ノーベル賞研究のために 退職届を内容証明で

半導体のPN接合に電圧をかけると、逆に電流が減少する。この不思議な現象の裏にある電子が壁をすり抜ける「トンネル効果」を確かめ、江崎玲於奈氏は昭和四十八年にノーベル物理学賞を受賞した。原子レベルの「量子の世界」を誰よりも先に「応用の世界」に結びつけた「世紀の大発見」の原動力はどこにあるのか。

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戦争は人間に大きな影響を与えます。満州事変は私が六歳のとき、日中戦争は十二歳、太平洋戦争開戦のときには高校受験勉強の最中でした。自我中心、自国よかれと感情主導の主観と他国の主観がぶつかり合うのが戦です。その中で私は、誰もが理性で理解し合える客観的な「真実」を強く求めて、サイエンスに関心が向かいました。小中高と京都で過ごしましたが、晴れて入った旧制第三高校には生徒の知性に刺激を与える土井虎賀寿のような優れた先生もいて、受動的な知識の詰め込みでなく、能動的な「自己発見」の時間が過ごせました。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」をはじめ、科学の精神について、更に、彼が求めた確実性に思いを巡らせました。

私は親元を離れて独立し、サイエンスの本質を突き詰めたいという思いから、東京帝国大学に進みます。そこでニュートン力学では説明できない、原子レベルでの現象を解明する「量子力学」に出会います。この新しい革命的自然観に私達、物理の学生は大いに感動しました。当時、この分野の歴史はまだ浅く、研究者は一部の若い理論物理の先生に限られていました。

東大物理学科を卒業する時には、敗戦から二年が経っていました。多くの学生は、何時に変わらず、大学や国立研究所に進みましたが、そこでは現在の延長線上の研究が多く、イノベーション(技術革新)やブレイクスルー
(突破口)は生まれない。例えば、二十世紀最大の発明と言われるトランジスタは、それまでの真空管をいくら研究して改良しても、決して生まれません。これにより、将来は現在の延長線上にはなく、創造されるものであることを教えられました。事実、トランジスタは民間のベル電話研究所で誕生したのです。

大学に残る方がリスクは少ないけれど、私は誰もやらなかった人生のシナリオを書く思いに駆られました。リスクを取ってでも、日本の産業界に「量子力学」の洗礼を浴びせたかった。敗戦後の日本にもたらされた「民主主義」の本質は、「自分の将来は自分が決める」ことだと解釈しました。

その頃、私の兄を結核で亡くし悲嘆に暮れる母が心配だったので、地元の
近くで働くことにしました。指導教授の紹介で川西機械製作所(後に神戸工業)に就職し、半導体を中心に研究を始めました。当時半導体研究は全く新しい分野で、青二才でもいろんな面白い成果を挙げることができた。私には、たとえ二流の企業家や科学者でも、人が手をつけていない新しい分野では一流の仕事ができるという確信がありました。ごうして、半導体研究者としての地位を固め、有力な特許も取り、会社にも貢献できました。

ところが会社が経営難に陥り、研究費が削られました。研究活動という私の人生のシナリオ通りにことを運ぶため、昭和三十一年、ソニーへの移籍を考えます。その頃は東京通信工業という品川の小さな町工場でした。これもつぶれたら困ると思ったのですが、井深大社長や盛田昭夫専務と話してみると、彼らのカリスマに触れ、「この会社を試そう」と入社を決めました。

ところが神戸工業に辞意を伝えると、拒まれた上、研究課から営業課に異動させられました。漁船第五福竜丸がビキニ環礁で被曝する事件があって以来、神戸工業では製品の販売不振の中、放射能を測定するガイガlカウンターだけが飛ぶように売れていました。広島・呉港の漁船まで商品を運んだりしましたが、私のシナリオには「営業マン」とは書いていなかったので、退職屈を内容証明郵便で送りました。結局、八万円の退職金を得るとともありませんでした。

半導体研究はソニーで順調に続け、翌三十二年、ついに「エサキダイオード」が生まれ「トンネル効果」の検証に成功しました。ところが日本で成果を発表するも、反響はあまりありません。三十三年、ブリユツセルの国際会議において、トランジスタの発明者ショックレー博士から賛辞をいただき、ようやくその真価が認められたのです。さらに三十四年、米コーネル大学で催された半導体デバイスの研究会で「エサキダイオード」は一躍脚光を浴び、私はアメリカの企業からいろんなオファーを受けます。私は三十五年にニューヨークのIBM中央研究所に移ります。「エサキダイオード」発見によるノーベル物理学賞は四十八年に受賞しました。

アメリカでは全く新しい思想に基づく研究を始めました。それは自然の物質を越える前例のない特性を具えた「半導体超格子」を設計し、人工的に作成するというアンピシャスな取組です。これは「トンネル効果」研究を越えるインパクトを世界の学界に与えることになりました。これにより平成十年度の日本国際賞受賞の栄に浴しました。

私はリスクを恐れず、研究のためによりよい環境を求めて日本とアメリカ、三つの会社を渡り歩きました。後に帰国し、筑波大学、芝浦工大、現在、横浜薬科大学学長を務めているのは若い人材育成の思いからです。日本は昔から、大学卒業後、一つの会社に勤め、会社が一生面倒をみる終身雇用、年功序列の世界です。集団志向の強い日本では個人が個性を生かして生きることが難しいのです。私が会社を移ろうとする度に、周りから意外に強い抵抗や反対に合い、柳か苦労もしましたが、自分の書いた人生のシナリオに従いました。結果的には大いにチャンスに恵まれ、大学生の私が書いたシナリオ以上の「結び」になりそうです。

江崎玲於奈(横浜薬科大学学長)

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2010年9月文藝春秋
「勝つ日本」40の決断
真のリーダーは、たった一人で空気を変える!

世界一安全新幹線を生んだ特攻機「桜花」設計者の十字架

開業以来、死亡事故ゼロ。
世界一安全な乗り物である新幹線を開発したのは、戦時中、特攻機桜花を一人で設計した技術者三木忠直氏だった。その苦悩と夢を愛娘の棚沢直子さんが語る。

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東海道新幹線を最初に走ったO系も、渋谷駅前に展示されている東急5000系電車も、初代ロマンスカーの小田急3OOO形電車も、父が設計した電車のデザインには共通していることがあります。それは、先頭部分が飛行機の機首にそっくりなのです。

父は、東京帝国大学工学部を卒業後、海軍航空技術廠(神奈川県横須賀市)に入りました。そこで、急降下爆撃機「銀河」の設計主務をし、特攻機「桜花」はほとんど一人で設計しました。

桜花は、機首に爆弾を搭載した有人誘導式のミサイルでした。母機の爆撃機に吊り下げられて運ばれ、空中で切り離されてからはロケットやジェットエンジンを点火して敵艦を目指します。車輪もなく、生還するための装備は一切ありませんでした。

当初、父は、「技術者としてこんな特攻機は承服できません」と、大反対だったそうです。それでも、海軍は強行し、父は従うしかありませんでした。

戦後の父は、桜花設計者としての重荷を背負っていましたが、ある日、聖書の一節に出会いました。
<すべての労する者・重荷を負ふ者、われに来れ。われ、汝を休ません>(マタイによる福音書より)

父は、みずからの重荷をキリストに預け、洗礼を受けたのです。
父が、戦後、鉄道技術者として生きるようになったきっかけを、NHKに語っています。

「(桜花によって)亡くなっていった若人に対して、非常につらい思いをしたわけです。鉄道は、今は平和産業ですから、もう戦争に関係がない。」

こう思って父は、陸海軍の優秀な技術者たちとともに、鉄道技術研究所に勤務しました。

その父が、「平和産業」のために動き出したのは、1957(昭和32)年5月30日に聞かれた「東京-大阪間三時間への可能性」という鉄道技術研究所創立50周年記念講演会がきっかけでした。就任したばかりの篠原武司所長が後押しし、父は講演しました。

「飛行機の形を列車に持ち込みたいと考えている。車体を流線型にし、軽量化すればスピードは向上する。最高速度は200キロを超えます」

講演が大盛況だったのは、戦後の復興も終わり、日本人が、何か新しい目標を求めていたからかもしれません。

この講演が、十河信二国鉄総裁の耳に入り、あらためて父は、「夢の超特急」構想を総裁や国鉄幹部の前で話しました。そして、「おれが引き受けた」という十河総裁の鶴の一声で、GOサインが出たのです。

しかし、超特急の実用化には、173もの技術的な課題があったそうです。開発の中心になったのは三人。父は車体の設計を担当。海軍航空技術廠で父の同僚だった松平精さんは、ゼロ戦の改良を担当した方で、高速走行に
よる車輪の振動を空気パネを採用して解決しました。陸軍科学研究所で通信技術の専門家だった河辺一さんは、自動列車制御装置ATCを開発しました。

63年3月30日、走行実験で当時世界最高の256キロを達成。しかし、その一年前、父は鉄道技術研究所を退職し、実験の様子を自宅のテレビで見ていました。

退職の理由を、NHKにこう語っています。
「自分の技術はすべて出し尽くした。実験には絶対の自信がある。私は、あとのことは全然、心配しませんでした」

その後の父は、湘南モノレールから千葉都市モノレールに転職し、90歳まで勤務しました。2005年、96歳で天に召されました。

生前、桜花のことは忘れられなかったようです。父が、アメリカの宇宙開発計画を描いた映画『ライトスタッフ』(83年公開)を観て、不思議に思っていたことがありました。その中に、世界で初めて音速を超えた「X-1」というロケット飛行機が登場します。X-1が空中で母機から切り離される方式が、まるで桜花だったのです。

桜花も銀河も、終戦直後、アメリカ軍に接収されていました。終戦から2年後の47年、X-1は音速を超えました。その時、操縦したチャック・イェーガーさんが、75年に退役後、80年代になってから来日し、父に会いに来てくださいました。

父はたずねました。
「映画を観て、私がした設計と同じことをアメリカ軍がしているのが不思議でした」
すると、イェーガーさんは、「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります。」

最近になって、桜花に採用されなかった図面があることが、ニューヨーク州立大学の西山崇准教授の調査でわかりました。それは、桜花に操縦席を緊急脱出させる装置が考えられていたというのです。父は、可能な限り、海軍に逆らってでも、命を大切にしようと考えていたのでしょうか。

新幹線は開業以来、45年以上、乗客の死亡事故はゼロ。新幹線は、現時点で、世界で一番安全な高速鉄道といえるでしょう。父は生前、世界一安全な新幹線を、とても誇りにしていました。

棚沢直子(東洋大学教授)
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2010年9月文藝春秋
「勝つ日本」40の決断
真のリーダーは、たった一人で空気を変える

WBC優勝イチローの殊勲打を生んだ「負ける覚悟」

2009年3月に開催されたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、二連覇を成し遂げた日本代表。指揮を執った原辰徳監督がこだわった「変える勇気」とは。

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ものごとを決断する局面で、もちろん信念であるとか、自分がスタートしたときの気持ち、というのは非常に大事だと思っています。ただ、それと同時にもう一つ、大切なことがあると私は考えています。

それは変える勇気。自分の中で「これは過ちである」と感じたときに、それまでの固定観念に捉われず、即座に方向転換を決断できること。その決断力は指導者にとっては、もう一つの不可欠な素養だと思います。

昨年のWBCのチーム作りで、まず考えたことがイチローという選手の役割でした。彼はメジャーでも特筆すべき実績を残し、世界に認められた数少ない日本人プレーヤーです。

選手としても、守備でいえば中堅も守れるし、右翼を任せてもかなりハイレベルです。打順では一番、三番、あるいは四番も打てる。そういう攻守に幅の広さを持った選手です。そのイチローの持っているものを、チームの中でどう生かすか。それが世界のチームを相手に伍した戦いを挑むための、一つのポイントになると私は考えていました。

そこでイチローにはまず、守備についてこう伝えました。
「イチロー、この大会でキミが出場する時はライトだ。ライト一本でお願いする」

そして打順についてはこう話しました。
「自分はチャンスメーカーとしても、ポイントゲッターとしてもキミに期待をしている。そこで打順は三番を考えているがどうだ?」

イチローは「分かりました」と答えてくれました。そういうやりとりで「三番・右翼」という彼のポジションは決まったわけです。

私としてはイチローの三番が決まって、初めて、他の打順も決めました。
三番でチャンスメーカーとしてのイチローを想定した結果、四番には左の稲葉を置きました。稲葉という選手は非常に献身的なので、イチローの盗塁だとかそういうものも助けられる。技術的には右方向に引っぱるのが上手いので一、三塁というシチュエーションを作れる確率も高まります。一発よりは、イチローをうまく生かせる打者としての四番・稲葉でした。そうして前後の打者も決まっていったわけです。

ところが、キャンプを終えて実戦が始まると、なかなかイチローの調子が上がりませんでした。見ていて、何かイチロー自身の居心地も悪そうにも見えました。そこで強化試合の三試合目が終わった後に、彼を呼んで、二人きりで話し合いをしました。

「どうだ?三番と一番、正直にどっちがいいんだ?」
私の聞いに、彼は「どちらでもいいです。それは監督が決めてください」
と答えました。ただ、その会話の阿吽の呼吸のような部分と、表情とかから、私は「やっぱり一番を打ちたいんだな」と感じ取りました。もちろん「イチロー三番」は、私の構想の柱です。でも、それはチームが動き出す前のもので、チームが動き出し、その結果を見て、改めてイチローを最も生かせるポジションは何か、ということを考えたわけです。

「よし、明日から一番、ライトでいこう。」
その場でそう伝えると、イチローは「ありがとうございます」と小さく頭を下げました。

私の中では、自分の考えを百%反映させた用兵というのもあります。ただ、状況の中で選手、スタッフとスクラムを組み、気遣いをしていれば、何となく最初とは違うと分かることもあるのです。その時には、即座に改める。その気持ちを常に持っていれば、常に組織を新鮮に見られるし、逆に組織が成長していく過程も非常に分かりやすくなります。

ただ、そうして打順を一番に変えても、イチローにあまりいい結果は出ませんでした。アメリカに渡った第二ラウンドでは19打数3安打と打率は一割五分八厘まで低迷し、周囲からは「先発から外すべきだ」という声も上がりました。当然、私の耳にも入ってきましたが、私の中ではその選択肢は頭の片隅にもありませんでした。

個の力があり、それを自己犠牲というもので支えて、勝つためにひとつになる---それが私のチーム観です。イチローは打席の中だけではなく、守備に就いたり、あるいはどんな大国、強いチームと戦うときでも、チームのフロントにいることで大きな戦力でした。

もちろん本人は打てなくて、苦しかったはずです。不振の中、走者を置いた場面で彼は三度、パントをしました。サインは出していません。それでも何とかしなければ、と自分でパントを選択したのです。それも彼にとっての自己犠牲だったはずです。

短期で集まり、短期で大会に臨む時に、軸を否定することは、チームそのものを否定することになってしまいます。あそこでもし、イチローを外せば、「チーム像」はなくなります。それこそサムライジャパンは、寄せ集めの集団になり下がってしまいます。

「仮にイチローを使い続けたことで、ゲームを落としても悔いはない。しかし彼を使わずしてゲームを落としたら、オレは悔いる」
私はそう思いました。そうして使い続けた結果、最後の最後、決勝の韓国戦の延長十回に、彼が決勝タイムリーを放ったわけです。あそこで打つのがイチローなんです。ただ、それまでの彼のあの不振を思うと、改めて勝負というものの深淵を見た思いです。

勝負とは怖いものなんです。それは格闘技の怖さとはちょっと違いますが、負ければ叩きのめされる、という心理は似ています。だから勝負師は、だれしもが勝ちたい。でも、その勝ちたい心理なんて当たり前なのです。

そこからもう一ランク上になるには、「誰と失敗したら、誰と負けたら後悔はないか」という覚悟を持てることではないでしょうか。ただ「勝ちたい、勝ちたい」ではなく、負ける覚悟ができて、初めて本当の強さが出る。いわゆる「覚悟の心理」とは、そういうことだと、私は理解しています。

原辰徳(読売巨人軍監督)
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2010年9月文藝春秋
「勝つ日本」40の決断
真のリーダーは、たった一人で空気を変える!