寺澤芳男(3) 小学校時代

お節介、授業中の「声かけ」 
毎年級長争い、運動は不得手

小学校4、5年生のとき、国語の時間に変わったことをし続けた。三根博雄先生が教科書を朗読すると、私はページが終わりそうになるたびに「ハイ、次のページです」と声を出す。だれに頼まれたわけではない。ぼんやりしていて気がつかない級友の面倒をみてやるつもりだった。先生とは家族ぐるみの付き合いをさせていただき、このときは聞かないふりをしてもらった。自分のことより他人が気になる、そして自分の好む方に他人も従わせたがる性向はこの頃から芽生えていた。

小学校にはインドネシアで生まれ育った須藤芳雄君という生徒がいた。お父さんがジャカルタで雑貨店を経営していたと聞く。息子は日本で教育させたいということだった。最初は日本語がおぼつかなかった須藤君はめきめきと上達し、ついに私のライバルとなって立ちはだかった。

彼と50人のクラスの級長を毎年競い合った。5年生の時だけ須藤君に負けた。彼は映画に興味があり、映画雑誌に投稿したこともある。それを知った私は「君は映画監督になるべきだ」と何度も強く勧めた。これもお節介、余計なことだったかもしれない。結局、須藤君は監督にはならなかったようだ。今彼の消息はようとしてつかめない。

当時もいじめはあった。「解剖」といって力の強い上級生に羽交い締めにされ、ズボンもパンツも脱がされて思春期の始まった我が身をすっぽんぽんにされたこともある。殺してやると恨んだ。

私もいじめたことを告白する。近所のスッポン店の息子、勝ちゃんを座らせ頭の上からおしっこをした。さっさと逃げればよいのに、勝ちゃんは泣きじゃくりそのまましゃがんでいた。母が飛び出してきて勝ちゃんをお風呂場に連れて行き、買ってあった私の新しいシャツやズボンをはかせて家まで送っていった。帰ってきた母に押し入れに閉じ込められた。私はそのまま眠ってしまった。

小学校の成績は「全甲」もしくは、「良」ふたつであとはすべて「優」だった。低学年のころは「甲乙丙丁」で、しばらくすると「優良可不可」となる。1学年200人前後だった。勉強は苦にならなかったが、運動は得意ではなかった。鉄棒の蹴上がりができず、放課後砂場の横の鉄棒にぶら下がり、蹴上がりばかりを練習して、どうにかできるようになった。

佐野では女子は天明小学校へ、男子は第一小学校へとお互いに数百メートルも離れたところへ通った。「男女7歳にして席を同じうせず」ということだが、付近の町はそれほど厳格だったか。葬式や法事も仏様に向かって左が男で右が女。左の方が位が高いとされていた。男の赤ん坊は母親から離して父親が抱く。男の干し物は上の竿(さお)に、風呂は必ず男から。台所に入ると母に叱られた。母は私の寝ている布団の頭の上は歩かず、裾の方を歩いた。

1年生の担任は渡辺ミツという丸い顔をした女の先生で、よく家によんでくれた。

母は結婚してからはもう以前のようにかまってくれない。頭をなでられるとそのまま先生の胸に顔を寄せ、心臓の音を聞いた。母に求めているものをミツ先生にさがしたような気がする。

母一人、子一人で、私はやはり「マザコン」だったと思う。母が死んだらどうしよう……そんなことばかり妄想していた。

(元米国野村証券会長)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。