「ああ、魔の3.4秒」 横綱白鵬 5

11月15日。九州場所2日目。対稀勢の里戦。白鵬、64連勝なるか。

かつて天敵と呼ばれた稀勢の里も、その後は、強き白鵬に翻弄され続けた。対戦成績は白鵬の20勝4敗。2008年秋場所で1度金星を与えてしまったが、その後は、白鵬が11回続けて勝っていた。未完成とはいえ、既に「後の先(ごのせん)」を2回決めた相手だ。今日も後の先で仕留める。

白鵬は「一撃」に神経をとがらせた。

立ち合い。後の先の基本通り、先に仕切り線に両手を付いた。稀勢の里の全体像を、一つの塊として両眼の網膜に焼き付ける。心気を静めた。

少し遅れて、稀勢の里が身をかがめ……猛然と砂を蹴った。が、白鵬は立たない……100分の何秒……かが過ぎた。仕切り線の向こう側にあった173キロの巨体が、土俵の真ん中まで突進し、白鵬の網膜の中で、ぐわんと巨大化した。

■「立ち合い、うまくいきすぎた」

後の先の右足。白鵬は1歩前に踏み出すと同時に、右から張った。右腕がまるで大蛇のように稀勢の里の左わき腹に、ぬるりと忍び入る。左も入った。もろ差しではないか。もらった。

両差しの一撃で、白鵬は相手に深手を負わせたつもりだった。「完璧な体勢」。が、思いのほか打ち込みが甘かった。傷は浅い。稀勢の里には反撃に打って出るだけの余力が十分にあった。すさまじいばかりの勢いで、白鵬に斬り込んできた。

立ち合いからわずか3秒。稀勢の里の返し技が、白鵬に致命傷を与えた。勝敗は決した。が、3480人の観客は、誰ひとり白鵬が負けたことに気付かない。それから16秒。勝負の行方に気をもみ、土俵上の攻防に金切り声をあげた。

熱闘19秒。勝負は3秒で終わっていた。昀強横綱の歯車はいつ、どこで、どう狂ったのか。DVDを見ながら対戦を振り返ってもらった。

「ぜいたくかもね、俺の解説で相撲を見るって」白鵬は「ハハハハハ」と一瞬高笑いしたが、あの取組が始まると、画面にキリリと視線を向けた。立ち合い。後の先。「人間て不思議なんだよね」。解説者白鵬の昀初のコメントはそれだった。

「両方入った。立ち合いがあまりにもうまく行き過ぎた。自分の形になった。もう勝っちゃったっていう。そこで喜んでるわけね。安易に出ていくしかないんだよね。出ていくなら、もうちょっと、あの、なんていうのかな、ちゃんとした出方すればよかったな、と言うね」。珍しくあいまいな表現だった。そこが人間心理の綾(あや)なのであろう。

「一瞬、呼吸をおけばいいんだけど、両方入ると、体が自然と前に出るわけ。差された人間(の方)は絶対後ろに下がっていくわけね。特に稀勢の里の場合は横さばきがうまいから、相手を呼び込む。突き落とし、よくする力士でもあるし」

変わり身が早いのである。まず稀勢の里が左からいなしてきた。DVD1.7秒。

「ここで、ちょっと(自分の体が)伸び上がったかもしれないね。バランスが崩れてね」

相手が初動を制した。稀勢の里は、回り込みながら、土俵際に下がり、そこに白鵬が食らいついていく。DVD2.2秒。

「ここで自分が付いていくんだけど」

出ばなをくじかれた白鵬の攻めは精彩を欠く。稀勢の里の右手が、白鵬のあご下を突く。DVD2.7秒。

「また(右から)反対側に突き落としされるんだよね。突き落とし気味に、いなし」

■「後の先」破綻、気が乱れる

立ち合いからの流れで「先」を取ったのは、結局、稀勢の里の方だった。いなされた白鵬は肝心の右の差し手を外されてしまう。DVD2.9秒。後の先は、この時、破綻した。

次の瞬間、正面から相手が消えた。稀勢の里が身ごなし軽く回り込んだのだ。あれほどの安定感を誇った白鵬の腰が動揺し、俵の方へ右足を一歩前に大きく踏み出してしまう。DVD3.4秒。

「ここで、もう勝負は終わってるね。1回、息がフッて抜けてる可能性があるんですよ。アレッ?今、いい形になってたのに、なんだっていうね」。連勝記録が途絶えた瞬間を特定した。

相撲には3つの息があるという。吐く息、吸う息、止める息。「(息が抜けるのは)いけない。組んでる時ならいいんだけど、組んでない状態ではね。ハッと吐いた時、軽くなる。お腹に力が入ってないと、軽い感じがあるじゃないですか」

場所前の秋巡業中、白鵬は比叡山延暦寺を参拝し、天台宗の座主から「調息(ちょうそく)」という言葉を授かった。呼吸を整えることで精気をみなぎらせる。気功術のひとつのようだが、あの大一番で、息の調べが乱高下した。

「たぶん、そこで焦りが出たんだと思う。一瞬勝ったというもの(意識)と現実がすれ違うから。いくら横綱で何連勝してても、焦りがあるんだよね」

開始3.4秒。致命傷は気の乱れだった。取組はその後、15.6秒間、続いた。

稀勢の里は白鵬の崩れに付け入った。休まず攻め続け、「先」も「先の先」も取った。右の張り手が白鵬のあごをとらえた。4.3秒。「張り手が来たから、返さなければと。このばか野郎みたいなのがあったんじゃないかね」今度は白鵬の右張り手が、稀勢の里の後頭部をとらえ、激しい衝撃音が広がった。4.7秒。「ここで冷静になるということもあるけど。足が動かないし、上半身だけだよね。足の運び方が違ってるんです。全然違う。いつも右足が前なのに。足そろってる。足がずれたんでしょうね」

■思い浮かばなかった左下手

白鵬の両肩に怒気がこもっていた。いつもの滑るようなすり足が鳴りをひそめ、足運びがこわばっている。必死の突き落としも上滑り。たちまち土俵に窮した。ここで稀勢の里が左の下手をねじ込んだ。相手得意の左四つである。9秒。

「立て直し?よっぽどのことがない限りは、できなかったんじゃないかな。自分の型にはまってればね、可能性もあったかもしれんけど」

向正面の俵に、白鵬の両足が詰まった。体を弓なりにしてこらえる。眉がつり上がる。全身の白い肌が、みるみる桃色に染め上がっていった。11秒。

「相手の気迫というものがあって、負けないようにというのがあったんじゃないかな。ホントはあっちゃいけないものがあったんじゃないかな。もし、そう(桃色に)見えたんなら。慌てちゃって勝ってやろうという気持ちが出ちゃいましたね」

土俵際で体を入れ替え、局面打開を図った。が、依然相手得意の左四つ。窮状に変わりはない。既に、「勝つ相撲を取らない」と言い続けてきた白鵬でなくなっていた。13秒。

「ここ、左でまわし取ればよかったんだよね。左手で下手。だからもう、なんとかして勝つっていうね。考える余裕がなかったところだよね」

左からすくい投げをうった。全身をもって、ひねろうとするが、さびたネジのように技の滑りが悪い。強引だった。さらに左足で内掛け。効かない。再びすくい投げ。稀勢の里の腰は厚く、そして臼石のように重い。17秒。

「ここも、左下手を取らないんだよね。取る考え、頭に余裕がなかったんでしょうね」

進退窮まった。もう残せない。19.00秒。

負けた。二枚腰がなかった。

昀後の昀後で、逆転技を繰り出すことはできなかったのか。「ないね。自分は十分だけど、相手は十二分だからね。幕の内力士っていうのは、みんなそれぞれ、成績残して上がってるわけだし。みんな自分の型ってあるわけね。この型(左四つ)は稀勢の里関の型だよね」砂かぶり席まで飛ばされ、白鵬は両足を天に突き立てながら、2列目まで転がった。

前後左右を観客に囲まれ、首をひねり、何とも言えない薄笑いを浮かべた。

後の先…勝っちゃった…アレッ?…ばか野郎…なんとかして勝つ…後の先…勝っちゃった…アレッ?…ばか野郎…なんとかして勝つ…

勝者が仁王立ちしている土俵に戻るまでの長い10秒間。白鵬は耳奥で何を聞いていたのか。

■傲慢な心に繊細さなし

双葉山越えに、足りなかったものとは。

「考えさせられましたね。ちょっと、なめたっていうね。甘く見たっていうね。簡単に勝ちたいっていう気持ちがあったんじゃないかな。自分が勝つ型になったから、それだけに、安心感と、ちょっと、気が抜けるところがあったんですね」

なめた。甘く見た。安心感。気が抜けた。白鵬が似た色合いの表現を4つも連ねた。後の先が傲慢だったのであろう。双葉山は「後の先は心掛け次第」と書き残している。難易度が高いのは相手の気配を心眼でさぐるような繊細さが求められるからだ。傲慢な心に繊細さは宿らない。

後の先は早くても遅くても良くない。前に触れた「七分三分の見切り」で言えば、白鵬は土俵中央に浮かぶ、「七分」の一点を外してしまった。

「稀勢の里の場合、(見切りが)五分五分か、六分四分だったんじゃないかな。それだけ(相手が)対応できたっていうこと。完全に(右差しが)入り切ってなかったんだね。なんとなく分かる?ああそうだったから負けたんだっていうね」

六分四分と、満点の七分三分の間には、天と地ほどの違いがある。2本の仕切り線の間隔は70センチ。一分はわずか7センチ。白鵬は稀勢の里の突進を、わずか数センチ分、待ち切れなかったことになる。白鵬の動きを見て、相手は、初動の動きを軌道修正することができた。白鵬の右差しが浅くなった理由であろう。しかも、不完全な後の先を「決まった」と誤認する二重の過失があった。

解説者白鵬。以上が敗因の分析である。

編集委員 朝田武蔵

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