小泉淳作(24)殻を破る体験

還暦過ぎ、売れ始める
奥秩父で写生、山に形教わる

中川一政先生のところには加山又造さん、高山辰雄さんといった日本画家が集まっていた。俳優の緒形拳さんやプロ野球の衣笠祥雄さんもよく来ていた。

画商が何人も来ていて、その中で東京・日本橋の一番星画廊の社長になった星忠伸さんが私に注目してくれた。

そのころは画廊を持たず、美術商の肩書だった星さんの専門は洋画で現在、日本洋画商協同組合の理事長をしている。中川先生が晩年に画題にした薔薇を真鶴のアトリエに届け続けた男だが、古い美術品や書画にも目が利く。そんな彼が売れない日本画家の私の作品を評価してくれたのである。

中国の唐・宋画の素晴らしさに衝撃を受けて水墨画、とりわけ山水画を描きたいと心に決めて、私は試行錯誤を重ねていた。ずいぶん時間がかかったが、50代半ばごろになって、ようやく自分なりの山水画が姿を現し始めたような気がした。

試行錯誤の大きな原因は画法にあった。日本画は一般的に下地の段階から順々に色を塗り重ねていく。私は描いたり消したりして、じっくりと描いていく。売れっ子画家と違って時間はたっぷりある。押したり引いたり、粘り強く描いていくやり方である。

だが、水墨画は塗り直しができない。私には水墨画は無理かもしれないと迷い続けていたが、ある日、奥秩父の山を写生しているときに、天啓のように「できる」とひらめいた。

そのひらめきは技術的なことではない。時がたつのも忘れて丹念に写生しているうちに山々のバランスの美しさに打たれた。完璧な造形だった。山から形を教わったような気がした。自然が発する「気」に感応できた。そんな実感があった。

水墨画に開眼したと言うつもりはない。それ以降も技法的なことで迷いが続き、実験や挑戦を重ねた。だが、ひとつ殻を破れたのは確かだった。

水墨画と格闘しているさなかの1978年(昭和53年)に旧友の依頼で挿絵の仕事が舞い込んだ。美術学校時代にアルバイト先で知り合った辻邦生さんは人気作家になっていて、この年の11月から『朝日ジャーナル』に小説『樹の声海の声』の連載を始めたのだ。じっくり型の私には大変な仕事だったが、おかげで名前が売れた。

80年代に入ると個展が増えてきた。60歳になったばかりの84年11月、東京・銀座のギャラリー上田で開いた個展には大作『秩父の山』など山水画6点に冬瓜、蕪、花などを描いた絵を出品した。

会場に来てくださった彫刻家で画家のイサム・ノグチさんは、冬瓜の絵の前に長い時間立ち止まって、ひと言「この絵には神様が宿っている」と言ってくださった。詰め襟のような服を着て髪を短く刈り込んでおられたノグチさんの姿を今もはっきりと覚えている。

個展の新聞・雑誌評もおおむね好評だった。それまではたまに新聞や雑誌に記事が載っても「俳優小泉博さんの兄」と紹介されることが多かったが、少しずつ「弟は俳優の小泉博さん」と書く記事が増えてきた。

還暦を過ぎて、ようやく絵が売れ出した。私も星さんも忙しくなった。

(日本画家)

冬瓜
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/affa14125bbcc0a2414c56b8b7369434

小泉淳作(16)武谷さんの言葉

妥協せぬものを一つ
副業で嫌気さす自分に勇気

「人生は妥協の連続ですよ。人は妥協しなければ生きていけません。でもね、ひとつだけ妥協しないものを持たなくちゃね」。武谷三男さんの言葉は腹にずしんと来た。

嘱託やアルバイトで、自転車、お菓子のパッケージなどのデザインを手がけ、居並ぶデザイナーの中で採用率はぴかいちだった。だが、製品を実際に売り出す際に担当者から細かい手直しを求められることがしばしばあった。やむなく妥協して注文に応じる自分に嫌気がさしていた。

だが、武谷さんの言葉に勇気づけられた。デザインの仕事は大事な生活の糧だが、しょせんは副業。妥協したっていい。妥協してはいけないもの、それは本業の絵なのだ。

武谷さんは私より13歳も年長の著名な物理学者だが、若い私にもフランクに接してくださった。知遇を得た1955年(昭和30年)ごろは立教大学の教授だった。

京都帝国大学(現京都大学)理学部で湯川秀樹さんらとともに原子核物理と素粒子論を研究された俊英である。戦後は研究活動の傍ら、米国の水爆実験を批判するなど、原子力問題で貴重な発言をされた。鶴見俊輔さんたちとともに雑誌『思想の科学』を創刊されている。

美術学校を出た私とは縁もゆかりもない経歴の武谷さんとは、ひょんなことから知り合った。私が結婚後に暮らし始めた阿佐谷の家の大家の娘さんが出版社に勤めていて、武谷さんたちと親しかった。有能な女性で、『思想の科学』のメンバーを自宅に呼んで談論風発していた。

私も時折、その輪に加わった。鶴見さんもハーバード大学で哲学を学んだ秀才だが、本当にいい人で、お話が実に面白い。武谷さんは絵がお好きで、井の頭公園の近くのご自宅にうかがうと画集がたくさんあって、絵の話をするのも愉快だった。

結婚翌年の8月に弓子が生まれて、妻の黎子は子育てと家事に奮闘した。大家さんの広い庭を15年間の約束で借地して、ちっぽけな家を建てさせてもらった。絵に描いたような幸せな新婚生活。でも、本業の絵はなかなか描けない。模索が続いていた。

結婚した54年に東京都美術館で開いた新制作協会の第18回展に『花火』『床やにて』を出品して初入選した。厚ぼったく、ややくすんだ強い色彩の作品で「宗教劇の一場面のようだ」と評する人がいた。精魂込めて描き上げた、地味な絵である。

新制作協会は「新制作派協会」と「創造美術」の合併で生まれた。創造美術は48年1月、中堅の日本画家13人が「世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」と宣言して結成したものだ。従来の日本画の枠にとらわれず、自由で実験的な創造を標榜した革新運動で、戦後間もない日本画壇の一大事件だった。新制作協会の日本画部は、現在も創画会として連綿と続いている。

福田豊四郎、吉岡堅二、上村松篁(しょうこう)ら各氏の創設メンバーに、私の尊敬する恩師山本丘人先生も名を連ねていた。だから私も意気に感じて新制作協会の展覧会には毎回のように出品した。

デザインの仕事で収入を得て、絵に懸命に打ち込んだ。55年に『群集』『道』、56年には『休日』『ちんどんや』が入選、その後も入選を重ねた。しかし、納得する絵が描けず、画壇の話題にもならなかった。

(日本画家)

小泉淳作(12)日本画科に復学

山本丘人先生が担任に
学生にも対等、権威主義嫌う

伊豆・子浦での療養は結局、3年近くに及んだ。高価だった特効薬が入手しやすくなったのが大きい。幸運だった。

絵への情熱は全く衰えていなかった。陸軍予備士官学校の2年弱と合わせて5年近くの休学を挟んで、東京美術学校(現東京芸術大学)の日本画科に復学を果たした。1948年(昭和23年)4月のことだ。特段、学校に申請も出さなかったのに、よく除籍にならなかったものだ。

戦中、戦後の大混乱のどさくさで、学校側もそんなことにお構いなしだったのだろう。戦後は美術を志す若者が増えて、美術学校は難関になっていた。受験し直したら、合格できたかどうか。

混乱は復学してからも続いていた。クラスメートに「学費も払わなくても大丈夫みたいですよ」と言われて喜んだが、さすがにそこまでいい加減ではなかった。

上野の学校に通い始めて驚いたのは女子学生がいたことだ。前年に入学した人たちと同じクラスになったのだが、松山美知子さんと小松澄佳さんが学んでいた。松山さんは後にやはり同じクラスの平山郁夫さんの奥さんになる。小松さんは日本画家、小松均氏の娘さんで、2人ともとても優秀だった。14人か15人のクラスだった。

一緒に常岡文亀先生に受験指導を受けた川崎鈴彦さんは48年に日本画科を卒業していた。遠州流茶道宗家の十二世家元になる小堀宗慶さんは翌年、復員して、復学した。

クラス担任は山本丘人先生。先生のクラスに入ったのは運がよかった。私は画家としてなかなか世に出られなかったけれども、丘人先生は生涯の絵の師である。

丘人さんは何も教えてくれない。「好きなように描け」「君たちが持っている天分を伸ばせばいいんだ」と言うだけだ。

学生が少ないので、教室はがらがら。先生は我々が制作している横で、机を4つ並べてよく昼寝をしていた。だが、教えを請うと懇切丁寧だった。

ある日、上野動物園に授業で写生に出かけた折、先生は動物園の塀を乗り越えて入っていかれた。純情で子どもっぽいところがあった。尊大な振る舞いや権威主義を嫌い、学生たちに率直、対等に接してくださった。

思い返すと、ため息が出るほどの豪華な教授陣だった。日本の美術史上に燦然(さんぜん)と輝く画家たちが次々に教室にやって来た。

学科長は安田靫彦先生。結核の療養を終えられ、少し前かがみになって授業をされた。「無駄を省け、整理して描け」とよく言われた。小林古径先生は寡黙で、絵を見てもらうと凝視したまま何も言わない。やっと出てくる言葉は簡潔、的確なのだ。奥村土牛先生は物静かで温厚な方だった。のちに前田青邨さんも教授で来られた。

石炭はもっぱら産業用なのに、冬になると教室で石炭をふんだんに使ってストーブをたいた。どんな状況だったか忘れたが、教室で私独りで裸婦をスケッチしたこともある。実にぜいたくだった。

日本は貧しく経済復興に躍起だった。それなのに、乏しい国家予算から若い芸術家の卵たちに投資してくれていたのだ。それを思うと胸が熱くなる。

(日本画家)