室伏稔(12)自動車産業に力

「いすゞ案件」大仕事に
提携先探し、紆余曲折たどる

誰しも記憶に鮮やかに残り、人生の進路を決める記念碑的な仕事があるはずだ。私には「ゼネラル・モーターズ(GM)―いすゞ自動車提携」がそれであり、最初の米国駐在中の最大の仕事となった。ただ、紆余曲折に富んだ苦労の多い仕事だった。

1960年代末、経済成長を遂げた日本は、外貨の日本企業への出資、日本での子会社設立などの制限を緩和する資本自由化の時期を迎えていた。67年7月に第1次自由化が実施され、73年5月の第5次まで段階的に進められた。

日本は67年に自動車生産で西ドイツを抜き、米国に次ぐ第2位の自動車生産国になっていたが、国内メーカーとGM、フォード、クライスラーの米ビッグ3との間には大きな差があった。乱立気味だった国内メーカーはトヨタ自動車、日産自動車は別として、外資との提携に生き残りの道を見いだそうとしていた。

いすゞと伊藤忠が共同で外資に対応しようと合意したのはそんな時期だった。時の越後正一社長は成長の見込まれる自動車産業で戦略的な役割を果たそうと考えており、いすゞの話は大きな意味を持つことになった。

最初の提携候補はクライスラーだった。69年3月下旬、伊藤英吉会長が訪米するにあたって、クライスラー幹部との会合を実現するよう東京から私に要請があった。私にとって新しい分野だったが、東京で担当したのが同期入社で、独身寮で同室だった親友の酒井隆君だったこと、私が石炭関係の縁でクライスラーのジョージ・ラブ前会長や秘書を知っていたことから、いすゞ案件にかかわることになった。

「会わない方がよいと思います」。顔なじみの秘書に面会依頼の電話をすると奇妙な返事が返ってきた。不審に思いながらも、粘って先方の幹部との面会を取り付けた。実際の会談でもクライスラー側は煮え切らない態度に終始し、伊藤会長は釈然としないまま帰国した。1カ月半後、日本の新聞に「クライスラー―三菱重工提携」の大見出しが躍った。クライスラー側の態度の謎は解け、候補の1社が消えた。

次の候補はフォードだった。いすゞ案件を特命で担当するようになった瀬島龍三専務業務本部長からフォード首脳との会談実現の命が下った。すでに北米総支配人席に移っていた私はチャイ君とともに取り組むこととなった。フォードとの仲立ちを、リーマン・ブラザーズのパートナーを務めていたジョージ・ボール元国務次官に依頼、69年5月末、瀬島専務が訪米し、フォードのスコット副社長らと会談することになった。

会談の前夜、瀬島専務が泊まるホテルで、私、酒井君、チャイ君の3人でプレゼンテーションを準備し、あらゆるケースに対応できるよう綿密な想定問答集を作成した。徹夜で完成させ、瀬島専務は午前いっぱいかけて読み込んだ。

午後の会談では瀬島専務がスコット副社長らに日本の自動車市場、業界、いすゞの内容などについて説明。最後に瀬島専務が帰途に就く前に返事をもらいたいと求めた。かなり無理な要求だったが、翌日夕方、ヘンリー・フォード2世会長の署名入りのレターが届いた。「伊藤忠の提案を受け、いすゞとの提携を検討したい」とあった。

(元伊藤忠商事会長)

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