っただ中で野村の業績も絶好調だった。しかし、国内の営業方法には内心、違和感を覚えた。例えばその頃、現在は禁じられているが、ある銘柄を推奨し、それを営業部門が腕力でお客に大量に売りさばいていた。証券会社にとっては効率がいい方法だったが、どんな銘柄を買うかはお客が選択すべきだ。

国際部門は当時の風潮を冷ややかに見ていたが、証券会社は「ペロ」(注文伝票)を何枚切るかが一番の世界。社員の給料やボーナスを稼ぎ出している営業部門に多少の負い目もあった。それでも、国際部門の人間は「いずれ我々の仕事が中核になる時代がやって来る。その時には国内営業を食わせてやろう」と強烈な自負心を抱いていた。

野村の経営者には戦前から国際業務がいずれは重要になるという認識があった。野村の国際化を引っ張った2人の先達がいた。

奥村綱雄さんは私が入社した時の社長だった。外国人の来訪者があると呼ばれて通訳をした。太ぶちのメガネの底で笑っているように見える目も、本当は油断できない光をたたえていた。社長を瀬川美能留さんに譲ってからは国内営業には一切関わらず、世界の野村をめざして欧米を何度も訪問した。明るい性格は海外でも高く評価された。

後に会長となる相田雪雄さんは大学でも7年先輩で、国際本部をリードしていた。東京、ニューヨーク、ロンドンの電話番号が入った日本ではあまり使われていない小型の名刺を愛用していた。演劇、競馬、読書をこよなく愛し、その読書量は想像を絶するものがある。野村にはまれに見る文化人で、人生の先輩として尊敬している。

野村は仕事は厳しかったが、学閥もなく、とても自由な会社だった。20代のころ、留学帰りの私と同期の江頭啓輔君が瀬川社長に「社内に海外留学制度をつくるべきだ」と進言した。瀬川社長はその場で決断し、社員の留学経費をひねり出すために役員専用車をすべて外車から国産車に切り替えた。そんな度量の広い会社だったから、私のような国内派からみれば変わった人間も受け入れられた。

(元米国野村証券会長)

相田雪雄氏(右端)らと(1959年、右から3人目が筆者)

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