下村脩(19)いったん帰国

「発光」への研究心募る
リスク承知で再渡米決意

米プリンストン大学での研究は1963年8月までの3年間に及んだ。オワンクラゲ以外のクラゲやオヨギゴカイの発光などの研究も行ったが、光るたんぱく質という、それまで全く想像もされていなかった発光物質をオワンクラゲから見つけることができたのは、何物にも代え難い成果だった。

帰国後は、名古屋大学の平田義正教授が働きかけてくださり、名大の水質科学研究施設の小山忠四郎教授の研究室の助教授についた。本来は、長崎大学の助手から留学したので、同じポストに戻るのが筋だった。平田先生から名大でのポストのお話があったとき、長崎大に戻る義理を感じていたので、薬学部長の小林五郎教授に相談した。

小林先生は「あなたの将来のためには、今回は名大の助教授になるのがいい。長崎大には将来役立ってもらえることもあるでしょう」と、親切な言葉をいただいた。

名大の研究所では、私の専門となった発光生物の研究と、研究所本来のミッションである水質科学の研究の両方を2本立てで進めるつもりだった。水質科学の研究では、長野県の湖に調査に行ったりして、それはそれで楽しく、有意義だった。

しかし、やがて、2つのテーマを同時にやっていては、十分よい仕事ができないことを自覚するようになった。二兎(にと)を追うものは一兎をも得ず、である。

気になっていたのは、私がオワンクラゲから発見した発光たんぱく質のイクオリンのことだった。その発光のメカニズムが分からないままだと、単なる奇妙なたんぱく質にすぎないことになる。それに当時はまだ、イクオリンのようなたんぱく質の存在自体に懐疑的な科学者もいた。

日本の大学にいてイクオリンの研究をしようとしても、クラゲを採取してイクオリンを得ることは当時の状況では至難の業だった。米国に再び渡って、生物発光の研究に専念したいとの思いが募っていった。

ただ、最初に訪米をしたときとは事情が大きく違う。名古屋に戻った翌64年には、長男が生まれていた。家族持ちである。名古屋にずっといれば、生涯たいした苦労なしで過ごせそうだった。実際のところ、あと数年で教授にしてもらえるはずだった。一方米国に行くと、研究費を自分で獲得しなければならないので、研究を続けるのは大変なことである。

ほぼ3年ごとに研究費の申請をしなければならず、その更新に失敗すれば、即失業となる。厳しい競争の中で、確実に研究費を獲得していくのには困難が予想された。

妻に相談をすると「あなたの好きなようにしてください」という返事だった。それで、米国に戻ることを決めた。米国東南部の大学からも招請があったが、結局、フランク・ジョンソン教授のいる古巣のプリンストン大学に行くことにした。

今考えると、ぞっとするくらい、リスクのある決断だった。それができたのは、私たち夫婦がまだ若かったのと、生物発光の研究を自らの手で進めたいという執念ゆえのことだった。

(生物化学者)

プリンストン大学の生物学部

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Bubbles of river disappear rapidly.

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