寺澤芳男(13) 外国株上場

「GM主幹事」へ本社詣で
野村創業家の縁結びに一役

第1次オイルショックの渦中にあった1973年12月、東京証券取引所に初めて外国株が上場した。それは私たち国際部門のかねての念願だった。71年に日本の個人投資家の外国株投資が自由化され、外国株を日本に根付かせる必要があったからだ。

我々はアメリカの大企業に東証上場を働き掛けた。最大のターゲットはゼネラル・モーターズ(GM)だった。当時のGMは「株式市場のジョン・ウェイン」ともいえるアメリカを代表する企業だったからだ。上場主幹事の獲得という名誉をかけて野村、日興、山一、大和の4社が激しく競争し、GM詣でを続けた。

私は後に第二精工舎(現セイコーインスツル)の社長となる服部一郎さんにGMの株を買ってもらい、ご夫妻でデトロイトで開かれたGMの株主総会に出てもらった。総会は午前から夕方まで続いたが、ご夫妻はずっと付き合ってくれた。GM社長にも面会してもらい、株主には日本人もいることを大いにPRした。74年12月、GMは野村が主幹事を務めて東証上場を果たした。

服部さんは私と同学年で、彼がイェール大学に留学していたころに知り合った。服部さんが87年5月に急死した時、友の死がこれほどショックであるとは思ってもみなかった。

私は74年11月、本社の取締役に選任された。野村の新役員は全員で京都へ行き、創業者の野村徳七翁のお墓参りをする。その後、南禅寺にある野村別邸の碧雲荘で、大奥様(野村徳七夫人)から藪内流の茶道具一式が新役員の夫人に手渡された。

野村家には徳七翁の孫に当たる3人の息子さんと一人の娘さんがいた。嫡子である野村文英さんは当時、米国野村のサンフランシスコ支店長だった。私より3つ年下で、ニューヨークに同じ時期に住んでいたこともあり、非常に親しい仲だった。

文英さんは妹の雅壽子さんのために背の高い男性を捜していた。雅壽子さんは身長が高かったから、できれば180センチメートルぐらいの男性がよいという。早稲田時代のゼミ仲間に山岳部の鬼頭萬太郎君という心の広いよい男がいて、その条件にあったので紹介した。とんとん拍子にことが運んで雅壽子さんは萬太郎君と結婚した。披露宴はホテルオークラで行われ、京都から出てきた大奥様は目を潤ませていた。

碧雲荘は野村徳七翁が28年、南禅寺境内の約5000坪の土地に建てた別邸で、東山を借景にした園池に能舞台、茶室などがある。琵琶湖疏水(そすい)から水を引いた池にはドイツから取り寄せた2羽の白鳥が浮かぶ。我々国際部の関係者は欧米からの客をよくここでもてなした。純日本式の大広間に祇園の芸妓(げいこ)や舞妓(まいこ)を呼ぶ宴席は豪華なものだった。

ニューヨーク証券取引所の理事長夫妻を碧雲荘に招いた席には大奥様も顔を出し、「孫の文英がニューヨークでお世話になりました」と挨拶をした。文英さんがよほどかわいかったようだ。

文英さんとはゴルフも酒もいつも一緒で、お互いの友情に満足していた。昨年11月の碧雲荘での会食がまさか最後になろうとは。文英さんは今年3月に76歳で亡くなった。

(元米国野村証券会長)

GMの幹部と(右端が筆者。右から3、4人目が服部夫妻)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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