小泉淳作(16)武谷さんの言葉

妥協せぬものを一つ
副業で嫌気さす自分に勇気

「人生は妥協の連続ですよ。人は妥協しなければ生きていけません。でもね、ひとつだけ妥協しないものを持たなくちゃね」。武谷三男さんの言葉は腹にずしんと来た。

嘱託やアルバイトで、自転車、お菓子のパッケージなどのデザインを手がけ、居並ぶデザイナーの中で採用率はぴかいちだった。だが、製品を実際に売り出す際に担当者から細かい手直しを求められることがしばしばあった。やむなく妥協して注文に応じる自分に嫌気がさしていた。

だが、武谷さんの言葉に勇気づけられた。デザインの仕事は大事な生活の糧だが、しょせんは副業。妥協したっていい。妥協してはいけないもの、それは本業の絵なのだ。

武谷さんは私より13歳も年長の著名な物理学者だが、若い私にもフランクに接してくださった。知遇を得た1955年(昭和30年)ごろは立教大学の教授だった。

京都帝国大学(現京都大学)理学部で湯川秀樹さんらとともに原子核物理と素粒子論を研究された俊英である。戦後は研究活動の傍ら、米国の水爆実験を批判するなど、原子力問題で貴重な発言をされた。鶴見俊輔さんたちとともに雑誌『思想の科学』を創刊されている。

美術学校を出た私とは縁もゆかりもない経歴の武谷さんとは、ひょんなことから知り合った。私が結婚後に暮らし始めた阿佐谷の家の大家の娘さんが出版社に勤めていて、武谷さんたちと親しかった。有能な女性で、『思想の科学』のメンバーを自宅に呼んで談論風発していた。

私も時折、その輪に加わった。鶴見さんもハーバード大学で哲学を学んだ秀才だが、本当にいい人で、お話が実に面白い。武谷さんは絵がお好きで、井の頭公園の近くのご自宅にうかがうと画集がたくさんあって、絵の話をするのも愉快だった。

結婚翌年の8月に弓子が生まれて、妻の黎子は子育てと家事に奮闘した。大家さんの広い庭を15年間の約束で借地して、ちっぽけな家を建てさせてもらった。絵に描いたような幸せな新婚生活。でも、本業の絵はなかなか描けない。模索が続いていた。

結婚した54年に東京都美術館で開いた新制作協会の第18回展に『花火』『床やにて』を出品して初入選した。厚ぼったく、ややくすんだ強い色彩の作品で「宗教劇の一場面のようだ」と評する人がいた。精魂込めて描き上げた、地味な絵である。

新制作協会は「新制作派協会」と「創造美術」の合併で生まれた。創造美術は48年1月、中堅の日本画家13人が「世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」と宣言して結成したものだ。従来の日本画の枠にとらわれず、自由で実験的な創造を標榜した革新運動で、戦後間もない日本画壇の一大事件だった。新制作協会の日本画部は、現在も創画会として連綿と続いている。

福田豊四郎、吉岡堅二、上村松篁(しょうこう)ら各氏の創設メンバーに、私の尊敬する恩師山本丘人先生も名を連ねていた。だから私も意気に感じて新制作協会の展覧会には毎回のように出品した。

デザインの仕事で収入を得て、絵に懸命に打ち込んだ。55年に『群集』『道』、56年には『休日』『ちんどんや』が入選、その後も入選を重ねた。しかし、納得する絵が描けず、画壇の話題にもならなかった。

(日本画家)

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