小泉淳作(12)日本画科に復学

山本丘人先生が担任に
学生にも対等、権威主義嫌う

伊豆・子浦での療養は結局、3年近くに及んだ。高価だった特効薬が入手しやすくなったのが大きい。幸運だった。

絵への情熱は全く衰えていなかった。陸軍予備士官学校の2年弱と合わせて5年近くの休学を挟んで、東京美術学校(現東京芸術大学)の日本画科に復学を果たした。1948年(昭和23年)4月のことだ。特段、学校に申請も出さなかったのに、よく除籍にならなかったものだ。

戦中、戦後の大混乱のどさくさで、学校側もそんなことにお構いなしだったのだろう。戦後は美術を志す若者が増えて、美術学校は難関になっていた。受験し直したら、合格できたかどうか。

混乱は復学してからも続いていた。クラスメートに「学費も払わなくても大丈夫みたいですよ」と言われて喜んだが、さすがにそこまでいい加減ではなかった。

上野の学校に通い始めて驚いたのは女子学生がいたことだ。前年に入学した人たちと同じクラスになったのだが、松山美知子さんと小松澄佳さんが学んでいた。松山さんは後にやはり同じクラスの平山郁夫さんの奥さんになる。小松さんは日本画家、小松均氏の娘さんで、2人ともとても優秀だった。14人か15人のクラスだった。

一緒に常岡文亀先生に受験指導を受けた川崎鈴彦さんは48年に日本画科を卒業していた。遠州流茶道宗家の十二世家元になる小堀宗慶さんは翌年、復員して、復学した。

クラス担任は山本丘人先生。先生のクラスに入ったのは運がよかった。私は画家としてなかなか世に出られなかったけれども、丘人先生は生涯の絵の師である。

丘人さんは何も教えてくれない。「好きなように描け」「君たちが持っている天分を伸ばせばいいんだ」と言うだけだ。

学生が少ないので、教室はがらがら。先生は我々が制作している横で、机を4つ並べてよく昼寝をしていた。だが、教えを請うと懇切丁寧だった。

ある日、上野動物園に授業で写生に出かけた折、先生は動物園の塀を乗り越えて入っていかれた。純情で子どもっぽいところがあった。尊大な振る舞いや権威主義を嫌い、学生たちに率直、対等に接してくださった。

思い返すと、ため息が出るほどの豪華な教授陣だった。日本の美術史上に燦然(さんぜん)と輝く画家たちが次々に教室にやって来た。

学科長は安田靫彦先生。結核の療養を終えられ、少し前かがみになって授業をされた。「無駄を省け、整理して描け」とよく言われた。小林古径先生は寡黙で、絵を見てもらうと凝視したまま何も言わない。やっと出てくる言葉は簡潔、的確なのだ。奥村土牛先生は物静かで温厚な方だった。のちに前田青邨さんも教授で来られた。

石炭はもっぱら産業用なのに、冬になると教室で石炭をふんだんに使ってストーブをたいた。どんな状況だったか忘れたが、教室で私独りで裸婦をスケッチしたこともある。実にぜいたくだった。

日本は貧しく経済復興に躍起だった。それなのに、乏しい国家予算から若い芸術家の卵たちに投資してくれていたのだ。それを思うと胸が熱くなる。

(日本画家)

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