ウィリアム・J・ペリー(28)幻の大統領訪朝

一歩ずつの改善 提言
見え始めた融和…、進展せず

1999年5月28日、私は北朝鮮・平壌から飛び立つ機中にいた。3日間に及ぶ訪朝の帰途、誰もが口を開こうとはしなかった。

訪朝中、私は北朝鮮で序列第2位の金永南・最高人民会議常任委員長と平壌の万寿台議事堂で会談したほか、姜錫柱第一外務次官らとの昼食会にも臨んでいる。一連の会合で私はクリントンらからの親書を渡すとともに、北朝鮮の大量破壊兵器計画の停止を促す新たな考え方を提示した。

だが、金永南をはじめ、北朝鮮側の反応は芳しくなかった。最大の関心事である核・ミサイル問題でも一切、前向きな言質を我々には与えなかった。そして、最初から期待していなかったとはいえ、金正日総書記も姿を見せることはなかった。それを私は「失敗の証し」ととらえていた。

「今回の訪朝は成功です。しかし、スローモーションのプロセスを伴います」
機中が重苦しい空気に包まれる中、それを打ち消したのは国務省のエバンス・リビア朝鮮部長だった。半信半疑の私を彼は何度も激励した。やがて北朝鮮はその言葉通り、ゆっくりと私の呼び掛けに反応していった。

訪朝から約5カ月後の99年10月12日、クリントン政権は対北朝鮮政策に関する報告書を公表した。この中で、私は軍事的な抑止力を維持しながら、一歩ずつ関係改善を進める「包括的で統合されたアプローチ」で、北朝鮮の軟化を促していく方策を提言した。

それから1年後の2000年10月8日、金正日総書記は自らの「特使」として北朝鮮軍の実質的なトップである趙明禄・国防委員会第一副委員長を米国に送り込んだ。サンフランシスコで私と面会後、ワシントンに移動した趙明禄はクリントン大統領、オルブライト国務長官らと相次いで会談。この時の夕食会で趙明禄は、米国が北朝鮮の安全を保証すれば金正日が「現在の対立と敵対の関係を平和と親善の関係に転換する重大な決断を下す」と表明している。

同年10月23日、米国務長官としては初めて訪朝したオルブライトは金正日総書記と直接会談。一連のやりとりを通じて、核開発問題だけでなく、ミサイル問題で劇的な進展があれば、クリントンは自ら訪朝し、両国関係を一気に進展させる構えまで見せていた。

もし、あの時、クリントンが訪朝し、金正日と面会していたら、我々は核開発計画停止に関する合意だけではなく、ミサイル問題も解決できていたかもしれない。そして、今なお、「休戦状態」にある朝鮮戦争を正式に終わらせ、米朝間で平和条約を締結した可能性もあった。私が今でもそう感じるのには理由がある。あの時、趙明禄は私との私的な会話の中で、金正日が私の提示した考え方を「全面的に理解し、これを受け入れるだろう」という感触を伝えていたのだ。

だが、政権末期のクリントンにはもう時間がなかった。最終的に彼は北朝鮮の核問題ではなく、中東和平交渉の仲介に集中し、訪朝計画は見送ったのである。

あれから10年の時が流れ、北朝鮮は今、プルトニウムだけでなく、高濃縮ウラン(HEU)を使った核兵器開発にまで手を伸ばしている。現在の北朝鮮から核廃棄の同意を引き出すのは容易ではない。それはかつて我々が目指した取引よりも数段、大きな「取引」となり、それだけ交渉も難しくなるからである。

(元米国防長官)
(28)

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