寺澤芳男(5) 早大入学

学生運動、母を思い断念
友人とナンパ、屋台で安酒

10代半ば、佐野にいた私は無性に東京に住みたかった。学校の制度が変わり、戦前の5年制の旧制中学が3年制になり、新たに3年制の新制高校ができた。早稲田は付属の新制早稲田高等学院を1年生から3年生まで募集していた。3年の編入試験を受け、合格した。

そのころ東京は住宅難で住むところがない。遠い親せきを頼って池袋の立教大学の近くの家においてもらった。一軒四間の家に7人が住むことになった。

私は朴歯(高げた)をはいて豊島区千早町から早稲田まで歩いた。1時間かかった。田舎ではよく歩いていたので苦労とは思わなかった。ただ東京っ子の友達に「寺澤、東京には電車があるんだぞ」とからかわれた。冬の夜は隙間風で寒く、半分屋外にある風呂桶(おけ)で体を温めてから一合の熱い酒を飲み、夕食のあとすぐ布団にはいった。そうしても寒くて体が凍えて寝られない。

絹ちゃんという一回り年上の女性が横に寝ていた。足を揉(も)んでくれた。ふすまを隔てた隣に新婚の夫婦がいた。絹ちゃんの親切はありがたかったが、誤解されるのが怖かったので、「いいです」と言って無理に目をつぶって羊の数を数えながら寝た。だいぶ後になって靴磨きもしてくれていたことを絹ちゃんの弟さんから教えてもらった。

1950年、高等学院から早稲田大学第一政治経済学部経済学科に入学した。当時、アメリカとの単独講和をすべきかどうかで学内が荒れていた。左翼の学生も普通の学生も時の権力に対抗して反対運動に走る。早稲田にはそういう気骨のある青年がそのころはたくさんいた。警察の今でいう機動隊員がブーツで足を固め、警棒を片手に学生たちを検挙した。黙秘権を行使して名前を語らない学生の黒い学生服の背中に白いチョークで背番号のような数字を書いた。左翼もそうでない学生も今まで歌っていた革命歌のインターナショナルをいつの間にか校歌「都の西北」に変えた。肩を組み合って大声で歌った。それが警察に対する学生のできる最大限の抗議だった。

ある日、岩波書店「世界」編集長吉野源三郎さんが法学部の教室で講演をした。「君たちは行動に移らなければならない。早速郷里へ帰って駅前などで演説会をしなさい」と言った。単独講和に反対だった私はこのまま学生運動に飛び込むべきか悩んだ。法学部のトイレの鏡で自分を映し出すと、「アカにならないで」と訴える母親の顔が映る。保守的な佐野で育った母はこんな表現しかできなかった。母を説得する自信はなく、活動はあきらめた。

正しい生活と幸せな生活とは必ずしも一致しないと思った。正しい生活とは自分の信念に基づいて行動することであり、幸せな生活は特に親や家族を思い平和で安定した生活をすることである。私にはとても正しい生活はできない。母親を大事にしてくれる妻をめとり、平凡な一生を暮すことが私にとっては幸せな生活なのである。

ただ、品行方正だったわけではない。大学の図書館の前で悪友と会って新宿へ行き、新宿御苑で知らない女性の後をつけてナンパした。金がないから西口の屋台で安い焼酎を飲んだ。今考えると貧乏な、しかしいつも将来に明るい夢を抱いた青春の真っただ中にいた。

(元米国野村証券会長)

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