「後の先」の探求 横綱白鵬 4

相撲部屋の朝は早い。5時起床。駆け出しのころ、白鵬は6時前には稽古を始めた。土俵での稽古は主に「三番」「申し合い」「ぶつかり」の3形態がある。白鵬が今も欠かさないのが、ぶつかり稽古だ。

「前に出る稽古ね。一番苦しい稽古ですけど、スタミナが付くっていうのがあります」。ぶつかる役と、受ける役があり、一方が親の敵とばかりに体当たりする。そのまま俵まで相手をグイ、グイ、グイと押す。何番も、何番も、息が上がるまで。「まあ、普通(の力士は)5分だね。三段目のころ、45分やったことがありますね。幕下に上がったら、20、30分は毎日だったからね」

■基本はぶつかり稽古

全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」

ぶつかり稽古に、後の先(ごのせん)のヒントがあった。

白鵬のこの2年間は、ひたすら後の先の錬磨に費やされてきた。双葉山の相撲求道録は教則本ではない。双葉山だけが極めた奥義である以上、継承者もいない。経験則は聞けない。自分の戦略眼を頼りにDVDの粗い白黒画像を凝視するしか、他に手立てはなかった。まず分かりやすいところをまねよう。「双葉関は必ず右足から出てる。稽古場で(受け手として)胸を出す時も右足が前じゃないですか。ぶつかり稽古ね。(つまり)右足前が受ける構えっていうこと」。素直さが、ここでも彼に得をさせた。2人は同じ右四つだが、白鵬は入門以来、双葉山とは逆の左足から踏み出していた。「右足」の利点は、すぐに解読した。

「ちょっと、教えようか」

再び実技の時間である。

「右足からいくと、右を差しやすい」
着物の裾がはだけ、右足が一歩前に出ると、ずぶとい右腕が、左わき腹にグイと押し入ってきた。

「いやでも、差せる」

右足と右腕の相互関係を理解するためには、相撲の初歩、すり足を知らねばならない。力士は昔のロボット歩きのような進行動作をする。右足を出したら右腕を出す。左足の時は左腕。これが相撲の理にかなっているのだ。右腕と右足を同時に出せば右の脇が閉まる。隙がないから、相手は差せない。以前は「左前みつありき」の白鵬だったが、今は左上手より右を差すことを「先」と考えている。だから一歩目右は好都合となる。

踏み出す足は右でいいとして、課題は山ほどあった。仕切り線の近くで立つか、離れるか。いつ、手を下ろすべきか、否か。「その時は、深くまだ分からないから(相手より)先に手を付くってことが、後の先だと思ってた、単純な話」。腰の入れ具合はどうする。顔の向きは右か、左か。「相当の自信がなければ、後の先はできない」

「待ち時間」は最大の難問だった。立ち遅れは、即、敗戦につながる。100分の何秒かの遅れで、土俵の外に弾き飛ばされる恐怖心との闘い。相手の動きを、どこまで引き付けて待てるか。

■七分三分の見切り

2009年春場所。いよいよ決行である。2日目の北勝力戦。立ち合いで素早く右を差した。左上手もひいた。右のかいなを返すと、相手の体が浮き上がる。左前みつをこねあげ、寄り進み、土俵下に吹き飛ばした。成功なのか。稀勢の里戦、日馬富士戦、そして朝青龍戦でも後の先で立った。全勝優勝である。が、なぜかしっくりこない。本場所での後の先は封印し、稽古場で辛苦を重ねることにした。

過去の対戦から、相手の欠点をあぶり出す冷徹な判断力。土俵上の身動きや目の配り方から、内心を透かし見る洞察力。目で見ずに、体で見る。体で見ず、心で見る。双葉山が言い残した呼吸の勘どころ。いくつもの要素がピタリと重なり合って、初めて後の先は成功する。課題への緊張感。後の先は人生の大事となった。

再び後の先に挑んだのは、9場所後の今年秋場所。54連勝をかけた大一番だった。稀勢の里戦。「勝ちたいんでしょうね。正直は分からないけど、強くなりたいというね」。後の先は成功した。が、辛勝だった。

古武道の一流儀に「七分三分の見切り」という秘伝がある。相手が刀を振り出してから、自分の身に到達するまでの動きを10段階に分ける。相手が六分まで来たところで、待ち切れずに動いてしまえば、相手は最初の太刀筋を軌道修正することができる。八分まで待てば、時すでに遅し、一刀両断だ。理想は七分まで待って動くこと。早くても遅くてもよくない。ただ一点の見切りこそが「後手必勝」の理(ことわり)である。そう伝承されている。

「だから、立ち合いはそれと一緒なんです。一撃と一緒なんです。死ぬか、死なないかということなんですよ。俵があるからね」。土俵の直径は畳2畳半分である。狭い。「もし俵がなければ、そう深く考えさせられないかもしれないけど。ゆっくり考えてもいけるじゃないですか。死ぬか、死なないかどっちかだから。一つ間違えれば死にますから。後の先が必要なんだよね」

■立ち合いは「死ぬか、死なないか」

「押す」「突く」「寄る」が相撲の基本動作だ。白鵬が言う「一撃」とは立ち合いの一押し、一突き、一寄りのことであろう。「達人の世界ね。自分も時にうまくいかないことがあったわけ。ああ、俺にはできないのかって、時々思ってたんだけど。そういうことだったわけね。七分三分でいけば完全にいいんだろうね。それが満点か」

実際、秋場所で「完璧にこなした」一番があった。千秋楽の大関日馬富士戦。「日馬富士にはスピードがある。立ち合い、突き刺さるね。体がちっちゃいから、スピードがあるから、自分からいくとね、逆に墓穴を掘るんじゃないか。右足から先に出たからね。攻めの構えじゃないんですよ。まず右が入ったね。(相手が)攻めてるように見えるけど、自分の型に持っていく」。日馬富士はこの上ない立ち合いだった。白鵬は相手の力を上方に浮かせて、ベクトル変更作業にも成功した。

「後の先じゃなかったら負けてるかもしれない。完璧にこなしたっていう、まさに後の先だね。自分から攻めなかったからね。日馬富士の当たりが良かっただけに、後の先ができたのかもしれないね」

試行錯誤から2年。62連勝目の喜悦だった。九州場所の番付発表会見で白鵬は言った。「誰でもいい、どこからでも来いという気持ち」。場所前の稽古でも、後の先は冴(さ)えていた。「見事にやってたじゃないですか。自信にあふれ過ぎちゃったんだろうね、今思えば。右足から出れば、俺は負けないみたいな」

いよいよ、あの稀勢の里戦。歴史的敗戦の詳細である。

編集委員 朝田武蔵

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