下村脩(13)米国で研究

氷川丸で横浜を出航
平田先生の計らい、「博士」に

1年間の予定だった名古屋大学内地留学は平田義正先生の要請でさらに1年延長され、1957年春から長崎大学薬学部の、もとの実験実習指導員に戻った。58年、助手に昇格し、翌年、プリンストン大学のフランク・ジョンソン教授から手紙が来た。米国に来ていっしょに研究をしないかという誘いだった。

ジョンソン教授は、プリンストン大学で発光生物研究を創始したニュートン・ハーベイ教授の高弟で、ハーベイ教授がその年に亡くなってからは、後継者としてプリンストン大学のこの分野の研究をけん引していた。私のウミホタルのルシフェリンについての成果を知り、声をかけてきたというわけだ。

薬学部長の小林五郎先生に相談した。小林先生も、私を内地留学に送り出してくれた安永峻五先生と同様、若い研究者はどんどん外に出して、勉強をさせようという考えの方だった。助手のポストは戻ってくるまで空席にしておくから是非行ってきなさい、と後押ししてくださった。

なお、恩人である安永先生は59年にがんで早世された。私が名古屋大から戻った後は、ずっと入院されていた。私を夜行列車で名古屋に連れて行ってくださったころ、すでに病をもたれていたのかもしれないと思うと胸が痛む。

ジョンソン博士は自分の側で渡航費用を出すと言ってくれたが、私はフルブライト奨学金をもらうことを計画した。東京に面接を受けにいった。英語にはまったく自信がなく、面接官の質問にはろくに答えられなかった。それでも私がやっている研究テーマが面白いということになったらしい。渡航前に4週間、英会話の講習を受けることを条件に、合格した。

名古屋大の平田先生のところに、米国に行くことになりましたとあいさつに行った。すると、海外に行くなら博士号を持って行きなさいと言われる。手続きはしてあげるから、申請手数料の4千円だけ払ってくださいという。先生によると、博士号を持っているといないとでは米国では給料が倍ほども違うという。

私が大学院に行ったわけでもないのに、名古屋大の博士号を持っているのは、このような事情だ。

横浜港から船で米国にたったのは、60年8月27日。私の32歳の誕生日だった。太平洋の貴婦人と呼ばれ、日米を結んだ氷川丸のこれが最後の北洋航路の航海だった。横浜の桟橋は、見送りの人々ですし詰めの状態。船客と見送り人とを結ぶ無数の色テープが、船が静かに動き出すと少しずつ切れて海に落ちていく。忘れられない光景だ。

乗り合わせたフルブライト留学生は約200人。博士号を持つ約80人は、1等船客扱いだったので、にわか博士として得をした気分だった。船上ではすき焼きパーティーや様々な催しが連日開かれ、親交を深めつつ、異国へ向かう興奮を盛り上げていった。

13日間の航海の後、ワシントン州シアトルに着き、朝もやの中からこつぜんと現れたスミスタワーを中心とする高層ビルのスカイラインを見たときは異国に来たことをしみじみと感じた。ジョンソン教授の待つ東海岸のニュージャージー州プリンストンまでは、ノーザンパシフィック鉄道などで大陸横断3昼夜の旅だった。アメリカの広さを身をもって感じた。

(生物化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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