ウィリアム・J・ペリー(30)核なき世界へ

「非核大国」の協力重要
ゴールへ確かな歩みで前進

2009年10月17日、「核なき世界」の実現に向け、ロシアや中国など世界中を訪問していた私は核廃絶に関する国際会議に出席するため、久しぶりに日本・広島の地を再び踏んだ。人類最初の被爆地である広島を訪問するのは、これが2度目のことだった。

1度目の訪問はまだ、私がスタンフォード大学の教授時代のことである。アジア歴訪団の一員として、広島を経由地に選んだ私は市内中心部にある有名な原爆ドームをはじめ、慰霊碑、平和記念資料館をつぶさに見て回った。この時、目の前に広がる被爆地の地獄絵図を見て、私の心は締め付けられた。同時に、こうした兵器が二度と地球上で使われるべきではないという思いを強く胸に焼き付けた。

ここで私が思い描く核全廃への道筋を簡単に説明したい。第1段階では、12年までに米ロ両国が新たな核軍縮条約で合意する。次に米国が包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准する。最後に核物質の拡散を防止するため、兵器用核分裂物質生産禁止条約(カットオフ条約)を成立させる。

第2段階では、25年までに米ロ両国が保有核弾頭数を500発(現在比で約95%減)までに圧縮する。次に英国、フランス、中国、そして新興核保有国であるインド、パキスタンの両国にも核戦力の現状維持を促す。

そして最後の第3段階では、世界の新たな政治環境・システムに応じて追加的な核削減努力を行い、核全廃に近づけていく。ここで私が意味しているのは、現在も進行中のイラン、北朝鮮などによる核開発問題がどのような決着をみるか、ということである。

核全廃に向けた道程において、特に重視しているのは日本のような「非核大国」の動向である。核廃絶には核保有国だけでなく、非核保有国の協力が不可欠だからだ。日本のようにお金も技術力もありながら、「非核」の地位に留まっている国が独自の核開発に走っては元も子もない。今後、米国は日本などの同盟国とこの問題について真剣に協議しなければならない。

初めて広島を訪れた時、私の心に浮かんだ、1つの疑問についても最後に触れておきたい。核兵器の使用を巡って、日本にはまだ深い悲しみや憤りがあることは理解している。ただ、広島で原爆に関する展示物、説明を目にした時、その悲惨さを訴える文言や写真は数多かった半面、そのような惨劇がなぜ起こったのかについての記述が一切なかったことに違和感を覚えた。

どうして、原爆の投下という悲運に日本は見舞われなければならなかったのか。その「原因」について自問、自省する文言を広島で目にすることはできなかった。いろいろな事情があるとは思うが、そのことを私はとても残念に思っている。

1994年に国防長官に就任した際、私は「核全廃に近づく努力をする」と決め、周囲にもそう告げていた。以来、その目標に向かって歩みを進めてきたつもりだ。核廃絶という遠い頂へと続く道のりは長く、険しい。それが実現するとしても、最低でも1世代の歳月は必要だろう。

それでも私は「核なき世界」を求めて歩き続ける。今日も、そして明日も……。

(元米国防長官)
=おわり

 あすから商船三井最高顧問 生田正治氏
(30)

ウィリアム・J・ペリー(29)四賢人

「核なき世界」共同論文
オバマ大統領「最重要課題に」

「これ以上の助言者は考えられない」――。

米国の首都・ワシントンDCの中心部にあるホワイトハウスでオバマ米大統領はそんな言葉をもって、私を含めた4人を紹介した。2009年5月19日、私と共にオバマに招かれたのはレーガン政権で国務長官を務めたジョージ・シュルツ、ニクソン政権で国務長官などを歴任したヘンリー・キッシンジャー、そして議会・民主党で安全保障問題の専門家として活躍したサム・ナン元上院議員である。

この約1カ月前の4月6日、オバマは東欧・チェコの首都プラハで「核のない世界」をテーマとした
外交演説を行っている。その毅然とした姿に世界は賛辞を贈り、やがてオバマにノーベル平和賞までもたらすことになる。

共和、民主両党から超党派のグループを結成していた我々はこの頃、米国内外で核全廃を主導する4賢人」と呼ばれるようになっていた。きっかけとなったのは、07年1月に米紙に掲載した「核兵器のない世界を」と題した意見論文である。

「核廃絶の可能性に言及したレイキャビクでの米ソ首脳会談から今年で20年になる。この機会にあの会談の『意味』を検証できないだろうか……」

06年9月、スタンフォード大学キャンパスの一角で私は2人の外交専門家と夕餉(ゆうげ)を共にしていた。そのうちの一人、シュルツの発言に私は即座に共鳴。この問題について、専門家会合を開いた後、私はその論点をまとめた意見論文を発表することにした。

この時、シュルツが1つだけ、注文を付けた。当時、専門家会合は旧ソ連の核兵器に関する安全管理を支援する「ナン・ルーガー法」を導入したサム・ナン元上院議員など民主党員が多数派だった。これに対して唯一の共和党員だったシュルツが「意見論文は超党派の形にしたい」と主張したのであ。

しばらくして、シュルツが白羽の矢を立てた人物、すなわちヘンリー・キッシンジャーが私の目の
前に現れた。私から見て、彼は「リアル・ポリティーク」を信奉する超現実主義者であり、核廃絶の
ようなテーマに真剣に取り組むタイプには思えなかった。実際、キッシンジャーが当初、提示した条件は「意見論文の共同執筆者になるだけ」というものだった。しかし、その反響の大きさを見て、彼はそのままメンバーとして残ったのである。

核廃絶という壮大な目標を掲げた我々の論文に対して、ひと際前向きな反応を見せたのが08年の米大統領選への出馬を決めていたオバマだった。冒頭に紹介したホワイトハウスでの会合でも彼は手元にメモなど用意せず、核廃絶について自らの考えを滑らかに口にした。それだけでなく、米国が直面している主要な外交課題もオバマは細部まで知悉(ちしつ)し、高い関心を寄せていた。

この時、私たちは当面必要とみられる2つの政策をオバマに進言している。それはロシアとの核軍縮を含む「包括的な戦略対話」と日本など同盟国への拡大抑止力維持だった。私たちの進言を受け、オバマは我々にこう明言した。「この問題(核廃絶)は自分にとって4つの最優先課題のうちの1つと位置付けている」

(元米国防長官)
(29)

ウィリアム・J・ペリー(28)幻の大統領訪朝

一歩ずつの改善 提言
見え始めた融和…、進展せず

1999年5月28日、私は北朝鮮・平壌から飛び立つ機中にいた。3日間に及ぶ訪朝の帰途、誰もが口を開こうとはしなかった。

訪朝中、私は北朝鮮で序列第2位の金永南・最高人民会議常任委員長と平壌の万寿台議事堂で会談したほか、姜錫柱第一外務次官らとの昼食会にも臨んでいる。一連の会合で私はクリントンらからの親書を渡すとともに、北朝鮮の大量破壊兵器計画の停止を促す新たな考え方を提示した。

だが、金永南をはじめ、北朝鮮側の反応は芳しくなかった。最大の関心事である核・ミサイル問題でも一切、前向きな言質を我々には与えなかった。そして、最初から期待していなかったとはいえ、金正日総書記も姿を見せることはなかった。それを私は「失敗の証し」ととらえていた。

「今回の訪朝は成功です。しかし、スローモーションのプロセスを伴います」
機中が重苦しい空気に包まれる中、それを打ち消したのは国務省のエバンス・リビア朝鮮部長だった。半信半疑の私を彼は何度も激励した。やがて北朝鮮はその言葉通り、ゆっくりと私の呼び掛けに反応していった。

訪朝から約5カ月後の99年10月12日、クリントン政権は対北朝鮮政策に関する報告書を公表した。この中で、私は軍事的な抑止力を維持しながら、一歩ずつ関係改善を進める「包括的で統合されたアプローチ」で、北朝鮮の軟化を促していく方策を提言した。

それから1年後の2000年10月8日、金正日総書記は自らの「特使」として北朝鮮軍の実質的なトップである趙明禄・国防委員会第一副委員長を米国に送り込んだ。サンフランシスコで私と面会後、ワシントンに移動した趙明禄はクリントン大統領、オルブライト国務長官らと相次いで会談。この時の夕食会で趙明禄は、米国が北朝鮮の安全を保証すれば金正日が「現在の対立と敵対の関係を平和と親善の関係に転換する重大な決断を下す」と表明している。

同年10月23日、米国務長官としては初めて訪朝したオルブライトは金正日総書記と直接会談。一連のやりとりを通じて、核開発問題だけでなく、ミサイル問題で劇的な進展があれば、クリントンは自ら訪朝し、両国関係を一気に進展させる構えまで見せていた。

もし、あの時、クリントンが訪朝し、金正日と面会していたら、我々は核開発計画停止に関する合意だけではなく、ミサイル問題も解決できていたかもしれない。そして、今なお、「休戦状態」にある朝鮮戦争を正式に終わらせ、米朝間で平和条約を締結した可能性もあった。私が今でもそう感じるのには理由がある。あの時、趙明禄は私との私的な会話の中で、金正日が私の提示した考え方を「全面的に理解し、これを受け入れるだろう」という感触を伝えていたのだ。

だが、政権末期のクリントンにはもう時間がなかった。最終的に彼は北朝鮮の核問題ではなく、中東和平交渉の仲介に集中し、訪朝計画は見送ったのである。

あれから10年の時が流れ、北朝鮮は今、プルトニウムだけでなく、高濃縮ウラン(HEU)を使った核兵器開発にまで手を伸ばしている。現在の北朝鮮から核廃棄の同意を引き出すのは容易ではない。それはかつて我々が目指した取引よりも数段、大きな「取引」となり、それだけ交渉も難しくなるからである。

(元米国防長官)
(28)

ウィリアム・J・ペリー(27)ペリー・プロセス

「北」の核阻止、日韓と連携
支援絡めた対策携え訪朝

北朝鮮の核問題が再び、深刻化してきた1998年11月、クリントン大統領は私にこの問題を専門に担当する「特別調整官」の職務を引き受けてほしいと要請してきた。この頃、北朝鮮に新たなプルトニウムを手に入れさせないための「米朝枠組み合意」は崩壊の一歩寸前だった。米議会などから強い支持を得られず、合意を維持するだけの十分な資金も得られないような状態だったからだ。

この頃、私も北朝鮮の核開発問題をとても深刻にとらえていた。北朝鮮の核は米国だけでなく、東アジア、なかんずく日本や韓国に直接の脅威となる。この直前には北朝鮮が日本に向けて、弾道ミサイル「テポドン」の発射実験まで行っていた。このまま北朝鮮に核武装を許してしまえば、その脅威はとてつもなく大きくなってしまう。

さらに心配なのは北朝鮮による「悪癖」だった。つまり、彼らは自分で開発した軍事技術を第三国に平気で売り渡すのだ。もちろん、それは核関連技術も例外ではない。これらの理由を総合的に勘案して、私は北朝鮮の核開発問題をとても深刻、かつ危険度の高い問題と認識していた。同時に、94年に北朝鮮とやり合った経験を踏まえ、解決に向けて何らかの合意に達する可能性もあると踏んでいた。

98年11月12日、クリントンは北朝鮮政策の見直しを担当する「北朝鮮政策調整官」として私を正式に指名した。この時、私はマドレーヌ・オルブライト国務長官に「どのような政策でも日本、そして韓国と完全に歩調を合わせなければならない」と伝えた。同時にオルブライトに対して「日韓両国、自分と同じ役回りの人間を選ぶように」と依頼している。このアイデアが後に「日米韓3カ国政
策調整会合(TCOG)」となって具体的に動き出していくことになる。

翌99年3月上旬、何度目かの訪問となった韓国・ソウルで私は金大中・韓国大統領と詰めの協議に臨んだ。当時、金大中政権は北朝鮮に対して融和的な「太陽政策」を掲げていた。しかし、私はいかなる融和的措置も北朝鮮による大量破壊兵器の開発阻止と一体であるべきだと信じていた。だから、翌日の金大中との会談でもこの点を巡る意見調整が焦点となった。

最終的に私たちは北朝鮮の核問題解決のため食糧支援などをからめた「包括的アプローチ」が必要との立場で連携を確認した。その翌日には小渕恵三首相から「日本が考えていることと十分同じ方向性であり、支持する」という言葉も引き出した。

こうして日米韓の足並みをそろえた私は99年5月25日、北朝鮮の首都、平壌の地に降り立った。28日までの訪朝期間中、私に与えられた使命はただ一つ。すなわち、クリントンの事実上の特使として、対話と抑止に基づく包括的アプローチを北朝鮮の「政府高官」に直接説明し、その反応を探ることだった。

この時、私は最高実力者である金正日総書記との面会が実現することを心中、ひそかに望んでいた。だが、それが実際に起こるかどうかは最後の最後までわからなかった。だから、金正日との会談はあくまでも「期待」ではなく、「希望」でしかなかった。胸元にクリントン、そして小渕首相からの親書を忍ばせながら、私は世界でも類を見ない独裁国家の素顔を垣間見ようとしていた。

(元米国防長官)
(27)

「我、いまだ白鵬たりえず」 横綱白鵬 6

あの白鵬が負けた。297日ぶりの黒星だった。「信じたくないという気持ちはありましたが、これが現実ですから」。苦い自問自答。「パパ、負けちゃったね」。幼い娘のひと言が、白鵬の目を「明日」に向けさせてくれた。モンゴルから、電話も入った。尊敬する父親からだった。

■父からの電話

人間は誰でも負けるものだから…後はしっかり優勝しなさい…自分はモンゴル相撲で5年連続の優勝をやった…お前にも、是非、5場所連続で優勝してほしい…大変だけど、頑張れよ…泥のようなため息をついても仕方がない。昨日の敗北から、今日、どう立ち上がるか。翌3日目の琴獎菊戦。白鵬は後の先(ごのせん)で勝った。4日目の安美錦戦も後の先。常人の感覚では、この決断の理由が分からない。

「受けの右足」で負けたのであれば、安全策ともいえる「攻めの左足」に切り替えて、帳尻を合わせようとするのが普通ではないか。「開き直ってんだよ」からからと白鵬が笑った。この辺りの精神体質が、彼の人格的迫力の源であろう。

「負けてもいいやと思ってね。全部(後の先を)やっちゃおうみたいな感覚だったんだけど。そ
したら優勝というものが、のしかかってきたから、そうはいかないぞって。今度は左足からに変えたりとかね」。九州場所、後の先は計8回。秋場所の3回から格段に増えた。豊ノ島との優勝決定戦も右で立った。「昀後はごっちゃんですってね」

土俵という舞台では、踏み出す足が右か左かというだけで、ここまでの心胆が練られている。

余談になるが、小学生時代、彼が好きだった科目は「算数」である。両親が息子に期待していたのは理系の道を進むことだった。「家では話題になってたね。昀初のころ、算数好きだったの。お母さん(医師)は、相撲はやら

せたくないとか、医者とか、そういう偉い人になってほしいと。猛勉強してたも、お母さんと。すごかったんだも、小学生の時。遊ばないで、2人でテストやったりとか。大変だったですよ」

「技」に関する面白い統計を見つけた。63連勝目の九州場所初日。その時点で、白鵬の幕内通算勝ち星は468勝だった。現場経験を踏まえた「決まり手トップ5」を、本人に答えてもらった。

「寄り切り、上手投げ、押し出し、はたき込み、で、すくい投げって、感じじゃないかな」

「パーフェクトです」。筆者のメモをのぞき込んだ付け人が、すかさず合いの手を入れた。

■すくい投げの意識

では、63連勝に限ると。

「寄り切り、上手投げ、すくい投げ?違う?押し出しか。で、すくい投げか」

通算、連勝とも(1)寄り切り(2)上手投げ(3)押し出しのトップ3は変わらない。が、本人の胸中には、連勝中、すくい投げが第3位に増加している印象があったようだ。そこだけが統計と違った。深い意味はないのか。すくい投げといえば、稀勢の里戦で、白鵬が昀後に2、3度試みて、通じなかった技だ。双葉山もすくい投げを仕掛けて連勝が止まった。これは単なる歴史の偶然か。

「双葉関も、負けた時、早く勝とうという意識があったわけ。我、木鶏たりえずだからね。相手を、なめたところもあったんじゃない?普通はじっくりまわしを取って攻める人なんだけど、昀後、投げた時に、墓穴掘ったわけ。すくったところで、左足に外からかけられた(外掛け)。『アレッ?』っていうのはあったと思う。そこにちょっと隙があったんですよ」。主語を「私」に変えれば、そのまま白鵬の敗戦コメントとして使えるような内容である。やはり、偶然ではなかった。

人間の記憶は、事実よりも、印象として刻まれるものであろう。白鵬がすくい投げの記憶を実際より濃厚に持っていたということは、ヒヤリとするようなすくい投げへの反省の機会が、それだけ多かったということではないか。「大鵬、北の湖が勝ちに行く相撲を取らなかったら、100連勝できただろう」。この一年、相撲雑誌で読んだという記事の一文を何度か口にし、「勝つと思うな、思えば負けよ」とひとつ話のように語った。「すくい投げ増加」も意識下の警告だったに違いない。

■激増した上手投げ

さらに注目すべきは上手投げである。69連勝の双葉山、63連勝の白鵬、53連勝の千代の富士。上手投げを一番の決め技にしていた点で、3人は共通している。白鵬の通算の上手投げは18%だが、連勝中これが27%に激増した。決まり手の4分の1を超える高率である。双葉山は20%、千代の富士は23%。「ウルフスペシャル」の千代の富士より、白鵬の方が、4ポイントも上手投げが多かったという事実――。

「俺の方が多いの?へーー」。誠に意外であるという声音を出した。初土俵、生涯昀初の決まり手も上手投げというからには、よほど思い入れがあるのだろう。が、「これが、ないんですね」と、にべもない。では、上手投げと連勝記録に、何か相関関係のようなものはあるのだろうか。

「やっぱり、勝ちたいんでしょうね。だから、タイミングというのがあるわけね。無理して寄り切ろうとすると、落とし穴がありますからね。寄るっていうことは、相手も土俵を簡単に割りたくないから、昀後の昀後、技を掛けてくるわけですよね。例えば、うっちゃりね。そうさせないため相撲ファンにしてみれば、盤石の寄り切りより、豪快な上手投げの方が見ていて楽しい。が、上手投げの急増は必ずしも褒められたことではなさそうだ。白星への焦燥感を多量に含んでいるのが上手投げ。無理して勝つのが寄り切り。白鵬的視点に立つと、土俵の攻防も随分違ったものに見えてくる。

では、白鵬が求める技の極致とは何だろう。連勝中の上手投げから「自己ベスト」を選んでもらった。即答だった。「まあ、春場所の鶴竜戦かな。2日目だったかな。右のかいなを返して、スパッと、左上手から投げた。(相手が)一回転した。相手が浮いたところに、ものの見事っていうのかな。スペシャルだね、あれは私の」

■白鵬スペシャル

白鵬スペシャル。その運動原理を知りたい。

単に左から投げるというのではなく、その前作業として、まず右の差し手を返し、相手の腰を浮かせる。そこが肝心だ。目の前の相手に、右からつっかい棒を出し、相手が寄り掛かった瞬間、棒を外し、さらに左から押したらどうなるか。裏返しになって、ひっくり返るのが道理だ。

「相手の腰を崩して、その瞬間にパッと返す」

右から左へ、そして左から右へ。反動が倍加するから鋭利に決まる。左右のコンビネーション技。2つで1つの技といってもいい。白鵬は一発で相手を仕留めようとは考えていない。「あるね。それが流れるように相撲を取るということ」。第1、第2、第3と、波状的に技を繰り出していく。しかも個々の技に隙間がない。「自分は決して力の強い人間じゃないし、相撲は力じゃないし」。波状攻撃は「非力」がゆえの創意工夫だ。「体の使い方です。だから力に頼ってないんです」。持論は「相撲は足腰8割、上半身2割」。非力が白鵬理論の根底にある。

■未完の伝説

我、いまだ木鶏たりえず。

双葉山が求めた昀強の極致とは、射すくめられた相手が闘わずして逃げ出すような強さだった。

「双葉山を知らない人も知っただろうし、知ってた人も、もっと深く知るようになっただろうし。俺のあこがれの、尊敬する横綱はすごいんだぞっていうね、みんなに知ってもらったっていうことで、少しでも恩返しできたんじゃないのかなと」

九州場所で5場所連続、17回目の優勝を果たし、白鵬が名文句をはいた。

我、いまだ白鵬たりえず。

後の先という神秘の伝承を、彼は徹底的に模倣することから始めた。そこに新風を加え、発展させたところに独自の後の先、昀強の境地がある。

2011/01/04スポーツ:日本経済新聞印刷画面昨年10月、夢で双葉山と対戦したことがあるのだという。「勝敗?覚えてるけど、越えてないのに言えるわけないじゃないですか」。時空を超えた後の先対決。「待ったなし」の声が掛かれど、両者にらみ合ったまま微塵(みじん)も動かない……。詳細を聞けるのはいつの日か。

土俵の直径は15尺(4.55メートル)。畳、2畳半の長さしかない。土俵が狭いから相撲は面白い。心の強弱が影絵のように瞬時に砂上に映し出される。

「ちっちゃい土俵だし、俵を割れば負けだから。相撲は考えてやるもんじゃないんだよね」白鵬の相撲を見る楽しみは、彼の心の底力を知る楽しみでもある。人間の心がいかに奥深いものであるか、そこに思いを巡らす。

技には限りがあるが、心は無限だ。
63連勝1敗。そして、すでに13連勝。白鵬は未完の伝説を仕上げる使命を負った。
2011年1月9日。東京・両国。初場所初日。
「心のひとり舞台」が横綱白鵬を待っている。
(おわり)

編集委員 朝田武蔵

ウィリアム・J・ペリー(26)米中軍事交流

中国国防相の訪米実現
96年、曲折経て関係ピークに

「中国を囲い込もうとする行為である」

1996年12月9日、国防総省で私との会談に臨んだ遅浩田・中国国防相は我々が96年4月に成し遂げた日米安保体制の強化策をこう表現し、強い懸念を伝えようとしていた。これに対して、私は「(日米安保は)アジア・太平洋地域の安定を維持するためのものである」と強調し、「中国封じ込め」を意図したものではないと反論した。

この4日前、遅浩田はニューヨークに到着した。89年の天安門事件以降、中国の国防相としては初めてとなった遅国防相の訪米は94年10月に私が中国を公式訪問したことに対する返礼として位置付けられており、本来ならもっと早い段階で実現するはずだった。だが、この年の春に台湾沖で中国人民解放軍が強行したミサイル演習などによって米中関係が悪化したため、2度の延期を経てようやく実現したのである。

当時、我々は翌97年7月1日に予定されていた香港の中国返還後も米軍艦船が香港に寄港できることを求めていた。遅国防相は「中国は香港に安定と繁栄を求めており、(香港返還を定めた)中英共同宣言の通りに『一国二制度』を堅持する」と述べ、返還後も米艦船の寄港を原則として認める方針を表明。我々が重視していた米中軍事交流についても、この一環として国防次官級の定期協議を開催することを受け入れた。

72年のニクソン訪中以来、米中関係は常に「一歩進んで、二歩下がる」というサイクルを繰り返している。実際、この遅浩田の訪米問題も95年6月の李登輝・台湾総統による訪米、96年3月の中国によるミサイル演習などによって、二転三転した。結局、私の訪中から遅浩田の訪米が実現するまでには2年以上の歳月を要した。

私が中国を公式訪問したのは94年10月16日のことである。89年の天安門事件以来、国防長官が訪中するのはこれが初めてだった。訪問3日目となる18日、李鵬首相との会談を終えた私は北京での一連の会談に関して記者会見し、核実験を含め、両国軍部が情報交換を進めていくことで合意した、と説明している。滞在中、我々は中国側に対して軍事情報の透明化を求め、中国側も一定の範囲で応じる姿勢を見せていた。あのままうまくいけば、今頃、中国はその後の軍事戦略や政策、国防予算などについて、我々と情報を交換していたはずである。

いくつもの曲折を経て、実現した遅国防相による訪米は96年12月9日朝、クリントン米大統領への表敬訪問でピークに達した。訪米に際し、遅国防相は第2次世界大戦中、中国南部に墜落した米軍機のパイロットの遺品を持ち込み、「中国人民はファシスト打倒へのこのパイロットの献身を忘れない」と述べ、旧日本軍に対して米中両国が緊密に連携していたことも強調している。

私にはもちろん、中国にも多くの友人がいる。94年の訪問最終日には、かつて同じエンジニア同士として意見交換した江沢民国家主席とも湖北省武漢市で再会している。だが、どの人間ともそれほど親しくなった覚えはない。だから、かつてソ連時代に交流を深めたロシアのココーシン国防次官のレベルまで私が心を通わせられた人間は中国には一人もいない。

(元米国防長官)
(26)

「ああ、魔の3.4秒」 横綱白鵬 5

11月15日。九州場所2日目。対稀勢の里戦。白鵬、64連勝なるか。

かつて天敵と呼ばれた稀勢の里も、その後は、強き白鵬に翻弄され続けた。対戦成績は白鵬の20勝4敗。2008年秋場所で1度金星を与えてしまったが、その後は、白鵬が11回続けて勝っていた。未完成とはいえ、既に「後の先(ごのせん)」を2回決めた相手だ。今日も後の先で仕留める。

白鵬は「一撃」に神経をとがらせた。

立ち合い。後の先の基本通り、先に仕切り線に両手を付いた。稀勢の里の全体像を、一つの塊として両眼の網膜に焼き付ける。心気を静めた。

少し遅れて、稀勢の里が身をかがめ……猛然と砂を蹴った。が、白鵬は立たない……100分の何秒……かが過ぎた。仕切り線の向こう側にあった173キロの巨体が、土俵の真ん中まで突進し、白鵬の網膜の中で、ぐわんと巨大化した。

■「立ち合い、うまくいきすぎた」

後の先の右足。白鵬は1歩前に踏み出すと同時に、右から張った。右腕がまるで大蛇のように稀勢の里の左わき腹に、ぬるりと忍び入る。左も入った。もろ差しではないか。もらった。

両差しの一撃で、白鵬は相手に深手を負わせたつもりだった。「完璧な体勢」。が、思いのほか打ち込みが甘かった。傷は浅い。稀勢の里には反撃に打って出るだけの余力が十分にあった。すさまじいばかりの勢いで、白鵬に斬り込んできた。

立ち合いからわずか3秒。稀勢の里の返し技が、白鵬に致命傷を与えた。勝敗は決した。が、3480人の観客は、誰ひとり白鵬が負けたことに気付かない。それから16秒。勝負の行方に気をもみ、土俵上の攻防に金切り声をあげた。

熱闘19秒。勝負は3秒で終わっていた。昀強横綱の歯車はいつ、どこで、どう狂ったのか。DVDを見ながら対戦を振り返ってもらった。

「ぜいたくかもね、俺の解説で相撲を見るって」白鵬は「ハハハハハ」と一瞬高笑いしたが、あの取組が始まると、画面にキリリと視線を向けた。立ち合い。後の先。「人間て不思議なんだよね」。解説者白鵬の昀初のコメントはそれだった。

「両方入った。立ち合いがあまりにもうまく行き過ぎた。自分の形になった。もう勝っちゃったっていう。そこで喜んでるわけね。安易に出ていくしかないんだよね。出ていくなら、もうちょっと、あの、なんていうのかな、ちゃんとした出方すればよかったな、と言うね」。珍しくあいまいな表現だった。そこが人間心理の綾(あや)なのであろう。

「一瞬、呼吸をおけばいいんだけど、両方入ると、体が自然と前に出るわけ。差された人間(の方)は絶対後ろに下がっていくわけね。特に稀勢の里の場合は横さばきがうまいから、相手を呼び込む。突き落とし、よくする力士でもあるし」

変わり身が早いのである。まず稀勢の里が左からいなしてきた。DVD1.7秒。

「ここで、ちょっと(自分の体が)伸び上がったかもしれないね。バランスが崩れてね」

相手が初動を制した。稀勢の里は、回り込みながら、土俵際に下がり、そこに白鵬が食らいついていく。DVD2.2秒。

「ここで自分が付いていくんだけど」

出ばなをくじかれた白鵬の攻めは精彩を欠く。稀勢の里の右手が、白鵬のあご下を突く。DVD2.7秒。

「また(右から)反対側に突き落としされるんだよね。突き落とし気味に、いなし」

■「後の先」破綻、気が乱れる

立ち合いからの流れで「先」を取ったのは、結局、稀勢の里の方だった。いなされた白鵬は肝心の右の差し手を外されてしまう。DVD2.9秒。後の先は、この時、破綻した。

次の瞬間、正面から相手が消えた。稀勢の里が身ごなし軽く回り込んだのだ。あれほどの安定感を誇った白鵬の腰が動揺し、俵の方へ右足を一歩前に大きく踏み出してしまう。DVD3.4秒。

「ここで、もう勝負は終わってるね。1回、息がフッて抜けてる可能性があるんですよ。アレッ?今、いい形になってたのに、なんだっていうね」。連勝記録が途絶えた瞬間を特定した。

相撲には3つの息があるという。吐く息、吸う息、止める息。「(息が抜けるのは)いけない。組んでる時ならいいんだけど、組んでない状態ではね。ハッと吐いた時、軽くなる。お腹に力が入ってないと、軽い感じがあるじゃないですか」

場所前の秋巡業中、白鵬は比叡山延暦寺を参拝し、天台宗の座主から「調息(ちょうそく)」という言葉を授かった。呼吸を整えることで精気をみなぎらせる。気功術のひとつのようだが、あの大一番で、息の調べが乱高下した。

「たぶん、そこで焦りが出たんだと思う。一瞬勝ったというもの(意識)と現実がすれ違うから。いくら横綱で何連勝してても、焦りがあるんだよね」

開始3.4秒。致命傷は気の乱れだった。取組はその後、15.6秒間、続いた。

稀勢の里は白鵬の崩れに付け入った。休まず攻め続け、「先」も「先の先」も取った。右の張り手が白鵬のあごをとらえた。4.3秒。「張り手が来たから、返さなければと。このばか野郎みたいなのがあったんじゃないかね」今度は白鵬の右張り手が、稀勢の里の後頭部をとらえ、激しい衝撃音が広がった。4.7秒。「ここで冷静になるということもあるけど。足が動かないし、上半身だけだよね。足の運び方が違ってるんです。全然違う。いつも右足が前なのに。足そろってる。足がずれたんでしょうね」

■思い浮かばなかった左下手

白鵬の両肩に怒気がこもっていた。いつもの滑るようなすり足が鳴りをひそめ、足運びがこわばっている。必死の突き落としも上滑り。たちまち土俵に窮した。ここで稀勢の里が左の下手をねじ込んだ。相手得意の左四つである。9秒。

「立て直し?よっぽどのことがない限りは、できなかったんじゃないかな。自分の型にはまってればね、可能性もあったかもしれんけど」

向正面の俵に、白鵬の両足が詰まった。体を弓なりにしてこらえる。眉がつり上がる。全身の白い肌が、みるみる桃色に染め上がっていった。11秒。

「相手の気迫というものがあって、負けないようにというのがあったんじゃないかな。ホントはあっちゃいけないものがあったんじゃないかな。もし、そう(桃色に)見えたんなら。慌てちゃって勝ってやろうという気持ちが出ちゃいましたね」

土俵際で体を入れ替え、局面打開を図った。が、依然相手得意の左四つ。窮状に変わりはない。既に、「勝つ相撲を取らない」と言い続けてきた白鵬でなくなっていた。13秒。

「ここ、左でまわし取ればよかったんだよね。左手で下手。だからもう、なんとかして勝つっていうね。考える余裕がなかったところだよね」

左からすくい投げをうった。全身をもって、ひねろうとするが、さびたネジのように技の滑りが悪い。強引だった。さらに左足で内掛け。効かない。再びすくい投げ。稀勢の里の腰は厚く、そして臼石のように重い。17秒。

「ここも、左下手を取らないんだよね。取る考え、頭に余裕がなかったんでしょうね」

進退窮まった。もう残せない。19.00秒。

負けた。二枚腰がなかった。

昀後の昀後で、逆転技を繰り出すことはできなかったのか。「ないね。自分は十分だけど、相手は十二分だからね。幕の内力士っていうのは、みんなそれぞれ、成績残して上がってるわけだし。みんな自分の型ってあるわけね。この型(左四つ)は稀勢の里関の型だよね」砂かぶり席まで飛ばされ、白鵬は両足を天に突き立てながら、2列目まで転がった。

前後左右を観客に囲まれ、首をひねり、何とも言えない薄笑いを浮かべた。

後の先…勝っちゃった…アレッ?…ばか野郎…なんとかして勝つ…後の先…勝っちゃった…アレッ?…ばか野郎…なんとかして勝つ…

勝者が仁王立ちしている土俵に戻るまでの長い10秒間。白鵬は耳奥で何を聞いていたのか。

■傲慢な心に繊細さなし

双葉山越えに、足りなかったものとは。

「考えさせられましたね。ちょっと、なめたっていうね。甘く見たっていうね。簡単に勝ちたいっていう気持ちがあったんじゃないかな。自分が勝つ型になったから、それだけに、安心感と、ちょっと、気が抜けるところがあったんですね」

なめた。甘く見た。安心感。気が抜けた。白鵬が似た色合いの表現を4つも連ねた。後の先が傲慢だったのであろう。双葉山は「後の先は心掛け次第」と書き残している。難易度が高いのは相手の気配を心眼でさぐるような繊細さが求められるからだ。傲慢な心に繊細さは宿らない。

後の先は早くても遅くても良くない。前に触れた「七分三分の見切り」で言えば、白鵬は土俵中央に浮かぶ、「七分」の一点を外してしまった。

「稀勢の里の場合、(見切りが)五分五分か、六分四分だったんじゃないかな。それだけ(相手が)対応できたっていうこと。完全に(右差しが)入り切ってなかったんだね。なんとなく分かる?ああそうだったから負けたんだっていうね」

六分四分と、満点の七分三分の間には、天と地ほどの違いがある。2本の仕切り線の間隔は70センチ。一分はわずか7センチ。白鵬は稀勢の里の突進を、わずか数センチ分、待ち切れなかったことになる。白鵬の動きを見て、相手は、初動の動きを軌道修正することができた。白鵬の右差しが浅くなった理由であろう。しかも、不完全な後の先を「決まった」と誤認する二重の過失があった。

解説者白鵬。以上が敗因の分析である。

編集委員 朝田武蔵

ウィリアム・J・ペリー(25)対中威圧外交

「重大な結末に」強く警告 
中国撤収受け危機終結宣言

中国人民解放軍が東アジアで無謀なミサイル演習を始めたことに対して、私は横須賀を母港とする空母インディペンデンスの部隊だけでなく、その後方に別の空母部隊も配置して、にらみを利かす対抗策に打って出た。

この決定を私が下した時、偶然にもワシントンを訪問していたのが中国の劉華秋・国務院外事弁公室主任だった。私はレーク大統領補佐官(国家安全保障問題担当)、クリストファー国務長官とともに彼をホワイトハウスに呼びつけ、ミサイル演習について直接抗議するとともに、この対応策も具体的に伝えている。

「もし、あなた方が言うところの『試射』されたミサイルが台湾本土に着弾したら、重大な結末を招くということを忘れないでほしい」
この時、私はそう切り出している。もちろん、中国軍が「目標」である台湾よりも射程を短く設定したことはわかっていた。だが、それよりも十マイルほどまで先に飛んで行ったら、そこはもう台湾なのだ。そのことを伝えた上で、私は彼に「このような無責任な行動」は米中合意違反にあたる、と言い渡した。この間、同席したレークとクリストファーはあえて一言も口を挟まず、私にすべてを託す格好を取った。つまり、彼らは私を即席の「スポークスマン」に仕立てたのである。

とはいえ、その発信相手である劉華秋が属していたのは中国外務省。だから、演習の「当事者」である中国人民解放軍の指導部にまで私のメッセージが浸透するかどうかはわからなかった。

実際、彼は台湾周辺で何が起こっているのか全くわかっていない様子だった。それなのに突然、米国の国防長官から2つの空母部隊を台湾周辺海域に送り込むと告げられ、とても驚いているように見えた。この会談中、彼は専ら聞き役に徹し、私の発する一言、一言を聞き漏らすまいと注意深く耳を傾けていた。

3月25日、中国人民解放軍は18日から台湾海峡北部で実施していた陸海空3軍合同演習を終えた。国営の新華社はこの演習を「成功のうちに終了した」と総括。同日から、同海域と空域への船舶と航空機の立ち入り禁止も解除したと伝えた。

「中国は軍事演習を終え、自陣へ撤収した。危機は今や過ぎ去った、と理解している」

翌26日、私はワシントン市内での講演でそう述べ、台湾海峡危機の終結を宣言した。この時、すでに私は台湾近海に派遣していた空母インディペンデンスに母港・横須賀へ帰還するよう指示を出していた。もう一方の原子力空母ニミッツもその翌週末までには豪州に移動させることを決めている。

あの事件以来、中国は海軍力の増強にまい進するようになっていった。そして、今、中国は南シナ海の南沙諸島だけでなく、東シナ海の尖閣諸島を巡っても領有権を主張。自国の海軍に所属する軍艦部隊を沖縄・宮古島周辺海域で堂々と航行させるなど日本と台湾の周辺海域で軍事プレゼンスを誇示している。

「中国は軍事大国ではあるが、西太平洋地域で最強の軍事力を持つのは米国であることを思い起こすべきだ」

中国が演習を続けていた時、私は米議会でこう述べ、中国軍部を意図的に強くけん制してみせた。もちろん、その思いは今も微動だにしていない。

(元米国防長官)
(25)

「後の先」の探求 横綱白鵬 4

相撲部屋の朝は早い。5時起床。駆け出しのころ、白鵬は6時前には稽古を始めた。土俵での稽古は主に「三番」「申し合い」「ぶつかり」の3形態がある。白鵬が今も欠かさないのが、ぶつかり稽古だ。

「前に出る稽古ね。一番苦しい稽古ですけど、スタミナが付くっていうのがあります」。ぶつかる役と、受ける役があり、一方が親の敵とばかりに体当たりする。そのまま俵まで相手をグイ、グイ、グイと押す。何番も、何番も、息が上がるまで。「まあ、普通(の力士は)5分だね。三段目のころ、45分やったことがありますね。幕下に上がったら、20、30分は毎日だったからね」

■基本はぶつかり稽古

全身砂にまみれ、土俵に倒れ込んで動けなくなる。兄弟子の竹刀が飛んできても、反応する力さえ残っていない。口に塩を突っ込まれる。最後にバケツの水がザブン。これを荒稽古というのだろう。「1日3回泣いてた。ほぼ毎日ですね。稽古場で2回、夜寝る前に1回。稽古が苦しい時、泣いて。終わった後先輩にお前のためだからって慰められて泣く。夜は、明日また稽古始まるんだっていうね。自然と涙が出てくるわけ。ふとんでね。でも当時やってたことが、今生きてるわけね」

ぶつかり稽古に、後の先(ごのせん)のヒントがあった。

白鵬のこの2年間は、ひたすら後の先の錬磨に費やされてきた。双葉山の相撲求道録は教則本ではない。双葉山だけが極めた奥義である以上、継承者もいない。経験則は聞けない。自分の戦略眼を頼りにDVDの粗い白黒画像を凝視するしか、他に手立てはなかった。まず分かりやすいところをまねよう。「双葉関は必ず右足から出てる。稽古場で(受け手として)胸を出す時も右足が前じゃないですか。ぶつかり稽古ね。(つまり)右足前が受ける構えっていうこと」。素直さが、ここでも彼に得をさせた。2人は同じ右四つだが、白鵬は入門以来、双葉山とは逆の左足から踏み出していた。「右足」の利点は、すぐに解読した。

「ちょっと、教えようか」

再び実技の時間である。

「右足からいくと、右を差しやすい」
着物の裾がはだけ、右足が一歩前に出ると、ずぶとい右腕が、左わき腹にグイと押し入ってきた。

「いやでも、差せる」

右足と右腕の相互関係を理解するためには、相撲の初歩、すり足を知らねばならない。力士は昔のロボット歩きのような進行動作をする。右足を出したら右腕を出す。左足の時は左腕。これが相撲の理にかなっているのだ。右腕と右足を同時に出せば右の脇が閉まる。隙がないから、相手は差せない。以前は「左前みつありき」の白鵬だったが、今は左上手より右を差すことを「先」と考えている。だから一歩目右は好都合となる。

踏み出す足は右でいいとして、課題は山ほどあった。仕切り線の近くで立つか、離れるか。いつ、手を下ろすべきか、否か。「その時は、深くまだ分からないから(相手より)先に手を付くってことが、後の先だと思ってた、単純な話」。腰の入れ具合はどうする。顔の向きは右か、左か。「相当の自信がなければ、後の先はできない」

「待ち時間」は最大の難問だった。立ち遅れは、即、敗戦につながる。100分の何秒かの遅れで、土俵の外に弾き飛ばされる恐怖心との闘い。相手の動きを、どこまで引き付けて待てるか。

■七分三分の見切り

2009年春場所。いよいよ決行である。2日目の北勝力戦。立ち合いで素早く右を差した。左上手もひいた。右のかいなを返すと、相手の体が浮き上がる。左前みつをこねあげ、寄り進み、土俵下に吹き飛ばした。成功なのか。稀勢の里戦、日馬富士戦、そして朝青龍戦でも後の先で立った。全勝優勝である。が、なぜかしっくりこない。本場所での後の先は封印し、稽古場で辛苦を重ねることにした。

過去の対戦から、相手の欠点をあぶり出す冷徹な判断力。土俵上の身動きや目の配り方から、内心を透かし見る洞察力。目で見ずに、体で見る。体で見ず、心で見る。双葉山が言い残した呼吸の勘どころ。いくつもの要素がピタリと重なり合って、初めて後の先は成功する。課題への緊張感。後の先は人生の大事となった。

再び後の先に挑んだのは、9場所後の今年秋場所。54連勝をかけた大一番だった。稀勢の里戦。「勝ちたいんでしょうね。正直は分からないけど、強くなりたいというね」。後の先は成功した。が、辛勝だった。

古武道の一流儀に「七分三分の見切り」という秘伝がある。相手が刀を振り出してから、自分の身に到達するまでの動きを10段階に分ける。相手が六分まで来たところで、待ち切れずに動いてしまえば、相手は最初の太刀筋を軌道修正することができる。八分まで待てば、時すでに遅し、一刀両断だ。理想は七分まで待って動くこと。早くても遅くてもよくない。ただ一点の見切りこそが「後手必勝」の理(ことわり)である。そう伝承されている。

「だから、立ち合いはそれと一緒なんです。一撃と一緒なんです。死ぬか、死なないかということなんですよ。俵があるからね」。土俵の直径は畳2畳半分である。狭い。「もし俵がなければ、そう深く考えさせられないかもしれないけど。ゆっくり考えてもいけるじゃないですか。死ぬか、死なないかどっちかだから。一つ間違えれば死にますから。後の先が必要なんだよね」

■立ち合いは「死ぬか、死なないか」

「押す」「突く」「寄る」が相撲の基本動作だ。白鵬が言う「一撃」とは立ち合いの一押し、一突き、一寄りのことであろう。「達人の世界ね。自分も時にうまくいかないことがあったわけ。ああ、俺にはできないのかって、時々思ってたんだけど。そういうことだったわけね。七分三分でいけば完全にいいんだろうね。それが満点か」

実際、秋場所で「完璧にこなした」一番があった。千秋楽の大関日馬富士戦。「日馬富士にはスピードがある。立ち合い、突き刺さるね。体がちっちゃいから、スピードがあるから、自分からいくとね、逆に墓穴を掘るんじゃないか。右足から先に出たからね。攻めの構えじゃないんですよ。まず右が入ったね。(相手が)攻めてるように見えるけど、自分の型に持っていく」。日馬富士はこの上ない立ち合いだった。白鵬は相手の力を上方に浮かせて、ベクトル変更作業にも成功した。

「後の先じゃなかったら負けてるかもしれない。完璧にこなしたっていう、まさに後の先だね。自分から攻めなかったからね。日馬富士の当たりが良かっただけに、後の先ができたのかもしれないね」

試行錯誤から2年。62連勝目の喜悦だった。九州場所の番付発表会見で白鵬は言った。「誰でもいい、どこからでも来いという気持ち」。場所前の稽古でも、後の先は冴(さ)えていた。「見事にやってたじゃないですか。自信にあふれ過ぎちゃったんだろうね、今思えば。右足から出れば、俺は負けないみたいな」

いよいよ、あの稀勢の里戦。歴史的敗戦の詳細である。

編集委員 朝田武蔵

ウィリアム・J・ペリー(24)台湾海峡危機

中国軍がミサイル演習
「米中合意に違反」空母派遣

1996年3月8日、台湾国防部は中国人民解放軍が同日深夜の午前1時から台湾北部の基隆沖と南部の高雄沖に合計3発のミサイルを発射したと発表した。中国が発射した「M9」型の地対地ミサイルは、高雄の南西約44キロと基隆の東に解放軍が設定した目標海域に着弾した。

中国との統一か、それとも完全な独立か――。この約2週間後、民主化の総仕上げ段階に入っていた台湾は重大な「選択」を争点とする史上初の総統直接選挙を控えていた。中国軍によるミサイル演習は独立機運を強める台湾の李登輝総統をけん制するものだった。実際、挑発的なミサイル実験を強行した後、中国指導部は相次いで強気の発言を繰り返し、台湾の独立に強い警告を発している。

「台湾当局の祖国分裂活動が止まらないなら、最後まで闘争を続ける」。実験当日、全国人民代表大会(国会)の上海代表団会議で、江沢民国家主席はそう言明した。その上で「いかなる勢力、いかなる形であれ、中国の一部という台湾の地位を変えることを絶対に許さない」と付け加えている。

ただ、私とシャリカシュビリ統合参謀本部議長は中国が「演習の域」を超えるとは思っていなかった。一種の威圧的外交として、台湾の総統選挙に影響力を行使するためのものであり、実際の台湾攻撃まで視野に入れたものではないと分析していたのである。

一方で、このミサイル演習を米国が非常に深刻に受けとめているということを中国に分からせておく必要がある。この時の中国の行動は明らかに台湾問題の平和的解決をうたった72年の「上海コミュニケ」など、3つの米中合意文書に反するものだったからだ。

中国が演習を強行した後、我々はホワイトハウスに集まり、中台関係について集中協議を繰り返した。私はクリントン大統領に「この演習は武力行使を否定した米中間の合意違反だと考える」と伝え、彼の同意も取り付けた。その上で、1つの空母部隊を中国と台湾本島に挟まれた台湾海峡内に送り込む一方、もう一方の空母部隊を台湾の周辺海域に派遣することをクリントンに進言したのである。

この政策を巡って国家安全保障会議を開催した際、私はクリントンに1つの選択肢しか提示しなかった。「これが今、我々のなすべきことです」。私はクリントンにそう伝えただけだった。その意見にはもちろん、何の異論も出ず、議論もなかった。会議はわずか15分で終わり、その場にいた全員が「それで行こう」となった。

この決定を受けて、まず台湾周辺海域に向かったのが日本の横須賀を母港とする第7艦隊のシンボル、空母インディペンデンスを中核とする戦闘グループだった。次いで、インド洋で待機していた原子力空母ニミッツを中核とする合計8隻の空母機動部隊も台湾近海へと向かった。

幸いにもインディペンデンスの部隊が台湾周辺に到着した頃、すでに中国軍はミサイル演習を終えていた。我々が2つの空母部隊を台湾周辺に派遣すると表明した効果がすでに目に見える形で表れたのである。だから、実際にニミッツの部隊が台湾海域に到着した時、すでに事態は沈静化しており、事なきを得たのである。

(元米国防長官)
(24)