寺澤芳男(2) ふたつの誕生日

「出生の秘密」にショック 
未婚の母、成長の記録克明に

私には誕生日がふたつある。

昭和6年(1931年)8月31日と10月3日である。不義の父は私が生まれる7か月前に死亡し、母寺澤キクは父に義理立てし、他人の子として栃木県安蘇郡佐野町(現佐野市)の役場に出生届を出した。その日が戸籍上の誕生日となり、オフィシャルにはこれを使っている。

母は佐野の農家の次女だった。私が中学2年のとき、あっさりと実父のことを話してくれた。本当なら「出生の秘密」としてめったに口にすべきではないのかもしれない。聞かされて少々ショックだったが、生い立ちにまで自分で責任はもてないから、これから先は自分の力でやるしかないと身を固くした。

佐野で藍染めをやっている大川公一君が恐るべき宝箱をもっていた。彼は母方のいとこの子どもにあたる。実際に綴(つづ)った私についての母の日記帳や「臍(へそ)の緒(お)」、小中学校の成績表がぞくぞく出てきた。

母の日記。「昭和6年8月31日、朝雨、午後晴。午前3時頃より腹痛。9時半、産婆さん。4時半男の子を生む」。場所は東京・高円寺の氷川神社の隣。日記は毎日ではないが節目節目に書かれている。小学校入学、中学、高校、大学入学、そして1956年横浜港から氷川丸に乗ってアメリカへ留学した日で終わる。

未婚の母はいまでいうシングルマザーで、美容師、看護師、編み物教師と独立したキャリアをもち、72歳で病に倒れたが、ニューヨークから駆けつけた息子にみとられて薄化粧をしたまま静かに眠った。

母は私が2歳のとき祖父のいた佐野に越した。女学校の横で文房具屋を始め、私は毎日母に見送られて佐野愛児園に通った。親ひとり子ひとり、貧乏だったが幸せだった。

私は母が30歳のときの子だった。母は35歳のとき結婚。ふたりの男が母にアプローチしていたのをよく覚えている。きちんと背広を着ていつもお土産をもってくる人と、和服でふところに革表紙のバイブルを入れた人で、私は背広が好きだったが、母は和服と結婚した。新しい父は私より3つ年上の娘喜美江を連れ子にし、母は私を連れ子にして4人家族が誕生した。義父を「とうちゃん」と呼べず、「お父さん」と呼んだ。当時地元の上流階級では「パパ、ママ」、ふつうの家族は「とうちゃん、かあちゃん」だった。東京の従兄たちは「お父さま、お母さま」と呼んでいた。

義父は関根亥太郎といい、京染の取次業で毎日唐草模様の大風呂敷に見本の反物を入れて背負い、自転車でお得意先をまわっていた。毎日私を剣道の町道場に通わせた。剣道は6歳の時から8年間続けた。本部は秩父にあり、千葉周作の北辰一刀流で、私は14歳で1級までいった。今の健康は剣道によるものと亡き義父に感謝している。

1938年、佐野第一尋常高等小学校に入学した。住んでいる家のはす向かいにあり、鐘が鳴ってから飛び込んでいっても間に合った。今の東京の孫たちは地下鉄や電車を乗り継いで片道1時間半かかるという。これを6年間やるのかと思うとかわいそうでならない。夜半都心の地下鉄の駅にランドセルを背負った塾帰りの小学生の姿を見るたびに胸が痛む。日本以外の国では見られない光景だ。

小学生の自分はとにかくお節介だった。

(元米国野村証券会長)

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