下村脩(7)戦後の混乱

中学にあふれる被爆者
あてもなく浪人生活2年

戦争は終わった。これから自分は一体何をすればいいだろうか。一日も授業に出られなかったとはいえ、母校である諫早中学に行き、とにかく先生かだれかに会って相談するのが先決だと思った。きっと何かいい助言をしてくれるにちがいない。でも、それは甘い考えだった。

終戦から約1週間後の8月下旬のある日、家を出て、中学校の校舎が見えるところまできた。校門の両脇に大きな紙が張ってあり、何百という氏名が書いてあった。その名前の半分以上が、墨で線を引いて消してある。それで分かった。ここは長崎で被爆した人たちを収容する救護所として使われているのだ。

運動場をやけどの跡が痛々しい人たちが、裸同然の姿でふらふ薬学専門部の仮校舎らと歩いている。やけどの傷が黒く見え、その上に何やら白いものが点々と見える。何だろうと思って、近づいてよく見ると、白く見えたのはなんと、そこにウジ虫がいるのであった。私は目を覆いたくなった。

校門の付近を見ると、馬車がとまっていて、遺体が重ねて積んであるのに気づいた。むしろでくるんであるが、足先がはみ出て見えるので、それと分かった。そこには1つ、また1つと遺体が担架に乗せられて積み込まれていた。

その作業をじっと眺めている被爆者が2人いた。彼らも大やけどをしている。自分たちも何日か後にはこのような姿になって積まれるかもしれないのに、突っ立ってその作業を無表情で眺めている。今日ここに来たことは間違いだったと悟った。

10月初めころ、家でぼんやりしていると、知人と名乗る青年が訪ねてきた。最初はだれだか分からなかった。顔面の半分がやけどの傷跡でおおわれていたからだ。大村の海軍航空廠(しょう)で働いていたとき、寄宿舎で同室だった6人のうちの1人だった。

この友人は、大村の空襲のあとは、長崎市内の工場に移り、8月9日はそこで被爆したのだった。彼の実家は諫早から遠いので、寄宿舎がある長崎の工場での勤務をわざわざ希望したのだった。

被爆後はどこかの病院にいて、一応元気になったので、実家に戻る途中に立ち寄ったという。自分の命が長くないことは分かっていたはずだが、暗い表情は全くなかった。一晩泊まって帰って行った。

とにかく学校に進まなければと、翌春には佐賀高校や熊本高専への出願をしたが、なしのつぶてだった。

当時は上の学校に進むにはよい内申書を書いてもらうことが大事だった。諫早中学からは書類を出してくれたはずだが、この学校には一日も行けなかったので、学業の記録はなかっただろう。担任の先生もいなかった。そんな知りもしない生徒にろくな内申書を書いてくれるはずもない。

ただでさえ一つの中学から何人も合格しないのに、私以外にもたくさんの人が出願していたはずだ。翌年も、同じことが繰り返され、出願した学校からはことごとく入学が拒否された。結局2年間、あてもなく浪人をした。希望もなく、することもなく、私の人生でいちばん惨めな時代だった。

浪人2年目の1947年。家のそばに長崎医科大学付属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)が臨時に移ってくるとの話が聞こえてきた。

(生物化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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