寺澤芳男(8) 留学生活

勉強の合間に演歌英訳
隣の小林陽太郎君は模範生

シアトルまでは2週間の船旅だった。その間に私は25歳になっていた。胸のレントゲン写真を手に上陸。高速道路なるものを見たのは初めてで、陸橋の上を車が走っているのでびっくりした。寝台列車で3日間ゆられてアメリカ東部、フィラデルフィア市に到着、ペンシルベニア大学の大学院ウォートンスクールに入学した。

大学の授業が始まった。まず感じたのがリーディングアサインメント、つまり授業の前準備の読書が大変ということだ。アメリカのクラスメートが10ページ読む間、こちらは辞書を引き引きなので、1ページがやっと。膨大な英文を毎日読まされて、死ぬほど憂鬱だった。

しかし、アメリカ人の親切さとわが外向的な性格が自分を助けた。最初はジェイコブスという牧師さんの家に下宿したが、教会やサンデースクールには積極的に出かけた。仙台から来た同じ下宿人は「バスに乗ったら隣にだれも座らなかった。ぼくが黄色人種だからだ」と深刻に語ったが、自分は差別を受けているといった意識はなく、割と自然にコミュニティーに入っていけた。ゼミの先生の奥さんが日本の演歌に興味があって「日本歌謡曲集」を英訳してほしいというので、毎日せっせと「明治一代女」や「別れの一本杉」などを英語にした。

しばらくして大学の寮に移った。同じ寮に慶応出身の小林陽太郎君がいた。小林君は男の私からみてもいい男で、我々は「光源氏か三田のコバヨか」とはやしたてたものだ。ただ彼自身はとにかく真面目で、英語づけの毎日を送っていたと思う。

私はというと、彼に合わせる顔もなく、当時酒を飲んでストリップ劇場から夜遅く帰ると、こそこそ逃げるように同じ寮の隣の部屋に戻った。寮は3人部屋で小さなベッドルームこそ別々だったが、落ち込んでいる私をルームメートのトムとジョージはやさしく慰めてくれた。英語の発音も徹底的に教えてくれた。そのせいもあり、遊びもよくしたが、勉強意欲がなくなることはなかった。

1957年のある晩、インターナショナルハウスで小林君たちとジャパンナイトを催し、多くのアメリカ人が押し寄せてきた。彼が東京から持ってきたお父さんの羽織袴(はおりはかま)を私が着て司会を務めた。その時にカーティス音楽学校でピアノを専攻していた江藤玲子さんが日本でポピュラーなアイルランド民謡などを舞台で演奏してくれた。玲子さんとはニューヨークでデートした甘酸っぱい思い出がある。

フィラデルフィアの大学生活が終わると、ありがたいことに野村証券ニューヨーク勤務となった。独身でカバンひとつでニューヨークに移り、あの世界貿易センター(WTC)があった場所の近くで仕事をし、夜はコロンビア大学へ通った。地下鉄の駅も、よく立ち寄ったブルックスブラザーズ(洋服屋)も、ピザ屋もすぐそば。当時WTCはまだ構想段階だったが、その後、深い深い地下の建築現場を覗(のぞ)き、完成した2棟を眺める日々を過ごした。

2001年9月11日夜、東京で火曜サスペンスを見ていたら臨時ニュースのテロップが映し出されたのでCNNにした。信じられない映像が飛び込んできた。そのWTCに飛行機が突っ込んでいるのだ。心が震えた。

(元米国野村証券会長)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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