山下洋輔(3)麻布中・高

同級生とジャズバンド
文化祭で喝采、先生も驚嘆

伊藤光先生は1928年創立の三井田川交響楽団を、終戦直後から指導していた。この時代に田川の炭鉱会社がクラシックの交響楽団を持っていたのだ。驚くべき文化の高さだ。思えば毎週新しいアメリカ映画を映画館で見られた。「シェーン」はここで見た。タイロン・パワー主演の「海の征服者」という映画も見た。ある場面の音楽がいい、などと隣の社宅に住む年上の友人早船準一とマセた話もした。まだ小学生だったのだが。映画館がかけるレコードが「スロー・ボート・トゥ・チャイナ」というジャズの歌でこれが街に響いていた。

後年知るが、北九州市若松と上海には戦前から石炭を介して貿易航路があった。そのせいで早くから若松でジャズが演奏されていたという。筑豊の石炭が遠賀川を下って上海に届いた。それで得られた富と共に先進文化も川を遡行して筑豊炭田の街にももたらされていたにちがいない。田川という場所で計り知れない大きなものを受け取っていると今あらためて感じている。

中学1年生の2学期から東京に戻り、近所の高円寺中学に通った。田川の後藤寺小学校を卒業の時には「総代」で卒業証書を受け取った子供も、東京に帰ってくると散々だった。まずバリバリの田川弁になっていて、一言しゃべると爆笑された。ひと月ほど言葉が出なくなった。その時、けんかをふっかけてくれて、取っ組み合いをした後に仲良くなった中島正雄君とは今でも親せきのようにつきあっている。これも「異民族との接触と融合」の例かもしれない。絶えず異質のものに対面して何とかなって行くうちに、そのことに快感を覚えるようになるのだろうか。

中学2年からは麻布中学に編入した。この学校はまた飛び抜けてユニークだった。先生に議論をふっかけるほど頭の良い生徒もいれば、演劇部や文学部にはたばこを吸って人生を語るませた連中もいた。

先生方も皆個性的だった。皆で声を揃えてお願いすると3度に1度は「椰子(やし)の実」を歌ってくれた乙骨明夫先生、黒板に漫画を描いて日本史の授業をした山口昌男先生、自宅に遊びに来る生徒と文学論を闘わせる中畑善雄先生、数学の授業なのに黒板に音符を書いて皆に歌わせた北原知彦先生もいた。普通に歌った後、最後から逆に読んで歌っても素晴らしいハーモニーになる合唱曲だった。「Thy Voice, O Harmony, Is Divine!」という曲だったと記憶している。北原先生は現代音楽の作曲家でもあった。

帰京後、中学3年の時に大学生の兄のジャズバンドに参加してジャズに夢中になっていたぼくは、高校1年の時に同級生を誘ってジャズバンドをつくった。ベースに瀧本国郎、ドラムに高原宣昭、クラリネットに森本光生を得て、スイングジャズをやり秋の文化祭に出た。これは大受けでテープのかわりのトイレットペーパーが大量に舞台に投げられた。「こんなことをするのはフランキー堺、小沢昭一以来だ」と言う先生もいた。後に瀧本は一緒にプロになり、高原は野村総合研究所のリサーチャーになり、森本は数学者になった。勉強をしている様子もないのに東大に入ってしまう同級生を何人も見ていたこの時期に、ぼくは自分の人生の道を決めたのだと思う。

(ジャズピアニスト)

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