室伏稔(14)石油危機

サウジ相手 粘りの商談
千載一遇の契約、独断署名

1973年10月、第4次中東戦争をきっかけに第1次石油危機が起きた。日本をはじめ先進国の原油調達は不安定化した。伊藤忠にとって力を増した中東など産油国の国営石油会社との関係強化が喫緊の課題となった。

私は72年4月、ニューヨークから9年ぶりに帰国、東京本社の総合開発部で大型のプロジェクト案件を手掛けるようになっていた。74年夏、面識のあるベイルートのある実業家の自宅に招かれ、彼から中東産油国に幅広い人脈を持つW・R・グレース社の幹部を紹介してもらった。

グレース社はサウジアラビアの工業化につながるプロジェクトを構想しており、サウジの天然ガスを原料にアンモニア・尿素をつくる事業への参加を提案してきた。伊藤忠はサウジの天然ガスを液化天然ガス(LNG)にして日本に輸入する構想を持っており、コンソーシアムを組んで、サウジの石油鉱物資源公団、ペトロミンとの交渉に臨むこととなった。

74年10月。この年、就任した戸崎誠喜社長に呼ばれ「室伏君、ペトロミンとの関係をしっかり頼むよ」と激励され、身の引き締まる思いでサウジに向かった。訪れたサウジ東部ダハランのペトロミンの仮事務所は砂漠のなかのテントだった。タヘール総裁には世界中の石油会社が面会を求め列をなしていた。初めて会ったタヘール総裁は丁寧に話を聞く誠実な人だった。伊藤忠で総裁に会ったのは私が初めてで「窓が開いた」という期待感を持った。

だが、話は簡単ではなかった。我々の年間600万トンのLNGプロジェクトの提案について「提案は評価するが、LNGは困難だ」と明確に否定された。サウジは天然ガスをそのまま輸出するのではなく、自国内で付加価値をつけて輸出する方針をすでに打ち出していたからだ。その後、2回、タヘール総裁と面会、LNGを提案したが、答えは「ノー」。それでも粘る私に「おまえもしつこいな」と苦笑いをされた。

75年6月の面談でLNGではなく、化学用メタノールの生産に変えるならFS(事業化調査)契約を結ぼうという最終提案を総裁から直接受けた。条件は「1時間以内の回答」。東京の上司の許可を得ようにも当時のサウジは国際電話を申し込んでからかかるまで半日から1日もかかる。私は「こんなチャンスは二度とない」と独断で署名に応じた。まさに清水の舞台から飛び降りる心境だった。

そして帰国後、三菱瓦斯化学にお願いし、コンソーシアムに加わってもらった。その後のサウジ側との継続的な交渉の結果、外資の事業主体は三菱瓦斯化学を中心とする日本側一本となった。

サウジ側の主体は新たに設立されたサウジ基礎産業公社(SABIC)となり、79年11月に日本・サウジが50%ずつを出資、年産60万トンの化学用メタノールをアル・ジュベイルで生産するプロジェクトの調印にこぎ着けた。三菱瓦斯化学は長野和吉副社長(後に社長)の陣頭指揮の下、見事なチームワークだった。三菱重工業がプラント建設を担当した。

事業主体の日本・サウジメタノールはすでに設立30年を超え、増強を重ねて年産500万トンの世界最大のメタノールプラントに成長したのをみるにつけ、中東での苦労が報われた思いがする。

(元伊藤忠商事会長)

サウジ事業の25周年記念式典に出席(筆者は中央)

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