室伏稔(29)企業人生

社会に貢献、悔いなく
仕事を問わず国際的視野を

「私の履歴書」もついに最終回となった。振り返ると、伊藤忠商事入社以来、石炭の営業に携わった時代、ニューヨーク駐在、業務部・総合開発部、食品本部、業務・海外担当役員、社長・会長、そして日本政策投資銀行の総裁・社長と長年、企業人生を歩み、いささかなりとも社会貢献も果たし得たことはビジネスマンとしては望外のことであり、本当に悔いのない人生だった、ということができる。

人との出会いにも恵まれた。私を指導してくれた会社の諸先輩、同僚諸氏、支えてくれた後輩の人々、取引先の方々、友人の皆様に心から御礼を申し上げたい。苦楽を共にしてくれた家族にも心からの感謝の気持ちでいっぱいである。

最近、多くの方と話をすると、明るい話は少なく、ほとんどの方は一様に現在の経済情勢を憂え、日本の将来の不安を口にする。他方、反省も含めいろいろ眺めてみると、我が国の国際社会における発信力の弱さと、孤立しがちな傾向が懸念されてくる。国際的な発信力は、いかなる場合でも重要である。

「ジャパン・パッシング(日本素通り)」などの言葉も耳にする。資源のない日本、貿易立国の日本が孤立するなどあってはならないことである。国際社会において協調し得る強力な友好国との良好な関係が望まれる。とりわけ米国との関係の再構築が不可欠である。加えて欧州連合(EU)ならびに成長著しい新興経済国などとの関係緊密化が重要と思う。

私の幼年期、日本は戦争の暗い時代だった。なぜ、戦争をしなければいけなかったのか。いろいろ理由はあるだろうが、対米戦については、お互いに相手をよく知らないで戦争をしてしまった感が強い。

戦後、日本が国際社会に復帰してからはビジネスが国際交流の尖兵だったと思う。ビジネスに携わる人たちは何とか日本を知ってもらおうと懸命に努力し、相手から真摯に学ぼうと努めた。そこに数々の出会いがあり、「Good Chemistry」も数多く生まれたのである。

これからも、世界はますます狭くなり、経済のグローバル化は待ったなしで押し寄せてくるであろう。日本はより一層世界と協調して、世界の繁栄と発展に重要な役割を果たしていくことが求められよう。

私が伊藤忠の会長を退任する時、全社員に対し次のことを述べた。「各人は必ず、Agenda(課題)を持ってほしい。すなわち、自らに課題を与え、Nothing is impossibleの精神でやり遂げてほしい」。この言葉をここで再び読者の皆様に、特に将来を担う若い方たちに申し上げたい。課題は各自いろいろあってよいと思うが、私は特に皆さんに国際的視野を身につけることの重要性を強調したい。

今の仕事が何であれ、ぜひ視野を広げ、グローバルな規模で考える力を養うことにより、国際協調の重要性を身近に感じてほしい。そうした努力の積み重ねを通じて、ますます厳しくなる国際情勢の中で、日本がその役割を十分に果たし、国際社会において名誉ある地位を与えられるものと信じてやまない。日本の明るい将来と皆様のご活躍をお祈りし、「私の履歴書」を締めくくりたい。

(元伊藤忠商事会長)

=おわり

日本の明るい未来を信じている(室伏稔氏)

室伏稔(16)瀬島龍三さん

短い間だが謦咳に接す
「縦割り」に「横ぐし」常々強調

「室(室伏)さん、ありがとう。伊藤忠を頼むよ。日本を頼むよ」。瀬島龍三さんは小さな声で私にこう言うと、ほっとしたように目を閉じられた。2007年夏、調布の瀬島さんのお宅にお見舞いに伺った時が最後のお別れになった。

瀬島さんが伊藤忠に入社したのは1958年1月、11年に及ぶシベリア抑留から帰国してからだった。当時、私は原料炭の輸入を手掛ける若手社員で、瀬島さんとの接点はほとんどなかった。仕事をご一緒するようになったのは、瀬島さんが業務部長になり、私がニューヨーク駐在になってからのことである。

私が石炭担当から北米総支配人席に異動したのは、瀬島さんのご意向であり、「GM―いすゞ提携」などでは瀬島さんの陣頭指揮のもとで働いた。帰国し本社の業務部勤務になってからは瀬島さんの謦咳(けいがい)に接することになった。

一時「瀬島学校」と呼ばれたことがあった。業務部、業務本部で瀬島さんのスタッフ集団をマスコミがこう呼ぶようになった。瀬島さんが「元大本営参謀」ということで様々な関心を持たれたためだが、私はこの呼び方に何となく違和感があった。私自身は瀬島さんに直接、指導を頂いた期間も短く、「瀬島学校」を語るには内心、忸怩(じくじ)たるものがあるが、いくつかお話ししたいこともある。

まず当時の業務部の役割を簡単に説明したい。国際化、非繊維部門の拡大発展を目標とし、2つの重要な機能があった。「中長期、短期の全社的経営計画、組織、制度の企画、立案、管理」と「グループ戦略並びに成長戦略につながる全社的プロジェクトの推進」である。それを十数人の人数でこなしていた。「重要な部署ほど少数精鋭」が瀬島さんの考えだった。

経営企画担当以外の部員は各営業部門から2名ずつ選抜された社員で、出身部門と密接に連携し、予算や決算の精度を高め、全社プロジェクトで営業部門との協力を担った。瀬島さんが業務部長になった61年に伊藤忠は資金繰り難に見舞われた。瀬島さんの指揮の下、危機は回避できた。予算・決算・資金の正確な把握は、経営安定に不可欠で、「瀬島業務部」の原点だった。

一方、各営業部門は短期の利益を追求しがちで、資金が固定化する長期プロジェクトを避ける傾向も目立っていた。それを業務部が資金と人員を負担し、全社プロジェクトとして遂行しようというのが瀬島さんの発想だった。

総合商社にとって強さと弊害の両面性を持つ「部門縦割り」に部門横断的な総合調整機能という「横ぐし」を通すことの重要性を瀬島さんは耳が痛くなるほど強調された。恐らくは瀬島さんの大本営における経験が伊藤忠の業務部の機能に反映されているのだと思われる。

瀬島さんは業務部員向けに「心得」をつくられた。

 (1)「着眼大局 着手小局」目標は高く、広く、長期的に。実行は着実、綿密に
 (2)戦略は戦術をカバーするが、戦術は戦略をカバーできない
 (3)心得メモ
 ・仕える上司の意図をよくつかみ、誠心誠意仕えるべし
 ・勉強せよ。経済情勢、業界情勢、営業・商品知識
 ・謙虚たれ
 ・営業部門とは御用聞きのつもりで接するように

(元伊藤忠商事会長)

ナイジェリアの鉄鋼関係プラントの式典に出席(右から筆者、瀬島さん)

室伏稔(14)石油危機

サウジ相手 粘りの商談
千載一遇の契約、独断署名

1973年10月、第4次中東戦争をきっかけに第1次石油危機が起きた。日本をはじめ先進国の原油調達は不安定化した。伊藤忠にとって力を増した中東など産油国の国営石油会社との関係強化が喫緊の課題となった。

私は72年4月、ニューヨークから9年ぶりに帰国、東京本社の総合開発部で大型のプロジェクト案件を手掛けるようになっていた。74年夏、面識のあるベイルートのある実業家の自宅に招かれ、彼から中東産油国に幅広い人脈を持つW・R・グレース社の幹部を紹介してもらった。

グレース社はサウジアラビアの工業化につながるプロジェクトを構想しており、サウジの天然ガスを原料にアンモニア・尿素をつくる事業への参加を提案してきた。伊藤忠はサウジの天然ガスを液化天然ガス(LNG)にして日本に輸入する構想を持っており、コンソーシアムを組んで、サウジの石油鉱物資源公団、ペトロミンとの交渉に臨むこととなった。

74年10月。この年、就任した戸崎誠喜社長に呼ばれ「室伏君、ペトロミンとの関係をしっかり頼むよ」と激励され、身の引き締まる思いでサウジに向かった。訪れたサウジ東部ダハランのペトロミンの仮事務所は砂漠のなかのテントだった。タヘール総裁には世界中の石油会社が面会を求め列をなしていた。初めて会ったタヘール総裁は丁寧に話を聞く誠実な人だった。伊藤忠で総裁に会ったのは私が初めてで「窓が開いた」という期待感を持った。

だが、話は簡単ではなかった。我々の年間600万トンのLNGプロジェクトの提案について「提案は評価するが、LNGは困難だ」と明確に否定された。サウジは天然ガスをそのまま輸出するのではなく、自国内で付加価値をつけて輸出する方針をすでに打ち出していたからだ。その後、2回、タヘール総裁と面会、LNGを提案したが、答えは「ノー」。それでも粘る私に「おまえもしつこいな」と苦笑いをされた。

75年6月の面談でLNGではなく、化学用メタノールの生産に変えるならFS(事業化調査)契約を結ぼうという最終提案を総裁から直接受けた。条件は「1時間以内の回答」。東京の上司の許可を得ようにも当時のサウジは国際電話を申し込んでからかかるまで半日から1日もかかる。私は「こんなチャンスは二度とない」と独断で署名に応じた。まさに清水の舞台から飛び降りる心境だった。

そして帰国後、三菱瓦斯化学にお願いし、コンソーシアムに加わってもらった。その後のサウジ側との継続的な交渉の結果、外資の事業主体は三菱瓦斯化学を中心とする日本側一本となった。

サウジ側の主体は新たに設立されたサウジ基礎産業公社(SABIC)となり、79年11月に日本・サウジが50%ずつを出資、年産60万トンの化学用メタノールをアル・ジュベイルで生産するプロジェクトの調印にこぎ着けた。三菱瓦斯化学は長野和吉副社長(後に社長)の陣頭指揮の下、見事なチームワークだった。三菱重工業がプラント建設を担当した。

事業主体の日本・サウジメタノールはすでに設立30年を超え、増強を重ねて年産500万トンの世界最大のメタノールプラントに成長したのをみるにつけ、中東での苦労が報われた思いがする。

(元伊藤忠商事会長)

サウジ事業の25周年記念式典に出席(筆者は中央)

室伏稔(13)最後のビッグ3

GM交渉、ついに道開く
東奔西走の1年半に達成感

フォード首脳にいすゞ自動車との提携を提案する瀬島龍三専務のプレゼンテーションはうまくいき、フォードは提携に動き出した。特別チームがいすゞの視察などのため来日するようになった。私たちが気を使ったのはマスコミ対策。漏れれば失敗する。フォード、いすゞなど社名はすべて別名に変え、担当者は偽名の名刺をつくったほどだった。

フォードのスコット副社長も何回か来日し、いすゞ幹部との交渉に臨んだ。ただ、藤沢工場のみを使った乗用車合弁を志向するいすゞと大型トラックまで含めた合弁を求めるフォードとの溝は大きかった。1969年12月、最終プランをまとめ上げ、ヘンリー・フォード2世会長に上程した。

「残念だが、フォードは降りる」。数日後、フォードの担当者からかかってきた電話に私は一瞬、力が抜けた。その晩、伊藤忠のニューヨーク支店ではクリスマスパーティーがあった。同期入社で、いすゞ案件を一緒に進めてきた酒井隆君と2人で杯を上げ誓った。「まだGMがある」「Nothing is impossible」の言葉が頭に浮かんだ。

70年、年明けとともにGMへのアプローチを開始。1月12日、私とチャイ君でGMのニューヨークオフィスを訪問、経営企画担当部長のロックウッド氏にいすゞとの提携の重要性を訴えた。「返事は早くて月末」というGM側に「14日までの返答」を求めた。いすゞの社内では日産との提携推進派があり、時間との競争になっていたからだ。

17日にGMから受諾の返事を受け、20日にはロックウッド氏と私は日本の土を踏んでいた。GMの動きは世界最大の製造業とは思えないほど迅速だった。だが、空港で我々を迎えたのは「いすゞ―日産提携」の新聞記事だった。伊藤忠は苦しい立場に追い込まれ、ロックウッド氏はいすゞと会談しないまま、手ぶらで帰国することになった。いすゞは日産との交渉を優先、GMとの提携は宙に浮いた。

事態が動いたのは6月ごろだった。いすゞのトップが大橋英吉社長から荒牧寅雄社長に交代、いすゞ―GM提携交渉は再び、動き始め、人の往来も激しくなった。

70年8月、いすゞの岡本利雄副社長と瀬島専務が訪米、GMのゲージ副社長らと会談した。話は一気に進み、提携交渉に光明が見え始めた。GMからも特別チームが来日、いすゞと様々な分野で協議が進んだ。その間、GMはいすゞの乗用車をひそかに購入、分解して技術レベルを徹底的に調べ、技術を高く評価したことも提携につながった。

10月、合弁契約書、技術協力など5つの合意案が完成、GMのローチェ会長がサインするとすぐに通商産業省(当時)や銀行に報告。「GM―いすゞ提携」は11月1日の日本経済新聞の朝刊1面でスクープされ、私はクライスラーに始まった1年半の提携交渉成功に達成感を感じた。

翌年4月、ローチェ会長が来日した。羽田空港で出迎えた私が驚いたのは会長が民間定期便で、秘書もつけず1人で来日、しかも質素な布製のスーツケース1つの軽装だったことだ。質実剛健なGMの社風を象徴していた。

ローチェ会長は65歳で退任するまで、常にいすゞとの提携の成功を祈っていたとのことである。

(元伊藤忠商事会長)

室伏稔(12)自動車産業に力

「いすゞ案件」大仕事に
提携先探し、紆余曲折たどる

誰しも記憶に鮮やかに残り、人生の進路を決める記念碑的な仕事があるはずだ。私には「ゼネラル・モーターズ(GM)―いすゞ自動車提携」がそれであり、最初の米国駐在中の最大の仕事となった。ただ、紆余曲折に富んだ苦労の多い仕事だった。

1960年代末、経済成長を遂げた日本は、外貨の日本企業への出資、日本での子会社設立などの制限を緩和する資本自由化の時期を迎えていた。67年7月に第1次自由化が実施され、73年5月の第5次まで段階的に進められた。

日本は67年に自動車生産で西ドイツを抜き、米国に次ぐ第2位の自動車生産国になっていたが、国内メーカーとGM、フォード、クライスラーの米ビッグ3との間には大きな差があった。乱立気味だった国内メーカーはトヨタ自動車、日産自動車は別として、外資との提携に生き残りの道を見いだそうとしていた。

いすゞと伊藤忠が共同で外資に対応しようと合意したのはそんな時期だった。時の越後正一社長は成長の見込まれる自動車産業で戦略的な役割を果たそうと考えており、いすゞの話は大きな意味を持つことになった。

最初の提携候補はクライスラーだった。69年3月下旬、伊藤英吉会長が訪米するにあたって、クライスラー幹部との会合を実現するよう東京から私に要請があった。私にとって新しい分野だったが、東京で担当したのが同期入社で、独身寮で同室だった親友の酒井隆君だったこと、私が石炭関係の縁でクライスラーのジョージ・ラブ前会長や秘書を知っていたことから、いすゞ案件にかかわることになった。

「会わない方がよいと思います」。顔なじみの秘書に面会依頼の電話をすると奇妙な返事が返ってきた。不審に思いながらも、粘って先方の幹部との面会を取り付けた。実際の会談でもクライスラー側は煮え切らない態度に終始し、伊藤会長は釈然としないまま帰国した。1カ月半後、日本の新聞に「クライスラー―三菱重工提携」の大見出しが躍った。クライスラー側の態度の謎は解け、候補の1社が消えた。

次の候補はフォードだった。いすゞ案件を特命で担当するようになった瀬島龍三専務業務本部長からフォード首脳との会談実現の命が下った。すでに北米総支配人席に移っていた私はチャイ君とともに取り組むこととなった。フォードとの仲立ちを、リーマン・ブラザーズのパートナーを務めていたジョージ・ボール元国務次官に依頼、69年5月末、瀬島専務が訪米し、フォードのスコット副社長らと会談することになった。

会談の前夜、瀬島専務が泊まるホテルで、私、酒井君、チャイ君の3人でプレゼンテーションを準備し、あらゆるケースに対応できるよう綿密な想定問答集を作成した。徹夜で完成させ、瀬島専務は午前いっぱいかけて読み込んだ。

午後の会談では瀬島専務がスコット副社長らに日本の自動車市場、業界、いすゞの内容などについて説明。最後に瀬島専務が帰途に就く前に返事をもらいたいと求めた。かなり無理な要求だったが、翌日夕方、ヘンリー・フォード2世会長の署名入りのレターが届いた。「伊藤忠の提案を受け、いすゞとの提携を検討したい」とあった。

(元伊藤忠商事会長)

鉢呂氏の発言 非難は的外れ

無職 (神奈川県鎌倉市 70)

「鉢呂吉雄経産相が福島視察後の発言をメディアに問題視され辞任した。だが、果たして辞任に値するような発言だろうか。特に『残念ながら市街地は人っ子一人いない。まさに死の町という形だった』という発言は、深刻な事実を率直に表現しただけではないか。言葉の裏にも避難住民を侮蔑する気配はみじんも無い。では、チェルノブイリ周辺を『死の町』と報じたメディアは無かったのか。『放射能をつけちゃうぞ』も非公式の場でじゃれただけの話ではないか。

私も東日本大震災の被害者だ。宮城県山元町にいずれ永住するために家を買い、約18年行き来をしていた。だが、家は津波で一瞬にして全壊した。震災後も行くたびに被災時と変らぬ悲惨な町の状況を見て、まさに『死の町』だと感じた。

私が今回の鉢呂氏の発言を聞き、改めてこみ上げて来たのは安全をなおざりにして原発を推進して来た者たちへの怒りだ。政治家や官僚、電力会社、学者たち。避難さるべきは事実を語った鉢呂氏ではなく、『死の町』を生み出したこれらの者たちのはずだ。その責任追及こそメディアの責任ではないのか。

政治家の悪意の無い素直な表現にまで目くじらを立てていたら、だれも真実を語れなくなり、現実に即した政治などできなくなる。横並びで揚げ足取りばかりする昨今のメディアの報道姿勢には強い不信を感じる」

朝日新聞投書