安藤忠雄(30)日本

人間性育む教育に未来
実直な国民性・創造力、回復を

国際社会で先頭を切って走ってきた日本は今、存在感を失い、国際化の波に乗れず、将来像がつかめない。教育は画一的で、政治には信念がない。そこに大震災が起こった。人間の力のすべてを打ちのめすほどの地震と津波が我々を襲った。自然の猛威にただ呆然とたたずむ。

こういう時こそ、一人ひとりが自分に何ができるのかを自らに問わねばならない。日本人は歴史上2度の奇跡を起こした。そして今再び奇跡を起こし、何としても日本を復活させなければならない。

本来、日本人には素晴らしい国民性がある。自身の経験からみても土木・建築の技術力や、スケジュール・品質・安全衛生の管理能力は世界のトップレベル。他の分野でも繊細で緻密、探求心が強く勤勉な民族として海外から高く評価されてきた。

過去の奇跡の一つは明治維新のとき、幕藩体制から近代国家を一気につくったこと。その素地は300を超える諸藩の教育体制だ。現在の一律な教育制度とは異なり、藩ごとの特色が打ち出され、学ぶ人の目的と個性を考慮した教育が行われた。熱意ある柔軟な教育が生み出した人材が新しい時代の扉をこじ開けた。

第2の奇跡は敗戦後、数十年の間に復興し世界有数の経済国にまで発展したことだ。廃虚と化した地で大人たちが寝食を忘れて働き、子どもたちが元気に目を輝かせる姿を見て、海外から訪れた人々は「この国は必ず復活する」と口をそろえたという。

しかし、「経済大国」といわれ始めた1969年ごろから、実直な国民性が色あせてゆく。私が仕事を始めたのもちょうどこのころだ。70年の三島由紀夫の防衛庁占拠・割腹事件は、今思えば、以降の日本の凋落(ちょうらく)を暗示する警鐘だったのかもしれない。

人々は考えなくなり、闘わなくなった。経済的な豊かさだけを求め、生活文化の本当の豊かさを忘れてしまった。未来を担う子どもたちは親の敷いたレールの上を走るのに精いっぱいで、創造力を養うための貴重な時間を失っている。

本来、子どもは友達と自由に、自然と戯れながら遊ぶ中で好奇心を育み、感性を磨き、挑戦する勇気や責任感を養う。今、子どもたちは過保護に育てられ、自分で考える体験が絶対的に不足しており、緊張感も判断力も、自立心もないまま成人し、社会を支える立場に立つ。

正しい価値観で物事を決めることができず、国際社会で立ち遅れている今の日本と、子どもの教育を取り巻く状況は決して無関係ではない。

私は自分で生きる力を身につけなければならないという思いを人一倍強く持ってきた。だから、自分の意思が希薄で、人と直接ぶつかり合おうとしない、芯の弱い今の若者や子どもをみていると、日本の将来に強い危惧の念を覚える。

人間性を育む教育を行い、自分なりの価値観をもつ「自立した個人」をつくり、家族や地域への愛情をもった日本人の国民性を回復しなければ、未来は見えてこない。

フランスの詩人ポール・クローデルは同じく詩人で友人のポール・ヴァレリーに「私はこの民族だけは滅びてほしくないと願う民族がある。それは日本民族だ」と話したという。その日本は存亡の危機にある。今こそ第3の奇跡を起こすべく、日本は真に変わらなければならない。

(建築家)

安藤忠雄(25)連戦連敗

しつこく挑戦、次の糧に
緊張感の中で創造力磨く

JR京都駅の大階段を見上げるたび、優れた建築への素直な感動と、悔しさがこみ上げる。1990年、新しい京都駅の国際建築コンペ(設計競技)に指名を受け、参加した。鉄道によって分断された京都の南北を空中広場と巨大なガラスのゲートで結び付ける「平成の羅生門」のアイデアで臨み、最終選考まで残ったが、結局落選。当選した原広司さんの案は確かに魅力的だった。現実にできあがった建物を前にすると、改めて構想力の違いを思い知らされるのだ。

2001年秋、東京大学で行った連続講義を本にした。タイトルは「連戦連敗」。建築家は夢をもって向かってもたいてい、思い通りにはいかない。その負け続きの人生を生き抜く自信があるなら頑張ってみろ、と学生たちへ私なりのエールを送ろうと考えたタイトルだ。

本が刊行されると、周囲の友人に「連戦連勝だろう」と冷やかされたが、彼らは現実を知らない。公募型のコンペなら、数百の設計事務所がライバルとなる。建築のアイデアだけを武器に戦いぬくのは容易なことではない。どんなに力を注いでも、負ければゼロである。でもそのアイデアは、必ず次の建築の糧になる。そう思ってしつこく挑戦を続け、連敗の記録を更新する。

真剣勝負は力量の差という現実を思い知らされることがあるので恐ろしい。しかしその緊張感のなかでしか生まれないのが創造力である。

あきらめずにいると、時に勝利が舞い込むことがある。01年、ちょうど「連戦連敗」の講義をしていたころ、挑戦した国際コンペの当選が決まった。フランス・パリのセーヌ川に浮かぶセガン島につくる現代美術館で、クライアントは、クリスティーズやシャトー・ラトゥール、グッチなどを所有する世界有数の資産家、フランソワ・ピノー氏だった。

計画規模、敷地条件ともにやりがいのある面白い仕事だ。当選以降は現地にも協力チームをつくり、無我夢中で取り組んだ。そうして実施設計まで完了、敷地にあった建物も解体され、着工まであと一歩というところで、まさかのストップがかかった。美術館ができても、市が行うべき周辺の都市インフラ整備が追いつかないという。当局の事情で中止を余儀なくされた。

担当スタッフも落胆したが、私まで気落ちしていたら、小さな事務所はつぶれてしまう。その分、他の仕事で頑張ろうと仕切り直していたら、ピノー氏から思いもよらぬ知らせが届いた。敷地をイタリアのベネチアに移してもう一度、一緒に美術館をつくろうというのだ。

今度は新築ではない。大運河に面する18世紀の商館を改造して美術館にする。ベネチアならではの歴史的建造物保全の厳しい法律に苦戦しつつ、短期間で何とかつくりあげた。続いて、サンマルコ広場の対岸にある「海の税関(プンタ・デラ・ドガーナ)」の改造計画のコンペにピノー氏とチームを組み参加、当選を果たして07年から工事を始めた。翌年のリーマン・ショックで、もしやと不安もよぎったが、大運河にアートネットワークをつくるというピノー氏の思いは揺るがなかった。09年6月初め、刺激的な現代アート作品とともに美術館は予定通りオープンした。

戦い続ける厳しい世界でも、ときに思いもよらぬ形で夢がかなうことがある。だから生きることは面白いのである。

(建築家)

連戦連敗

安藤忠雄(21)直島

感性を磨く芸術の島に
福武さんの情熱に感銘

昨年行われた瀬戸内国際芸術祭に、多くの人が集まったのには驚いた。開催される前はうまくいくのか疑問だった。島から島への移動手段は船に限られるし、点在する島々が一体となって芸術祭を行う姿が想像できなかった。そんな私の懸念を覆して成功を収めた芸術祭の中核を担ったのが直島だ。

ベネッセコーポレーションの福武総一郎さんとは1988年に出会った。そのとき、福武さんから直島を芸術の島にしたいという構想を初めて聞いた。当時は、工場から排出される亜硫酸ガスの影響で緑が失われ、無残なはげ山と化していた。そのような荒廃した島を前に福武さんは「美しい海と環境を取り戻し、世界の一流芸術家たちの表現の場とすることで、訪れる人々の価値観を変え、感性を磨くための島にしたい」と言う。私は理解に苦しんだ。

福武さんには強い信念があった。「経済は文化のしもべである」という言葉は、その信条を的確に表している。人間が生きるために本当に必要な力を生み出すのは経済ではなく、芸術・文化なのだ。芸術こそが人生の道標となり、人々の心を豊かにする。

バブル絶頂期の当時、時代の流れとあまりにもかけ離れた考え方であった。しかし私は福武さんの気迫と精神力に賭けてみたいと思うに至った。荒廃した島を豊かにし、現代美術の場にするという勇気が人々を惹きつける原動力になると確信した。

福武さんはウォルター・デ・マリア、リチャード・ロング、草間彌生といった最先端の現代美術家たちに協力を呼びかけた。彼らも福武さんの情熱に押されて、参加してくれた。一方で私たちははげ山に苗木を植える活動を地道に進めながら、美術館やホテルの建築設計に携わってきた。

計画が発表された当初は、反対の声が上がった。だが島に人が訪れるようになるにつれて島民は自発的に民宿や喫茶店、レストランを営むようになり、次第に自分の島に誇りを持つようになった。

建設会社の努力も忘れてはならない。22年ものあいだ直島での工事を担当した鹿島建設の現場監督が、プライドの高い職人をまとめあげ、緊張感のある建築が生まれた。2010年には第二の地中美術館とでも呼ぶべき、李禹煥(リーウーファン)美術館が開館した。直島で私が携わった、7つ目の建築だ。これからもこの島とかかわってゆきたい。

フランス大使を地中美術館にご案内したとき、クロード・モネの『睡蓮』を見て、こんなに大きな『睡蓮』が日本にあるのかと驚いていた。「光の画家」と呼ばれるモネに代表される印象派の芸術家たちは、東洋の文化国家、日本に憧れを抱いていた。日本が、国際社会での存在感を保つためには、かつての文化力を取り戻さなければならない――『睡蓮』を見ていると、福武さんは以前からそのことに気づいていたように思えた。

福武さんは自由人だ。島ではいつも長靴で歩き回り、大企業のトップには見えない。自由な思考で、次から次へとアイデアを生み出す「身勝手の王様」だ。しかし、その判断力や自由さ、そして執念深さが強いリーダーシップの源となっている。瀬戸内国際芸術祭は3カ月余りでのべ90万人以上が訪れたという。人の思いは、文字通り岩を穿ち、山をも動かす――福武さんと共に仕事をする中で、教えられたことだ。

(建築家)

2011/3/21付日本経済新聞 朝刊

安藤忠雄(20)佐治敬三さん

自由で豪胆な経営者
「失敗してもええ」美術館依頼

関西の自由で豪胆な経営者たちとの出会いが私に与えた影響は計り知れない。なかでも、サントリーの佐治敬三さんとの楽しい思い出は語り尽くせない。出会ったのは1972年。それ以降、年に1、2度だが、北新地でお目にかかるたびに、「ついてこい」と声をかけてくださった。「人間、前を向いて生きていることが一番大切」「ぶつかってもいいからとにかく自由にやれ」。教わったことは数えきれない。

佐治さんは、私のことは何も聞かず、ただ「人間として面白そうだから」という理由であちこち連れて行ってくださった。お会いしてから十数年たったころ、「お前、建築家らしいな」という。「知らなかったのですか」と問い返すと、「いちいち学歴や職業聞いておれん。一生懸命生きとるかどうかそれだけや」と言われた。一度だけ、佐治さんと開高健さんがご一緒されているときにお会いしたことがある。開高さんの「若者は全力で走れ」という一言は、今も深く心に残っている。

その後、佐治さんから7000坪の美術館の設計を頼みたいというお話があった。当時の私は、最大でも300坪程度の建物しかつくったことがなかった。依頼に来られる前に、「お前のつくったものを一つ見せろ」と言われるので住吉の長屋にご案内したら、「狭いな、寒いな、不便やな」とだけ言ってさっさとお帰りになった。

これでこの話は終わったのかと思っていたら、翌日、連絡があり、私の事務所に行きたいとおっしゃる。そして、「やはり、お前に頼む」と、正式に依頼された。散々文句を言っていたのにといぶかしんだが、「あの住宅には勇気がある。全力でつくっているのがいい」とのことだった。

佐治さんもそうだが、京セラの稲盛和夫さん、アサヒビールの樋口廣太郎さんなど関西の経営者は皆、私に仕事を依頼される前に必ずご自身で事務所を訪ねて来られた。わざわざ足を運んでもらうことに恐縮したが、何もねぎらいに来るわけではない。

建築は規模が大きくなると、設計から完成まで5年以上の歳月を要する。仕事をともにしようとする相手が、この先5年間もつかどうかを、自分の目で確かめに来ているのだ。物事の決定は他人に委ねない。必ず自分で判断する。私が出会った優れた経営者たちに共通した特徴だった。

依頼されたのは、サントリーミュージアム[天保山]。経験のない規模に不安を感じた私を、佐治さんは「失敗してもええから、全力で命張ってやりなさい」と激励した。

敷地は大阪湾に面しているので、海をいかに建築に取り込むか考えた。美術館と海との間に、親水公園を設けて建築と海岸を物理的につなげる。運輸省管轄の海、建設省管轄の護岸、大阪市管轄の敷地、これらすべてを民間のミュージアムに取り込んだ計画だ。それぞれと調整を進めるうちに気づいた。

日本独特のあしき縦割り行政のゆえに横の連携がない。異なった省庁が、互いの存在に関係なく回答を出してくれたおかげで思ったよりスムーズに許可が下りた。この仕事を通じて、既成の枠組みにとらわれず、境界を越えてあきらめずに対話をすることの重要性を改めて知った。

今でも目をつぶると、スリッパをたたき、「ローハイド」を歌う佐治さんの姿が思い浮かぶ。

(建築家)

2011/3/20付日本経済新聞 朝刊

テルモ会長が語る「一流」になる条件 ~グローバル人材を育てる~

売上高のおよそ半分を海外で稼ぐ医療機器大手のテルモ。業界では国境を越えたM&A(合併・買収)が増加し、内外企業が入り乱れての競争が一段と激しくなる。グローバル時代に通用する人材に求められる条件とは何か。和地孝会長は「一流になりたければ、商品を売るのではなく、自分を売れ」と語る。

海外の人たちは日本人と歴史も文化も違います。その事実を踏まえて、彼らに何を話すかがグローバル経営で一番大事なことだと考えています。何を言ったら現地の社員やお客様の心をとらえられるのか。それを考えるのが経営です。

当社の社員も10年くらい前までは、海外の国々の歴史や文化にあまり興味が無かった。それでは多様性なんて理解できません。だから私は自分が塾長であるリーダー育成研修「レオセミナー」や新年のあいさつ、様々な会議体などで歴史や文化を学ぶ大切さを訴えてきました。

例えば、一神教と多神教の国ではものの考え方が異なります。相手の宗教を知らずに海外でビジネスをするのは失礼なことだし、成功しないと思います。

もっと危険なのは最近の日本人が自分の国の近・現代史を知らなすぎること。日清戦争や日露戦争のことを知らないで、中国やロシアでビジネスをするなんて本当に怖い。まず日本の歴史や文化を勉強しないといけません。これは教育の問題ですけどね。

■歴史や文化を知っていることは大きな力だ

私自身、歴史や文化の力の大きさを痛感させられた経験は何度もあります。例えば、ドイツにある提携企業の経営者と初めて会った時、彼は当社を見下すような素ぶりを見せていました。そこで私は伊勢神宮の話をしました。「伊勢神宮は1300年も前から、20年ごとに正殿を同じ形、同じ大きさで造り替えてきていて、200年先を見越して木を植えている」。すると彼は「日本人はすごい、欧米人ならどんどん大きな物を作ってしまうだろう」と言い、それ以来テルモのファンになってくれました。彼の娘さんが当社の現地法人に勤めてくれたほどです。

スコットランドの企業を買収した時に私が最初に彼らに言ったことは、日本にはスコットランド民謡に日本語の歌詞をつけて、今に至るまで歌い継いでいる名曲がたくさんあるということです。「蛍の光」もその1つで、多くが明治時代に小学唱歌として導入されました。「同じ曲に感動するのは気持ちが通じ合う証拠だよ」と言うと、彼らの目の色が変わりましたね。

こんな話もあります。当社が中国に進出した1997年当時は、中国企業との合弁ビジネスしか認められていませんでした。しかし、当社は100%子会社を設立できました。なぜか。それは進出した浙江(せっこう)省杭州市の市長が私を認めてくれたからです。打ち解けるには歴史や文化の話が役立ちました。

私はたまたま大阪に来ていた杭州市長に会いに行きました。その席ではビジネスの話は一切せずに、日本との歴史的なつながりが深く、優秀な行政官であり詩人でもあった人物を数多く輩出してきた歴史ある杭州市の市長という要職は「教養人でなければ務まらないでしょう」と話しました。

市長はうなずき、杭州市が経済発展と環境問題という相反する課題を抱えていると打ち明けてくれました。そこで私は「二律背反する課題は教養人でなければ解決できないですね」とも言いました。要はバランスですねと。

私が市長の悩みを察したことで意気投合でき、その後、二律背反の課題を解決できる当社の医療機器の工場建設を認めてくれたのです。以来、杭州市長からは毎年仕事抜きでお招きを受け、これまでに15回も訪問し、一緒に月を眺めたり紹興酒を頂いたりしています。

中国工場のオープニングでも象徴的な出来事がありました。前夜の会食でのテーブルに水晶が置かれていて、そこに女性たちの絵が描かれていました。これは中国で人気の古典文学『紅楼夢(こうろうむ)』に出てくる女性たちで、彼女たちの生き方は人生の参考になりますよという話を聞きました。

翌日の開業セレモニーで、彼らが私に用意してくれていたのが紅楼夢の原書のコピーでした。彼らが誇りに思う本を、友好の証しに贈られたのです。私は子供のころから本に親しんできたので、紅楼夢を知っていました。ところが後で当社の社員に聞いてみたら、誰も紅楼夢を知らない。これでは彼らのもてなしを台無しにしてしまう。本を読まないというのは本当に怖いことですよ。

■自分を売り込めなければ、成功しない

相手の国に行って、いきなり商売の話なんてしませんよね。まずは相手の国の話を聞き、我々日本人の強さや良さを話すはずです。ゴルフと天気の話しかできないようでは一流にはなれません。当社の社員には常々、「商品を売るのではなく、自分を売れ」「仕事以外に実のある話が2時間以上できるようになれ」と言っています。

私自身も日ごろから異業種の人や芸術家と交流を持つように心がけています。私の経験では、人の心を動かすヒントは、自分とは違う分野で活躍する人たちから得られることが多いですね。(談)

(聞き手は、日経情報ストラテジー 川又英紀)