ジョージ・W・ブッシュ(29)金融危機

破綻回避へ公的資金
「ルーズベルトになる」決心

「私たちが目にしているのは金融恐慌です……」

2008年初秋、ホワイトハウス内のルーズベルト会議室で連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ議長はそう言った。すでにファニーメイ(連邦住宅抵当公社)とフレディマック(連邦住宅貸付抵当公社)は政府の管理下にあった。ウォール街を代表する大手証券、リーマン・ブラザーズは史上最大額の負債を抱えて倒産。米政府とFRBは一体となってシティグループや、アメリカン・インターナショナル・グループの救済支援にあたっていた。

同席していたハンク・ポールソン財務長官が「状況は極めて深刻です」と言葉を継いだ。「大恐慌以来、最大の危機なのか」と私。「そうです」と相槌(あいづち)を打ちながら、ベンはこう言った。「1930年代以来、これほどひどいものはありません。しかももっと悪くなる恐れがあります」

ベンの分析を聞いて無性に腹が立った。ウォール街の関係者を中心とする、ごく少数の人間たちが住宅市場の活況が永遠に続くと思い込んだ。だが、実際にはそうはならなかった。正常な環境下ならば、私は彼らを喜んで放っておいたことだろう。自由市場が裁定を下し、彼らが破綻するだけだ。だが、我々は正常な環境にはいなかった。市場が機能を止めていたのだ。我々が問題を解決しなくてはならない。そう腹をくくった後、ベンとハンクにこう告げた。

「もし、我々が第2の大恐慌に直面しているとしたならば、私は絶対に(経済不況を悪化させた)フーバーではなく、(不況脱出に成功した)ルーズベルトになる」

08年10月3日、米下院は最大7千億ドル(約74兆円)の公的資金を投入し、金融機関から不良資産を買い取ることなどを柱とした金融安定化法を賛成多数で可決した。法案成立前には当時、大統領選の最中にあったバラク・オバマ、ジョン・マケインという民主、共和双方の上院議員も交えて法案設立への妥協点を模索したが、合意には至らなかった。

実は、この会議はマケインの発案でセットしたものだった。当時、マケインは世論調査でオバマに後れを取っていた。私はオバマに電話をかけ、「政治的な罠(わな)ではない」と出席を要請した。会議当日、オバマは落ち着いた様子でパッケージの中身を滔々(とうとう)と説明した。非常に頭のいい男だとその時、感じた。

11月上旬、そのオバマが初のアフリカ系大統領となることが決まると大統領執務室に招き、国内問題から世界情勢まで意見を交換した。席上、ゼネラル・モーターズ(GM)をはじめとする自動車産業の苦境が話題になった。会談後、私は自らの経済チームにこう伝えた。

「バラク・オバマに自動車メーカーを破綻させないと約束した」

12月19日、私は経営危機に陥っているGMとクライスラーにつなぎ融資を実施すると発表した。最大174億ドルで金融安定化法に基づく公的資金を活用するという内容だった。この約2カ月前、私が発表した、金融機関への資本注入を柱とする総合的な金融安定化策は「不良債権救済プログラム(TARP)」と呼ばれた。それをけがれた「四文字言葉」と揶揄(やゆ)する向きもある。だが、これがあったからこそ、米国民を歴史的な経済災害から救うことができたのだ。私は今でもそう信じている。

(前米大統領)

GMとクライスラーへのつなぎ融資を発表

ジョージ・W・ブッシュ(20)大義喪失

大量破壊兵器は無い
2つの過ちと揺るがぬ思い

2003年12月、イラクのティクリート近郊でかつての専制君主、サダム・フセインはその身柄を拘束された。自らの出生地であるティクリートから南に15キロ離れた農村に潜伏していたフセインは白いあごひげをぼうぼうとはやしたまま、約2メートルの深さの穴の底で横になっているところを取り押さえられた。

それから3年後、すでに主権を委譲されていたイラク政府は、イスラム教シーア派住民を虐殺した「人道に対する罪」で、死刑が確定していたフセインの絞首刑を執行した。ほぼ、四半世紀にわたり、イラクを恐怖政治で支配してきた独裁者は最後に自国の法廷で犯罪者として裁かれ、その生涯を終えた。

テロとの戦いにおいて、私は一つの原則を打ち立てた。まず、米国内が攻撃される前に脅威を見つけ出す。そして外交的な解決策を模索する。敵を見つけたら、法の裁きを受けさせる。同時テロ以前の我々は脅威を認定しても自分たちは安全だと思い込んでいた。もう、そうはいかない。

これが後に「ブッシュ・ドクトリン」と名付けられた原則の骨子だ。だから、単純な先制攻撃を意味しているわけではない。もちろん、国防総省は常に(核)兵器の近代化を試みるが、それはこの原則の名の下で行われたわけではない。両者を結びつけるのは間違っている。

いずれにせよ、イラクで大量破壊兵器(WMD)は見つからなかった。04年秋には捜索に当たっていた米調査団が報告書を発表した。この中で、イラクのWMD計画については「開発能力は湾岸戦争直後の1991年に、基本的に破壊されていた」と断定している。同時に「核計画の再開に向けた組織的な動きを示す証拠はなく、進行中の計画もなかった」と指摘した。

その後、何年もの間、自問を繰り返した。一体、何が間違っていたのだろうか、と。やがて、2つの過ちを犯したとの結論に達した。第一にイラク国内の治安回復にもっと迅速、かつ積極的に取り組むべきだった。開戦後、我々は米軍の規模を20万人強から10万人強に減らした。占領軍と見られることを回避するためだ。だが、イラク国民は占領への嫌悪感よりも治安の回復を望んでいた。

もう一つはもちろん、WMDを巡る情報が間違っていたことだ。当時、フセインがWMDを保有しているという「仮説」は世界に浸透していた。戦争支持派だけでなく、反対派もそう信じていた。同時にフセインの心理プロファイルによれば、彼はしぶとく生き延びようとする人物だった。彼が権力の座から降りたくないのであれば、WMDを持っているフリを続けて政権を危機に陥れる理由がどこにあるのだろうか。

フセイン捕獲後、連邦捜査局(FBI)による彼への事情聴取で答えの一部がわかった。フセインは連合軍によって追放されることよりもイランに対して弱腰だと思われることを嫌っていたのだ。フセインは米国がその言葉通り、武力をもって自分に武装を解除させるとは夢にも思っていなかったという。

いずれにせよ、今もフセインが生きていたら相変わらず国連の目を欺き、実際にWMDを保有していることだろう。それで世界は良くなっていただろうか。私はそうは思わない。だから、私は自ら下した決断を今でも強く支持している。

(前米大統領)

米政府はフセイン拘束を発表

ジョージ・W・ブッシュ(19)イラク戦争

早過ぎた「勝利宣言」
全土掌握も大目的を遂げず

「我々は好んで戦争を始めたわけではないが、目的は明確だ。大量破壊兵器(WMD)によって平和を侵す政権を存続させないのが我々の任務だ」

2003年3月19日午後9時半過ぎ、米英合同軍はイラクへの軍事作戦計画を開始した。それから約40分後、私は全米に向けてテレビ演説し、国民にこう説明した。

この作戦ではレーダーで捕捉されないステルス戦闘機や巡航ミサイルなどを多数投入し、首都・バグダッドを含むフセイン政権の主要拠点を空爆した。クウェートからは地上軍も投入し、イラク全土の掌握を目指した。イラク周辺に展開させた米軍勢力は23万5000人。ペルシャ湾や地中海には空母5隻を含む60隻以上の艦船も集結させた。

開戦から26日たった4月14日、米英軍はフセイン大統領の故郷であるイラク北部のティクリートを完全に制圧。これにより、イラク全土の掌握が完了し、名実ともにフセイン政権は幕を下ろした。

戦争開始に至る前、私は熟慮を重ねたつもりだ。かつて湾岸戦争を指揮した父はもちろん、ディック・チェイニー副大統領ら政権の重鎮たちとも何度も議論を重ねた。

もちろん、彼らの間にはそれぞれ温度差もあった。02年9月の国家安全保障会議でディックは「もう、行動の時だ」と私を促した。03年3月に戦争準備が整うと2人だけの昼食時に「この男(フセイン)を始末するのか、しないのか」と問いただしてきた。

コンドリーザ・ライス補佐官は内密の場では国連査察を支持していると伝えてきた。しかし、最後はWMDの放棄という国連決議をイラクに履行させるためには軍事オプションを行使する以外にないという結論を下した。ラムズフェルド国防長官は15万人もの兵力をいつまでもイラク周辺に置いておけないと断った上で、私の命令があれば「軍はいつでも用意ができている」と添えた。

最後まで軍事行動に懐疑的だったのはパウエル国務長官で、最後は同意してくれた。彼は外交で解決できると信じていた。同時に米軍が立案した計画では投入する兵員が湾岸戦争の3分の1にすぎなかったことにも懸念を示していた。

「スラムダンク(絶対確実)です」――。

02年のクリスマス前、中央情報局(CIA)のテネット長官は私にそう断言した。フセインが生物化学兵器を保有していることなどを示す確実な証拠を私が求めると彼はそう請け負った。私もそれを信じた。いや、当時、フセインがWMDを保有しているというのは世界でほぼ共通した認識だった。その後に見つかった多くの書類、データもフセインがWMDを開発・保有しようとしていることは明らかにしている。

だが、イラク戦争後にそうしたWMDは見つからなかった。そのことに私が失望したのは言うまでもない。

5月1日、私は空母エーブラハム・リンカーンの艦橋に降り立った。多数の兵士に囲まれながら、「イラクの戦いで米国と同盟国は打ち勝った」と呼びかけた際、私の後ろでは「任務完遂」の垂れ幕が踊っていた。だが、実際にはWMDの発見という難しい仕事が残っていた。それを伝えたかったのだが、実際には勝利を宣言したと受け止められてしまった。それは大きな失敗だった。

(前米大統領)

艦橋に降り立ち、イラク戦争の終結を宣言

人に嫌われないための五箇条

1. 初対面に無心で接すること。

初対面の相手によって、態度が大きく替わるのはテレビをご覧になってる方には周知の事実だろう。特に女性や特定のタレントに対しては、とても無心で接しているようには思えない。

2. 批評癖を直し、悪口屋にならぬこと

具体例を挙げるまでもないだろう。

3. 努めて、人の美点・良所を見ること

口から出てくるのはダメ出しのオンパレードである。たまに人の良所を言うこともあるが、ほとんどは人の不安感を煽る言葉ばかり。

4. 世の中に隠れて案外善いことが行われているのに平生注意すること

著書では、祟りや大殺界の不幸話など読者の不安感を煽るのに必死。世の中に隠れて善いことが行われている事例など探せばいくらでもあるのだから、不安を煽るだけでなく、こういった事例もたくさん載せるべきではないか。

5. 好悪を問わず、人に誠を尽くすこと

保坂尚輝のときは、反論されて逆ギレ。最後は怒りが収まらず「地獄へ堕ちる! 断言する!」と捨てゼリフ。自分の好悪によって態度がよく替わる。

細木数子

ジョージ・W・ブッシュ(16)アフガン攻撃

報復、対イラクは除外
パウエル国務長官らが反対

2001年10月7日午後、私はホワイトハウスで緊急記者会見し、国際テロ組織・アルカイダを壊滅するため、アフガニスタンでの軍事行動を開始したと発表した。「不朽の自由」と名付けた作戦では、アフガン周辺に展開した米英合同軍が首都カブールなどで電撃的な空爆を断行。これに合わせ、複数の米英特殊部隊が同時テロの首謀者として我々が断定したウサマ・ビンラディンの身柄確保などを目指してアフガンに潜入し、これをかくまうタリバン政権とも戦闘状態に突入した。

私は大統領執務室からテレビを通じて米国民に「タリバンは代償を払う」と断言した。その上でビンラディンらの身柄引き渡しや、テロ拠点の破壊に応じなかったことから、軍事行動に入った、と説明した。この作戦には英国のほか、カナダ、フランス、豪州、ドイツも戦力を投入。中東、アジアなどから40以上の国々も支援を提供してくれた。

開戦から1カ月近く前の9月15日、私はワシントン郊外のキャンプデービッド山荘にチェイニー副大統領、パウエル国務長官ら主要閣僚を招集し、同時テロ事件への報復問題を協議している。中央情報局(CIA)による対テロ撲滅戦略を論じた後、シェルトン統合参謀本部議長とその後任となるマイヤーズ副議長が(1)巡航ミサイルによる空爆(2)有人軍用機を加えた大規模空爆(3)大規模空爆と地上部隊の投入――という3つの選択肢を示した。

席上、国防副長官のウルフォウィッツが攻撃対象として、アフガンのタリバン政権だけでなく、イラクのフセイン政権も入れてはどうかと提案した。すかさず、ラムズフェルド国防長官が「テロ防止に大がかりに取り組んでいることを示すことができる」と合いの手を入れた。確かに、サダム・フセインはそれまでにも数多くの国連決議に違反していた。大量破壊兵器の廃棄を示す証拠提出を求める国連決議を10年以上も公然と無視したままだ。

しかし、パウエル国務長官は「今はやるべきではない」と反論した。テネットCIA長官も彼に同調した。その場は結論を預かり、週明けに2つの決断を下した。まず、対アフガン作戦は3番目のオプションでいく。イラクについては、同時テロとフセインの関連性を裏付ける証拠が見つかるまでは外交対応でいくということだった。

約1カ月後の10月5日、マイヤーズから作戦開始準備が整ったという連絡が入る。翌6日朝、私は滞在先のキャンプデービッドからラムズフェルド、マイヤーズと最後の確認作業に入った。「必要なものはすべてそろっているか」。即座に「そろっている」という返答。躊躇(ちゅうちょ)せず、2人にこう告げた。「行け、これは正しい行動だ」

攻撃開始から約1カ月後の11月16日、タリバン政権の最高指導者オマル師が本拠地カンダハルから撤退することを決め、政権は崩壊した。翌月には反タリバン4派の間で暫定行政機構(内閣)を巡る最終合意にも達した。

何としても処罰を与えたいと思っていたビンラディンは今なお、世界のどこかに潜んでいる。一方でアルカイダの最高指導者はかつてのように移動も通信も作戦も行うことはできない。タリバンとアルカイダがアフガンを奪回できるとすれば、それは唯一、米国がアフガンを見捨てた時だけなのだ。

(前米大統領)

ジョージ・W・ブッシュ(15)グラウンド・ゼロ

胸を突く現場の悲痛
拡声器で作業員に呼びかけ

「このビルを倒した奴(やつ)らにも私たちの声がすぐに聞こえるはずだっ」

2001年9月14日午後、私は同時テロ最大の被害地となったニューヨーク・マンハッタン島南部の世界貿易センタービルの跡地に立っていた。かつて摩天楼のシンボルだった2つの巨大なビルは砂塵(さじん)と瓦礫(がれき)の山に変わり果てていた。即興の演台として駆け上がった、足元の小高い山は救助活動中に潰れた消防車。側近が手元に用意してくれた拡声器に口元を寄せ、煤(すす)にまみれた救助隊員らに向けて、私は声の限りにこう叫んだ。

この時、すでに世界貿易センター跡地は元来、原爆の爆心地を意味する軍事用語である「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるようになっていた。私はパタキ・ニューヨーク州知事、ジュリアーニ同市長、そして、同州選出のヒラリー・クリントン上院議員(現国務長官)らと現場に足を踏み入れる前、上空のヘリコプターから、この「爆心地」を目に焼き付けている。

ヘリから降りるとジュリアーニ市長らとともに現場視察に臨み、不眠不休で救助活動にあたっている消防士や救助隊員を心から労った。だが、多くの同僚を失っている彼らがそんなありきたりの言葉で満足するはずもない。1人が突然、私を真正面から見据えてこう叫んだ。

「ジョージ、こんなことをやった奴らを見つけ出して、殺してくれっ」

初対面の大統領をファーストネームで呼ぶことは米国でも滅多(めった)にない。だが、この場の空気はそれを許していた。別の1人がすぐに続く。「俺の期待を裏切るなよ」。私の顔にめがけて「何がなんでも、やってくれ」と怒鳴りつける者もいた。いつの間にか私と握手するため列をなしていた作業員たちは群衆となり、私を幾重にも囲んでいた。

傍らのカード首席補佐官が「皆に声をかけたいか」と聞いてきた。舞台もマイクも草稿もなかったが、何としても彼らに直接、話しかけたい。

「聞こえないぞっ」。苛(いら)立ちを募らせ始めた作業員らに対して、ハンドマイクを通じて「私も世界中も皆の声を聞いている」と応じた。その後、冒頭の言葉を発すると群衆は待ちかねたかのように感情を爆発させた。いつしか、「USA、USA、USA」の大合唱があたり一帯にこだましていた。

それから約1週間後、私は米議会で真珠湾攻撃を受けた時のルーズベルト大統領以来となる戦時演説に臨み、テロ組織と全面対決する決意を内外に表明した。

演説の終了間際、私は1つのバッジを取り出して、場内にかざして見せた。世界貿易センタービルのテロ現場で救援に飛び込み、帰らぬ人となった警官・ジョージ・ハワードのものだ。彼の母親からそれを預かった私は演説で「終わることのない使命を私に思い起こさせてくれる形見だ」と説明した。その言葉通り、私はこのバッジを大統領任期中、常に肌身から離さなかった。

米同時テロは紛れもなく、私の大統領としての職務を定義し直した。確かに私が下した決定の中には理解されないものや、議論を呼んだものもあった。だが、自分の責任は明確だと感じていた。この国を護(まも)るために身も心も捧げる。それ以外に私のなすべきことは見当たらなかった。

(前米大統領)

ジョージ・W・ブッシュ(14)米同時テロ 混乱

迂回重ね首都へ
「犯人に法の裁きを」宣言

その時、米大統領専用の大型軍用ヘリ「マリーンワン」から見下ろした首都・ワシントンDCはまるで別世界のようだった。2001年9月11日夕刻。忌まわしい同時テロの1日前にワシントンを離れた時、街はまだ喧噪(けんそう)と活気にあふれていた。それが今ではゴーストタウンのように静まり返っている。目に留まるのは軍隊が設けた通行監視の拠点。そして、もうもうと煙を上げる国防総省の姿だけだった。

「明らかにテロリストによる我が国への攻撃だ」。遊説先のフロリダでそう言明した私はそのまま大統領専用機に乗り込んだ。即座に連絡を取ったのは副大統領のチェイニーだ。ホワイトハウスにも飛行機が突っ込む可能性があったため、チェイニーは地下の防空壕(ごう)を兼ねた緊急作戦センターに移動していた。

ここで早速、難しい決断を迫られた。すでに3機の民間旅客機がテロに使われている。だから、すべての航空機には着陸を命じていた。言い換えれば、まだどこかの空に飛んでいる物体があるとしたら、それはテロリストの手中に落ちていることを意味する。

「確かな手続きを踏んだのであれば、やむを得ない」。私はそう判断し、未確認物体は米軍機による撃墜もやむなし、とチェイニーに伝えた。

この時、米連邦航空局は合計で6機の民間機がハイジャックされていると判断していた。当然、治安当局はワシントンへの帰還を断念すべきだと主張した。これ以外にも情報が錯そうしていた。国務省にも爆弾があった、大韓航空機がワシントンに向かっている、テキサス州クロフォードにある私の牧場を未確認の飛行機が目指している……。

いずれも間違いではあったが、あの時はどれにも信憑(しんぴょう)性があるように聞こえた。

私の乗る専用機が撃墜対象になっているという情報があったことは既に触れた。治安当局が憂慮した理由は、それを示唆した脅迫電話の中で犯人が我々だけしか知らないはずの暗号、つまり専用機を指す「エンジェル」という言葉を使っていたことだ。万が一、この専用機が都市部の上空で撃墜され、多くの市民を巻き込む惨事を引き起こすのは最悪のシナリオといえる。やむなく、私は一時的な避難場所としてルイジアナ、そしてネブラスカの空軍基地へと機首を向けざるを得なかった。

ネブラスカ州のオファット空軍基地に到着するとすぐにホワイトハウス地下の面々とテレビ会議に臨んだ。私はこの場で「我々はテロとの戦争の最中にある」と言明。直後、中央情報局(CIA)のテネット長官に問いただした。「誰がやった?」。テネットは短い単語でこう答えた。

「アルカイダ」――。

仏情報機関からもたらされた「第2波の攻撃がある」という情報を基に連邦捜査局(FBI)は私の首都帰還に反対した。が、私は「帰る」と言い張った。同日午後8時半、ワシントンに戻ると大統領執務室から全米向けにテレビ演説し、「犯人を捜し出し、法の裁きを受けさせる」と宣言した。

ワシントンに帰還した際、専用ヘリから変わり果てた首都の姿を見ながら、傍らにいたカード首席補佐官に私はこう告げた。

「君が今、目にしているのは21世紀で最初の戦争だ」

(前米大統領)

大統領専用機の中で難しい決断を迫られた

ジョージ・W・ブッシュ(13)米ロ新時代

トップ合意で核軍縮
ABM脱退では溝埋まらず

東欧諸国の一つ、スロベニアのリュブリャナ郊外に中世のたたずまいを残すボルド城がある。ここで私は初めてロシアのウラジーミル・プーチン大統領と会談した。大統領に就任してから半年ほどたった2001年6月半ばのことだ。

この場で、私はプーチンに「もはや、あなた(ロシア)を敵とは見なしていない」と真っ向から告げた。その上で、冷戦時代に米ソ間で成立していた弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の「役割は終わった」という考えを率直に伝えた。それまでロシア側は「ABM条約は戦略的安定の要石」との立場を崩していなかった。

この時までに我々が交わした会話は電話による1回だけ。文字通り、初対面だったにもかかわらず、個人的なレベルでは上々の関係を築けたと思う。もちろん、プーチンは大統領選挙中から私が標榜していたABM条約の廃棄に反対し、その決断にも失望感を示していた。しかし、私に決定を覆す気は毛頭なかった。

ポスト冷戦後の今、真に脅威となっているのは核弾頭ミサイルを1発か2発程度しか発射できない「ならず者国家」だ。これに対応するためにはミサイル防衛政策に一層の柔軟性を持たせる必要がある。だが、それをABM条約は一切、認めなかったのである。

そもそも、ロシアには多数の核弾頭ミサイルがあり、それらをすべて撃ち落とすことなど技術的にも不可能だ。たとえば10発も連続で発射されれば、そのうちの多くはこちらに到達してしまうだろう。

しかし、北朝鮮のような国家の場合、まだ多くの弾道ミサイルを保有していない。発射できてもせいぜい1発程度だ。だからこそ、我々は彼らにその「1発」を撃ち落とすことができる、と知らせておく必要がある。

プーチンとの初対面から半年後、私は自らの言葉通り、ミサイル防衛(MD)構想を早期に実現するため、1972年に旧ソ連と結んだABM条約からの脱退をロシアに通告した。同時に中国の江沢民国家主席、小泉純一郎首相、ブレア英首相、シラク仏大統領、シュレーダー独首相らにも電話でこの決定を伝え、支持を求めた。

今だから言えるが、実はプーチンとの初会合の席上、私は「我々が保有する戦略核兵器を6600発から2000発程度にまで一方的に削減するつもりだ」と伝えている。会談後の公式発表では「新たな戦略的な枠組みを模索する」とだけ説明していたが、実際にはそこまで具体的に提示していた。

この時、プーチンには「(大幅削減に)参加したければ、そうしてほしい」とだけ告げている。そして、彼は自分自身の判断でこれに応じることにした。この時のやりとりが後に米ロ間の大幅な核軍縮合意となった「モスクワ条約」の起源となっている。

これは今でも画期的なことだと思っている。それまでの米ソ間の核軍縮条約には不可欠だった、専門家同士による長たらしい交渉など一切ない。ただ、私とプーチンという2人の指導者が「よし、やろう」となって、合意したからだ。そしてその1年後、それは実際に「モスクワ条約」となって日の目を見たのである。

(前米大統領)

ジョージ・W・ブッシュ(12)小泉首相

初会談から信頼築く
日米関係の重視、固く一致

2001年6月30日、私はワシントン郊外のメリーランド州にあるキャンプデービッドで小泉純一郎首相と初めて会談した。歴代大統領が週末などを過ごすことで知られるキャンプデービッドに日本の首相を招いたのは、1986年の中曽根康弘首相、92年の宮沢喜一首相に次いで、小泉首相が3人目だった。

大統領山荘前の広場に到着した小泉首相のいでたちは青色のボタンダウンシャツとベージュのコットンパンツ。出迎えた私もモスグリーンのシャツというカジュアルなスタイル。会談場所への移動の手段は私がハンドルを握るゴルフカート。そんなフレンドリーな雰囲気で、我々の初顔合わせは幕を開けた。

キャンプデービッドでの会見で、小泉首相は記者団に「これほど大統領と信頼関係を築けるとは思わなかった」と会談の成果を強調。私も「首相の改革を称賛する」と述べ、当時、小泉内閣が進めていた経済改革路線への支持を表明した。

この記者会見にはちょっとした「演出」も含まれていた。会談前日、私はキャンプデービッドのマーク入りの革製ジャンパーとサイン入りの野球ボールを小泉首相に贈った。木立に囲まれた路上の会見場で、首相はそのジャンパーを片手に持ちながら私にボールをトスして見せたのである。

私が野球好きであることを知った上での彼自身のアイデアだと後で知った。日本に野球ファンが多いことも計算に入れてのことだったのだろう。そうしたセンスとスマートさにもとても感心した。
小泉首相は自分の言った言葉を守る男だ。そして自らの国を愛している。ユーモアのセンスもある。このセンスを持っている人間は自分に対しても健全な自信を持っている。それは指導者にとって、とても重要なことだと私は思っている。小泉首相は思慮深く、歴史もよく勉強していた。何か特定の案件について、彼は歴史的文脈に置いた上で、その位置づけを考える能力にもたけていた。

合衆国の大統領ともなれば、もちろん多くの友人ができる。しかし、小泉首相は私にとって、とても信頼できる身近な友人だった。大統領としてだけではなく、個人的なつながりを持つ友だ。だから、彼に対する友情は大統領の任期中だけでなく、退任後もまったく変わっていない。

私から見て、極東の平和を保つために最も有効な手段は日米両国が緊密な2国間関係を維持することに尽きる。その原則をロン・ヤスといわれたロナルド・レーガン大統領と中曽根首相、そして小泉首相もよく理解していた。付け加えれば、米国の大統領にとって日本だけでなく、韓国、そして中国とも良好な関係を維持することも平和を維持するためにはとても重要なことなのだ。

その観点からいえば、ロン・ヤス時代に比べ、私の時代に大きく違っていたのは中国の大国化という現実だった。私の大統領時代、まさに中国は上り調子に入っていた。しかし、私も小泉首相も中国の台頭に恐れを抱いたことなど一度もない。ただ、アジアにおいて、日米の緊密な関係が平和維持のための戦略には欠かせないという認識では固く一致していた。その信念の上に2人の信頼が重なった。だから、私の大統領時代、日米関係は最も強固なものになったのである。

(前米大統領)

ゴルフカートで会談場所へ=ロイター

世界の3R

1年前、石川を含め「3R」と話題を呼んだ同世代のR・マキロイ(21)は首位、R・ファウラー(22)は7位にいる。石川もラウンド中、スコア掲示板を見て、刺激を受けたという。「第一関門を突破して、これからが勝負。2日間60台を目標に。トップ10に入れるかもしれない」。同い年の松山とともに、より攻撃的なゴルフで、目の肥えたパトロンを沸かせてもらいたい。