室伏稔(13)最後のビッグ3

GM交渉、ついに道開く
東奔西走の1年半に達成感

フォード首脳にいすゞ自動車との提携を提案する瀬島龍三専務のプレゼンテーションはうまくいき、フォードは提携に動き出した。特別チームがいすゞの視察などのため来日するようになった。私たちが気を使ったのはマスコミ対策。漏れれば失敗する。フォード、いすゞなど社名はすべて別名に変え、担当者は偽名の名刺をつくったほどだった。

フォードのスコット副社長も何回か来日し、いすゞ幹部との交渉に臨んだ。ただ、藤沢工場のみを使った乗用車合弁を志向するいすゞと大型トラックまで含めた合弁を求めるフォードとの溝は大きかった。1969年12月、最終プランをまとめ上げ、ヘンリー・フォード2世会長に上程した。

「残念だが、フォードは降りる」。数日後、フォードの担当者からかかってきた電話に私は一瞬、力が抜けた。その晩、伊藤忠のニューヨーク支店ではクリスマスパーティーがあった。同期入社で、いすゞ案件を一緒に進めてきた酒井隆君と2人で杯を上げ誓った。「まだGMがある」「Nothing is impossible」の言葉が頭に浮かんだ。

70年、年明けとともにGMへのアプローチを開始。1月12日、私とチャイ君でGMのニューヨークオフィスを訪問、経営企画担当部長のロックウッド氏にいすゞとの提携の重要性を訴えた。「返事は早くて月末」というGM側に「14日までの返答」を求めた。いすゞの社内では日産との提携推進派があり、時間との競争になっていたからだ。

17日にGMから受諾の返事を受け、20日にはロックウッド氏と私は日本の土を踏んでいた。GMの動きは世界最大の製造業とは思えないほど迅速だった。だが、空港で我々を迎えたのは「いすゞ―日産提携」の新聞記事だった。伊藤忠は苦しい立場に追い込まれ、ロックウッド氏はいすゞと会談しないまま、手ぶらで帰国することになった。いすゞは日産との交渉を優先、GMとの提携は宙に浮いた。

事態が動いたのは6月ごろだった。いすゞのトップが大橋英吉社長から荒牧寅雄社長に交代、いすゞ―GM提携交渉は再び、動き始め、人の往来も激しくなった。

70年8月、いすゞの岡本利雄副社長と瀬島専務が訪米、GMのゲージ副社長らと会談した。話は一気に進み、提携交渉に光明が見え始めた。GMからも特別チームが来日、いすゞと様々な分野で協議が進んだ。その間、GMはいすゞの乗用車をひそかに購入、分解して技術レベルを徹底的に調べ、技術を高く評価したことも提携につながった。

10月、合弁契約書、技術協力など5つの合意案が完成、GMのローチェ会長がサインするとすぐに通商産業省(当時)や銀行に報告。「GM―いすゞ提携」は11月1日の日本経済新聞の朝刊1面でスクープされ、私はクライスラーに始まった1年半の提携交渉成功に達成感を感じた。

翌年4月、ローチェ会長が来日した。羽田空港で出迎えた私が驚いたのは会長が民間定期便で、秘書もつけず1人で来日、しかも質素な布製のスーツケース1つの軽装だったことだ。質実剛健なGMの社風を象徴していた。

ローチェ会長は65歳で退任するまで、常にいすゞとの提携の成功を祈っていたとのことである。

(元伊藤忠商事会長)

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