寺澤芳男(29) これから 若者よ、世界に根下ろせ

勇気持ち
尊敬される日本へ

あっという間に最終回を迎えた。私にとって履歴書を書く行為は、除夜の鐘をつくことと同義であったといっていい。人生の恥と悩みを文章の形で一つ一つ表してきたつもりである。

ご存じのように除夜の鐘の数108は煩悩を表すという。108というのは四苦八苦という言葉と関係があるともいわれる。4×9の36と8×9の72を足して108。大みそかに107までを済ませ、年が明けてから108回目を打つという。今の私は何回目を打ち終わったところなのだろうと自問する。

あと残りの鐘を打ち終わる前に、自分がしたいことは明確だ。国際人の育成と世界連邦の実現に向けた努力である。

静岡県沼津市にある加藤学園は英語教育の先駆け的存在で、私も時々理事長の加藤正秀さんと意見交換をさせてもらっている。1992年には日英両語で学習するバイリンガルクラスを開設した。担任教師が2人いて1人は日本人、もう1人は英語圏の人で英語で数学などを教えている。2002年には国際教育推進団体「国際バカロレア機構」から大学入学資格プログラムの実施校として認可を受けた。

バカロレアというのはフランスの大学入学資格だが、スイスに本部を置く国際バカロレア機構によっていまや世界的に認められた教育カリキュラムとなった。今月、故郷の栃木県佐野市の商工会議所に招かれて講演をしたとき、この制度を紹介し、こうした教育を受けた若者が世界各地で活躍し、一定の年齢になったらまた日本の故郷に戻る。それが私の夢であると話した。世界から尊敬される日本というのはやはり世界で根を下ろし、活躍する人を一人でも多く生み出すことなのだ。

私が尊敬する政治家・尾崎行雄(1858~1954年)は憲政擁護運動で有名だが、世界市民が同じ条件で暮らせる連邦思想を持ち、それを理想とした。その構想は選挙区を持つ政治家ではなく、市民によるものとして尾崎行雄記念財団が引き継いだ。キリスト教でもイスラム教でもないヤオヨロズの神をもつ日本人として世界連邦のお膳立てを手伝いたい。特に世界で唯一の核の被爆国として、日本人がそのイニシアチブを取ることに意義がある。

尾崎は20世紀初め、米タフト大統領夫人の希望で、数千本の桜の苗木を贈った。こうしてワシントンの名所となったポトマック河畔の桜は来年植樹から100周年を迎え、数々の記念行事が準備されていると聞く。この話は日米交流にいろいろな手法があると私たちに教えてくれる。

履歴書第1回で東日本大震災に遭われた方たちと一緒に元気になりたいと書いた。被災者ではなく我々がもっともっと知恵を出し、行動しなくてはと思う。

ここでドイツの文豪ゲーテの言葉をとくに若い人たちに紹介したい。

 財を失うことは小さく失うことである。
 名誉を失うことは大きく失うことである。
 勇気を失うことはすべてを失うことである。

これからの人生、何が待ち受けているかわかりませんが、勇気ある日々を送りましょう。皆さん、ありがとうございました。

(元米国野村証券会長)

寺澤芳男(28) スポーツ好き

水泳・ゴルフ 生涯の友
辻井喬氏と小説執筆の約束

今年8月27日土曜日、小林陽太郎君が発起人代表で友人が「80歳を祝うパーティー」をホテルオークラ東京で開いてくれた。ありがたいことに150人近い方が集まり、私の似顔絵が真ん中に描かれたボードにそれぞれサインした。

作家の辻井喬さんも来ていただいた。辻井さんとは経営者・堤清二時代からの長いお付き合いでずっと尊敬してきた。昨年、「今度、小説を書いてみたい」と相談したら、「あなたなら自伝的なものから始めてみたら。僕が見よう」と言い、パーティーでも「まだ小説は出来上がらないの」と尋ねてくれた。

文章を書くのは今でも好きで、最近もエッセー集「スピーチの奥義」を刊行した。小説家になるのが若い時の夢だったが、フィクションはなかなか実現しない。

スポーツで好きなのは水泳で、今でも続けている。7月16日、大阪府の「なみはやドーム」で開かれた「日本マスターズ水泳選手権大会」に参加。1931年生まれで出場資格がある80~84歳の部で50メートルを平泳ぎで完泳した。記録は1分32秒83で12人中11位だった。現在、ミミスイミングクラブの小葉松能理子コーチから週2回のレッスンを受け来年3月の千葉大会を目指している。

水泳と並んで生涯続けようと思うスポーツがゴルフだ。ゴルフにはかなりのエネルギー、時間、お金をかけた。新しいクラブが出ると必ず買い、もっとも多くのクラブを持つ人としてゴルフ雑誌のグラビアに登場させられたこともある。

ゴルフの師匠は中嶋常幸プロと勝手に思いこんでいる。中嶋プロは故郷栃木県佐野市の近く群馬県桐生市の出身で、もう40年近くつき合っている。1986年、全米オープンがシネコックヒルズで開催された時、中嶋プロをニューヨークのケネディ国際空港まで迎えに行き、宿舎も用意した。

プロの奥様が私のエッセーのファンだそうで、あるパーティーの席で「妻に寺澤さんのゴルフを見せたい。いっぺんに熱がさめるでしょう」とユーモアたっぷりに言ったら場内爆笑となった。

ゴルフ仲間に泌尿器科の大家吉田修先生がいる。40年ほど前のニューヨーク以来の友人で現在天理医療大学の学長である。妻が倒れたとき2カ月間毎晩京都とパースの間で30分以上の国際電話をかけ相談にのってもらった。たったひとりで病気の妻のそばにいて、日本語で話せる相手が誰もいなかったから、本当に感謝している。

それぞれが自分が死んだらこんな死亡記事がよいと勝手に書いてみるという企画で大手月刊誌が「私の死亡記事」を特集したとき、私も概略こんな風に書いた。

「2020年名門オーガスタの18番ホール、沈めればエイジシュートの50センチ弱のパットをはずして、即、没す。享年89」

私自身最終のツメが甘く常にそのことに悩まされていたからだろう。

いろいろなお稽古ごとにも手を染めた。邦楽の一中節(300年以上の歴史があり、常磐津や清元の源流)は12年ばかり稽古し、都一中師匠から名を許され「都テリ中」となった。

今は日本舞踊勝美流・勝美巴湖師匠について小唄振りの稽古に励んでいる。

(元米国野村証券会長)

寺澤芳男(27) 英語

常に師求め上達めざす
「話せる政治家は堂々」の印象

1957年、1年間だけ勉強したペンシルベニア大学大学院ウォートンスクールからニューヨークにあるコロンビア大学大学院ビジネススクールに移ったことはすでに触れた。昼は野村証券ニューヨーク支店で働き、午後5時ごろ急いで地下鉄の駅まで走り、ブロードウェーにあるコロンビア大学に通った。当時の早稲田大学のように昼間部と夜間部があったわけではない。コロンビア大学の場合は、授業が朝9時から夜10時まであり、そのうち都合のよい時間帯の授業を生徒は選択した。

午後6時から始まる授業を3つか4つとった。仕事の後で授業中猛烈な眠気に襲われたが、コロンビア大学で学んだのはビジネスではなく、実は英語だった。English As A Second Foreign Languageという特別講義を外国人学生のために用意してくれた。1週間に3回2時間ずつその講義を受けた。

ポイントがふたつある。ひとつはアメリカ人の先生が英語で英語を教えたことである。もうひとつはミシガン大学の講義名と同じタイトルの教科書を使ったことである。

日本人は普通、最初は日本語で英語を習う。私にとってたとえば、「過去完了」という日本語があまりピンとこなかった。ところがそういう難しい日本語を使わず英語で説明されると頭の中にすんなりはいってきた。教科書もすばらしかった。やさしい英語で書かれてあったからすらすら読めた。日本でもどんどん最初から英語の教科書を使って英語を教えたらどうかと思う。子どもにとってはその方が覚えが早いのではないか。

ペンシルベニア大学時代も時々ニューヨーク支店に行って仕事の手伝いをした。当時の支店長は桑山栄一さんといって日系2世でプリンストン大学を卒業した秀才だった。私はよくビジネスレターの下書きをし、支店長に添削してもらった。ビジネス英語を書く基礎知識は桑山さんから学んだ。

ニューヨーク支店長になってからの英語の師匠は秘書の宮川美子さん。私が電話で話した英語をあとできれいに直してくれた。今話したばかりの言葉なので、恥ずかしかったが、すごく勉強になった。多国間投資保証機関(MIGA)長官時代は理事会などの際、横の席に通訳を置いた。といっても日本人の通訳ではない。イギリス人の理事はわざとと思うくらい難しく独特の表現で発言するし、インド人の場合は発音がわかりにくい。アメリカ人にそうした英語を簡単な英語に変えて解説してもらったのだ。

このように私にはその時々、英語の師匠がいた。というより師匠を求め続けた。自分はもうしゃべれるからといった意識はなかった。わからないものはわからない、知ったかぶりをしないという姿勢を貫いた。それとなるべく英語で考えること。いったん日本語が頭に入ると混乱を招く。英和辞典などもなるべく使わない方がよい。

これまで英語の上手な多くの日本人に出会ったが、友人ではやはり行天豊雄君、小林陽太郎君が群をぬいている。政治家でいうと知っている限りでは宮沢喜一さんはとびぬけてうまかった。英語をしゃべれる日本の政治家は外交の舞台で堂々としており、そうでない人はぽつんとしている。これは私だけの感想ではあるまい。

(元米国野村証券会長)

寺澤芳男(26) 豪パースの生活

絶景と良友に恵まれる
早大OB会作りコンサート

話はさかのぼり、多国間投資保証機関(MIGA)長官時代の1992年4月。講演でワシントンからロサンゼルスに飛んだ。午後6時宿泊先のニューオータニから日本人の友人3人と500メートルばかり歩いてリトルトーキョーの日本料理屋に寄る。帰路、午後9時、100メートルばかり先のニューオータニの前で大勢の人が気勢をあげている。私たちはあっという間にその集団に囲まれてしまった。黒人の若者一人が私の方に突進してくる。

若者は私の前で立ち止まると大声でわめく。怖くなってホテルに向かって走った。他の3人はどこにいるのか見当たらない。ホテルの前にヘルメットをかぶりマシンガンで武装したポリスが並んでいた。入り口のガラス戸は粉々に割れ、頭から血を流した白人の男がロビーに倒れていた。17階の自分の部屋に入ってCNNを見た。

いわゆるロサンゼルス暴動を目の当たりにした。野村証券時代のニューヨーク、MIGAのワシントン時代、これほど怖い思いをしたことはなかった。それはいつどこに行くと危険なのか、熟知していたからだ。しかし、旅先で予想外の事に遭い、「アメリカは好きだが……」という感覚が身についてしまった。

もともと老後は長年住み慣れたニューヨークででも暮らそうかと考えていた。ところが2001年9月11日の米国同時テロで事情が変わった。何となくぎすぎすした感じがして、ゆったりと生活を楽しむ場所ではないなと思うようになった。

そんなとき、早稲田の後輩から誘いがあり、パースで余生を暮らす決心をした。旅行家として知られる兼高かおるさんがオーストラリアのパースは世界一きれいな所だと言ってから一躍有名になった。オーストラリアの西海岸にありインド洋に面している人口170万人の都市だ。

2005年の1月、家を買って東京からパースへ移った。午前中、よく妻と12歳になる老犬「シャンティ」と散歩。オーストラリアでは犬が欲しくなるとpoundへ行く。要は動物収容所だ。昔、イギリスでは牛や馬の囲いをpoundといったそうで、そこから来ているらしい。ペットショップなどというと、犬は売り買いするものではないと怒られる。われわれも小型犬をpoundで譲ってもらったのだ。

午後はゴルフざんまいだった。家から5分も歩けばゴルフクラブのティーグラウンドに立てる。だが、これも一長一短。頻繁に我が家の庭にボールが打ち込まれる。これは危ないと思って抗議したら、「保険があるから」と門前払いをくらった。

私をパースに誘った鈴木竜一郎君が稲門会(早稲田のOB会)を作りたいという。酒を飲み、校歌「都の西北」を歌うだけではつまらないから、わが同期の世界的バス、岡村喬生君を呼んでコンサートをやろうと提案した。2010年1月、岡村君は本当に西オーストラリア大学のホールで歌ってくれた。

もし稲門会が開かれるのなら、パースへ戻って会の面々と地元のワインを酌み交わし、旧交を温めたいと近ごろ思うようになった。すばらしい景観と友人に恵まれた都市、パース。もし妻が生きていたらまだここを離れることはなかっただろう。

(元米国野村証券会長)

寺澤芳男(25) 東京スター銀行

破綻の東京相和を買収
滑り出し見極め豪州へ移住

ローンスター・ファンドの役員会は月曜日の朝8時から9時までだった。話し合いは全部英語で行われた。メンバーはアメリカ人が2人、日本人が6人。日本人の中には英語が得意で流ちょうな人もいたし、そうでない人もいた。しかしだんだん慣れてくると、会議は盛り上がった。

日本人は英語をきちんと文法から勉強しているから、照れたりせずに堂々と、少しぐらい間違ってもよいと思って話せば必ず通用する。それには慣れることが必要なのだ。

楽天やファーストリテイリングが英語を社内公用語としたが、最初はぎくしゃくしても慣れてくればきっとうまくいく。いずれ多くの会社は英語を公用語にするようになるのだから、早く始めた方が勝ちだ。日本人同士が英語でしゃべるのはおかしいという意見があるが、ネクタイを締めて会社に入ったら英語に切り替えればよいわけで、そんなに難しく考えることはない。

ローンスターの社員は有能だった。働きぶりはすさまじく、手掛けていた案件が終わるまで時差との戦いで24時間頑張った。その代わりバカンスの取り方も豪快で1カ月くらい休む。「遅れず休まず」をよしとする日本の一般的なサラリーマンとは大違いだった。

1999年末のクリスマス休暇を私はプーケットで過ごしていた。東京から電話があって、重要な案件が始まるので早く帰国してほしいといってきた。東京相和銀行を買収し、その経営に乗り出すというプロジェクトだった。当時、経営破綻した東京相和銀行は国の管理下で多くの不良債権を整理している真っ最中だった。

年明け早々にアプローチを始め、私は蔵相の宮沢喜一さんらにローンスターが買収したいと働き掛けた。我々の他に買いたいという手が4本ばかり挙がり、政府はどこに売ったらいいか困っていた。最終的にローンスターに買わせるという決定が下った。買収価格だけではなく、複雑な条件があったようだ。

2001年6月、東京相和銀行は「東京スター銀行」として再出発した。私はローンスターを辞めてこの新しい銀行の会長になり、住友信託銀行で副社長を務めた大橋宏さんに頭取になってもらった。証券会社の経営の経験はあるが、銀行と証券会社は同じ金融機関でありながら、カルチャーが全く違っていることを承知していた。

頭取就任を頼もうと電話したとき、大橋さんは翌日から3週間の海外旅行に出かける予定で、荷造りの真っ最中だった。大橋さんは急きょ旅行を取りやめて、すぐに会いに来てくれた。電話をするのが1日遅れていたら、私が頭取にならなければならないところでほっとした。

東京スター銀行が順調にスタートしたのを見極め、1年後には会長を退いて取締役になった。オーストラリアのパースに住むようになってからも、年6回の取締役会と年1回の株主総会には飛行機で通った。時差が1時間しかないから楽だった。ローンスターは08年に保有株を他のファンドのグループに引き取ってもらい、9年がかりのプロジェクトを完結させた。それを機に私も東京スター銀行から完全に離れた。

(元米国野村証券会長)

TPP、首相の背中押した人物

首相、野田佳彦は韓国の光景に思いを強くした。22日、米韓自由貿易協定(FTA)の批准同意案が可決した韓国国会の本会議場。野党議員が催涙ガスをまき散らし、怒号が飛び交う異様な雰囲気のなかでハンカチで鼻を覆った与党議員らが涙をふきつつ採決を強行し、国家の懸案に決着を付けた。主導した与党ハンナラ党を率いるのは大統領、李明博(イ・ミョンバク)。李もまた野田を利用した。

約1カ月前、国際会議を除く初の外国訪問先の韓国に降り立った野田は、米韓FTAに抵抗する野党勢力が委員会室を占拠し、審議を開けない韓国国会の姿を目の当たりにした。しかし、翌日会談した李は揺らいでいなかった。その直前の訪米時に、米国が関連法案を可決した米韓FTAの意義を説明し、貿易を自由化しなければ生き残れないという韓国の強い決意を野田に説いた。

李は苦学して大学を卒業し、35歳で現代グループ・現代建設の社長に抜てきされ、100人ほどの会社を大企業に育てあげた。そんな経歴を持つ隣国首脳の自由貿易への覚悟に接した野田は「日本は韓国の3周遅れだな」と周辺に漏らした。

元来、野田は自由貿易論者だ。千葉県議時代、農産物の輸入自由化に抗議する県議会の決議にただ1人反対した。国会質問で環太平洋経済連携協定(TPP)問題を最初に取り上げた議員としても知られる。一方で、農家出身の両親のもとで育ち「美しい農村の風景は断固守る」と訴えてきた。

「競技場の最後のホームストレッチで、選手に声をかけるコーチのようだった」。首相周辺には、野田と李の関係がそうみえた。「大統領と信念を共有できた」。野田はこう言い残し、韓国から戻ったあと、TPP交渉への参加方針を表明した。

ライバルの存在を自らの政策のテコにしたのは李も同じだ。

貿易自由化のスピードでは日本を圧倒していると自負していた韓国では、野田の決断に政界や経済界に衝撃が走った。野田の記者会見の3日後、李はラジオ演説で「野田政権発足後、日本はTPPを国家の第一目標にしている」と日本への警戒感をあらわにした。翌日には自ら国会を訪れて与野党の党首らに米韓FTA批准同意案採決を要請した。首相が内政を束ねている韓国で、大統領が個別政策で国会に出向くのは極めて異例のことだ。

調査会社リアルメーターによると、最新の李の支持率は28%。2008年2月の就任直後の76%はおろか、1年前と比べても20ポイント近くも下落した。サムスン電子や現代自動車など国際競争力のある輸出企業の陰で、韓国内では貧富の格差拡大や若者を中心とした雇用難が解消されず、国民の不満は募る。就任直後に「CEO(最高経営責任者)型大統領」との異名をとった李がいまでは逆に経済で足を引っ張られている。

だからこそ、反対派の抵抗を押し切ってまで米韓FTAにこだわった。「世界最大の単一市場である米国でのシェア拡大に加え、韓米関係を軍事同盟と経済同盟の両面でさらに強化する契機となる」。韓国外交通商省の解説だ。

気の置けない仲間を前に、野田は「アジア太平洋に『楽市・楽座』をつくりたいんだ」とよく口にする。楽市・楽座は、16~18世紀ごろ、特権を持つ商工業者を排除し経済の活性化を狙って、織田信長らが各城下町につくった自由取引市場だ。天下統一をめざした信長は強烈なリーダーシップを発揮し、その後、側近の謀反に倒れた。

李に続き、野田の覚悟が試される。=敬称略

10月19日、ソウルの青瓦台で開かれた日韓首脳会談を前に握手する韓国の李明博大統領(右)と野田首相=共同

寺澤芳男(24) 3度目の転身

ローンスターの会長に
不良債権処理でリスクとる

参院議員の任期は1998年7月に満了した。政治への熱意はすでに薄れていた。国会は立法府として本来の機能を果たすべきだと考えていたが、官僚支配の壁は想像以上に厚かった。議員立法を目指そうにも法律づくりのノウハウは官僚が独占し、議員が聞きにいっても簡単には教えてくれない。無力感にとらわれ、すっかり疲れてもいた。私を政治の世界に誘った細川護熙さんもこの年の5月には政界を引退していた。

議員を辞めて1年たったころ、ATカーニーの山根俊満さんという人から自宅に電話があった。ヘッドハントの話で、アメリカのローンスター・ファンドの日本法人会長はどうかという。行天豊雄君、細川さんに次いで私の人生の転機となった3度目の突然の電話だった。先方は決定を急いでいた。

翌朝、ホテルオークラでエリス・ショートさんというアメリカ人に会った。1時間の朝食の後、会長就任を依頼された。ショートさんはローンスターの共同創業者だった。名前とは正反対で2メートル近い大男だった。人柄が良く話の波長もぴったり合ったので、この人とだったら一緒に仕事ができると思った。

ただ、正直なところ何をやっているファンドなのか百パーセントは理解していなかった。そこで3日間会社に通うので、どんな仕事をしているのか教えてほしいとお願いした。

東京・銀座に車で案内されて、「このビルは銀行が担保にしていたが不良債権化したのでローンスターが買い取り、今はテナントの賃貸料で投資を回収している」といった説明をしてくれた。私の周辺の人々は「不良債権処理はこれから日本の金融機関にとって必要なことだから、ぜひ入って活躍してほしい」と応援してくれた。

銀行からお金を借りる時、普通は家や土地を担保にしなければならない。仮に時価が10億円の土地を担保にして、銀行がその6掛けの6億円を貸してくれたとする。ところが何かの理由で担保に入れた土地の値段が暴落し、10億円が5億円になってしまう。銀行はただちに追加担保を要求する。景気が悪くなって借り手は金利も払えなくなる。困った銀行はこの債権は取り立て不能ということで「不良債権」として、どこかに買ってもらおうとする。

銀行は色々な土地や建物を担保に取っているから、それを一緒にまとめて誰かに肩代わりしてもらい、一刻も早く不良債権を処分したいと思う。みそもくそも一緒くたに売りに出すことを「バルクセール」という。今はやりの福袋のようなものである。開けてびっくり、すぐ売れる名門のゴルフ場が入っているかもしれないのだ。

しかしこのバルクセールを日本のファンドはなかなか買わなかった。勇敢にリスクを取ったのは外資系のファンドである。外資系は「ハゲタカファンド」と呼ばれ、死体に群がるハゲタカのように忌み嫌われた。多くのハゲタカファンドは確かにもうかった。しかしそれはリスクを取ったからだ。ハイリスク・ハイリターンは市場経済の大原則なのだ。

私が会長になったローンスター・ファンドも当時は大変な利益を上げていた。会長としての役目は売り手の日本の銀行や事業会社への顔つなぎだった。

(元米国野村証券会長)

寺澤芳男(23) 経企庁長官

「成長率は幽霊」発言が物議
在任2カ月、PL法に尽力

細川さんの後の羽田内閣(1994年4月~6月)で経済企画庁長官になった。総理官邸で言い渡されるまでどの大臣になるのか、見当がつかなかった。

大臣になったとたんに吉祥寺の家の前にポリスボックスができた。お巡りさんが24時間交代で張り番をする。朝黒塗りのトヨタのセンチュリーが迎えに来る。運転手の助手席にピストルをもったSPが乗っている。時々携帯で警視庁に連絡するらしく、道路の渋滞を避けて車は進む。別にサイレンを鳴らしたりはしない。休日ゴルフに行こうと思うと、家の前のポリスに行く先を告げなければならないから、面倒なので本当のことは言わず、流しのタクシーをつかまえて、最寄りの駅まで行くことにした。

 経済企画庁のパーティーに友人の草笛光子さんが来てくれた。パーティーの後、西麻布のイタリア料理屋でおいしいワインをたらふく飲んだら、意識がなくなって、はっと目が覚めたら、フロアに仰向(あおむ)けに倒れていた。周りがびっくりして救急車を呼び、慶応病院に運ばれた。夜中だったが精密検査をしてなんでもないことになったが、翌日定例閣議は病院から出席した。大臣が倒れたということがマスコミに漏れると大変なので病院側もだいぶ気を遣った。

 定例閣議では各大臣の前に老眼鏡をかけなくても読めるほど大きな活字で「なになに大臣ご発言」が重ねて置いてある。その通りを読みあげればそれですむ。こういうお膳立ては全部事務次官会議で決まっていた。

閣議の間中、閣議書が大臣の間をまわる。その閣議書に署名しなければならない。横に筆と硯(すずり)箱が置いてあった。昔、戦国大名が署名したような逆さクラゲのマーク(花押)を各大臣はすでに用意している。私は隣の公明党の浜四津敏子環境庁長官が「敏子」と署名したので、それをまねして「芳男」と書いた。

わずか2カ月の長官時代ではあったが、製造物責任法(いわゆるPL法)制定には尽力した。経企庁には総理の諮問機関である国民生活審議会がおかれており、同庁が主導する法律制定は珍しかったから、私もはりきった。94年6月、国会の消費者問題等に関する特別委員会で「政策の重点を生活者・消費者重視の視点へ移し、国民一人ひとりの生活を豊かにする」と立法の狙いを強調した。しかし、橋本龍太郎さんとPL法の対象をめぐって対立。竹下登さんに相談しようと東京・代沢の私邸を訪問した。

在任中、官僚と一番もめたのは、政府の経済成長率予想の数字だった。40年にわたって兜町とウォール街で生きた経済をみてきた身には、霞が関がはじいた数字はどうみても高めで、これだけの数字でないと予算が組めないということが見え見えだった。だが、事務局も例えば4%と民間経済研究機関と乖離(かいり)した数字をゆずらない。そこで大臣答弁は「経済成長は予算の前提として予想した範囲内に収まると思います」という表現になった。

長官を辞めた後、軽井沢のセミナーで思わず「幽霊のような実体のない経済成長率を言い続けなければならなかった」と語り、物議をかもしたことがある。この発言についても経企庁の役人から文句を言われてほとほと困った。

(元米国野村証券会長)

首相官邸で(最後列左から2人目が筆者、1994年)

寺澤芳男(22) 国会質問

「在外邦人に選挙権」訴え
米国時代の疑問ぶつける

私は参議院で言うべきことは言い、政治家の役割を果たしたいと考えていた。その際、これまでの自分のキャリアと経験を生かすのが最善だろうと、例えば内閣委員会でこう質問した。

「外国にある日本の大使館で外交官は、その時間の大半を日本からの訪問者のアテンドに使っているのではないか」

外交官には駐在している国の情報を収集し、また在留日本人の生命や財産を守るためにその国の政府とかけあうという大切な役目がある。だが、実際には日本からの国会議員のお世話とか、将来外務省を辞めてから就職口となるかもしれない日本のビジネスマンとの情報交換に多くの時間をさいてしまっている。アメリカにいる間に思っていた疑問を私はぶつけてみた。

外務省のまわりまわった答弁では納得しなかったが、こちらもある意味それは織り込み済みだった。ただ委員会の公式な議事録に私の発言と政府委員の答弁が記載されればそれでよいのだ。外交官が政治家のアテンドをしなければならないのは、一義的には視察する側、政治家に責任がある。言葉も含め、すべて現地におんぶにだっこの日本のステーツマンに猛省を促したかった。

在外邦人の選挙権はどうしても法制化に結びつけたかった。私自身、1992年7月の参議院選挙に立候補したにもかかわらず、投票権がないことを不思議に思った。被選挙権があるのに選挙権がないのである。当時、在外邦人は約70万人に達していたにもかかわらず(現在は約114万人いる)、選挙権は一切認められていなかった。

また、PKO活動で海外にいる自衛隊員らも投票は無理だった。一方で、東京にいる外国人は選挙のときは当然のように大使館で投票する。カンボジアの選挙を監視する日本人が自国の選挙に参加できないのに、国外にいるカンボジア人は比較的簡単に投票できるという奇妙な現象も生まれていた。

国会議員になって早速日本以外に住んでいる日本人が投票できるよう取り組んだ。「外国に住む日本人が一体日本の政治に関心をもつのか」という反論もあった。だが、経済のグローバル化に伴い在外邦人が増えていくことが確実なので、制度改革は当然だった。実際、在外邦人らは積極的に動き、94年3月、ニューヨーク、ロサンゼルス、シドニー、バンコクの署名請願書約3千人分が衆参両院議長に手渡された。このとき私も「海外在住者投票制度の実現をめざす会」のメンバーと面会し、議員連盟をつくるなど、努力を惜しまないと約束した。

参院外務委員会で私はこの問題を積極的に取り上げた。答弁に立つ外務大臣は基本的には同調してくれたが、なかなか具体的な法改正は進まない。やはり一般の政治家は海外に住む日本人の選挙権には関心がなかったようだ。

それでも在外邦人が裁判に訴えてでもという行動に出てくれ、97年、政府は公職選挙法改正案を国会に提出、98年に成立し比例区に限って投票が可能になった。

その間、政権はめまぐるしく変わった。細川さんは政治改革にメドをつけると、94年4月、さっさと辞めてしまった。細川さんは私にとって頼みの綱だったから茫然(ぼうぜん)とするのみだった。

(元米国野村証券会長)

寺澤芳男(21) 細川政権誕生

「総理まだ早い」と具申
永田町の政治力学つかめず

当時の日記にこうある。1993年6月17日木曜日。朝5時30分に目が覚める。6時30分、ホテルオークラのプールで水泳、朝食。9時30分国会議事堂内の日本新党控室に入る。細川護熙代表、小池百合子議員、武田邦太郎議員と打ち合わせ。午前9時55分、4人で参議院本会議場へ向かう。細川さんが大股で歩くので付いて行くのが大変だ。

午前10時10分本会議終了。午前11時10分内閣委員会理事懇談会。海外で災害や騒乱のあった時邦人を自衛隊の飛行機で救出できるよう自衛隊法の一部を改正する法案についての審議の下打ち合わせ。不信任案の推移をみてからということで結論が出ず散会。正午参議院議員会館541号室の自室でNHKのテレビを見る。永田町の現場にいるからといって全般はなかなかつかめない。やはりテレビが一番手っ取り早い。

地下の食堂で昼食。中華定食(600円)をとる。午後1時30分、不信任案を衆議院本会議で可決するかどうか、動きがつかめないので、ほとんどの議員は自室にこもっている。午後3時車で高輪の日本新党本部へ向かう。羽田派35人が不信任案に賛成するから可決されるだろう。もしそうであるなら本会議の冒頭で解散ということになるのではないか。選挙は7月25日の日曜日だろうといったいろいろな情報が飛び交う。

翌18日午後6時半衆議院本会議で内閣不信任案が採決されることになったので、私は本会議場へ走った。参院議員だけが傍聴できる場所が2階のコーナーにある。20~30人の参院議員がそこに陣取った。ほとんどが野党で女性議員が10人もいた。不信任案に賛成する社会党、公明党、民社党、そして共産党の代表演説が延々と続いた。

「宮沢さん。“罪万死に値す”と、私はあなたに通告せざるをえません」。政治家の演説だからオーバーな言い方はやむをえない。永田町独特の言い回しで気になったのは「……についてのご理解をたまわりたい」「……であると認識しているのであります」「何某のお訴えにお耳をお貸しください」。またやたらと難しい漢字を並べる。粛々と、不退転など。

アメリカには議会中継だけを専門にしているケーブルテレビがある。私はアメリカの政治にとりたてて関心があったわけではなかったが、ひとたび見始めると我を忘れて2~3時間たってしまう。議員の使う英語が正確でわかりやすいからである。アメリカでは勉強のよくできる少年がいると近所の人が言う、「あの子、将来セネター(上院議員)になれるかもしれないよ」。細川代表の事務所には「先生と言われるほどのばかでなし」と張ってあったが……。

結局総選挙は7月18日に行われ、細川さんと小池さんは参院議員から衆院議員の選挙に打って出て当選した。当時日本新党ブームで、何と35人が衆院議員に当選した。そして細川さんは8つの政党・会派を集めて総理大臣になってしまった。

「総理になるには早すぎる。もうすこし日本新党の地盤を固めてからなるべきです」。私は武田さんと2人で細川さんにこう具申した。今考えると、政治力学を知らない無駄な青臭い主張だった。

(元米国野村証券会長)