寺澤芳男(7) 外国部に配属

米国人宅に突撃営業 
同期の言葉に発奮、留学決意

1954年4月1日、野村証券の入社式。長身痩躯(そうく)でハンサムな男が一人、皆と群れないで窓際で分厚い洋書を読んでいた。「私は慶応の経済を出た江頭啓輔です。6月からプリンストン大学に行きます」。当時アメリカへ行くということだけで驚天動地だったから感動した。

50年代、外国人の直接投資にかかわる規制が少しずつ緩和された。外国人保有の株式などについて、売り代金を円からドルに換金できるという保証がつき、野村の日本橋本社の店頭にもアメリカの軍人らが現れるようになった。彼らを顧客に営業するのが外国部で、私はそこに配属された。以後、野村を副社長で辞める88年まで本社の外国部とニューヨークしか経験しなかったという変わった経歴となる。

野村はこの時すでに盛んにセールス、セールスという言葉を使っていた。私はおもにアメリカ人相手に株式の勧誘などをした。朝8時に会社で打ち合わせし、東京・信濃町の外国人住宅街に出かけていく。上司からは「とにかく外に出ろ」とハッパをかけられた。アポもとらない突撃営業。今から思うと非常に失礼、無知なやり方で、奥さんに怒鳴られたこともあったが、同僚とペロ(注文伝票)を何枚切れるかを競い合った。

これも今なら許されない。東京・祐天寺にあったアメリカンスクールの保護者名簿を入手、英語で日本株投資の手引書のようなものを作り、名簿に載っている住所に次々と送りつけた。しばらくしてから電話攻勢をかける。途中で電話を切られることしばしばだったが、中には話を聞いてくれ、アポをとれる場合もあった。夕方5時に戻って結果を報告、それから同僚らとマージャン・飲み屋に繰り出す。営業成績はトップだったが、生活は徐々にすさんできた。徹夜マージャンと酒におぼれていた。

江頭君が1年後帰国し、外国部に戻ってきた。ある日、フルブライト留学生の申込書を私に渡す。「これからの証券マンは英語を話せるだけではだめだ。国際人としての教養を身につけるべきだ」。彼の言葉で目が覚めた。仕事をきっちりしながら英語も勉強し直す。そこで英字新聞を2部買い、夜スクラップブックの左に新聞の裏表すべての記事・広告を貼り付け、右側に日本語訳を書くという作業を始めた。営業で電車などの移動時間には英単語を毎日50ずつ覚える。56年3月にフルブライトの奨学金の合格通知を受け取った。

同年8月30日。横浜から日本郵船氷川丸で米国シアトルへ。母の日記は「その日がやってきました。雨の中をたくさんの見送り人、芳男さんの晴れやかな今日の出発。初めて見る氷川丸の中、何事も驚くばかり一等船室」とある。

ニューヨーク・ジュリアード音楽院に入学予定の日本人バイオリニストが毎晩コンサートを催してくれた。ただ船が上に下に右に左に相当揺れたので、強烈な船酔いを経験し、三日三晩何も食べずに二段ベッドの上で頭のすぐそばの天井を見て横になり、逃げ場のない太平洋に浮かんだ船の中で閉塞感に悩まされた。それでも未知の世界への期待はしぼまなかった。

野村では外見も中身もジェントルマンそのものの英国派・江頭、庶民的でフランクな米国派・寺澤としゅん別され、二人で国際関係の仕事を分担させられた。

(元米国野村証券会長)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。