下村脩(6)長崎に原爆

響く大音響、強烈な爆風
みるみる空におかしな雲

1945年8月9日、早朝から蒸し暑い日だった。私はいつものように、長ズボンに白いシャツという服装で、諫早の工場に出勤した。午前11時少し前に空襲警報が鳴った。われわれは工場から出て、すぐそばの景色がよく見える丘に登った。規則では防空壕(ごう)に退避することになっていたが、経験上、そこでも安全であることをみんな知っていたため、そのころは空襲が来るたびにいつもそうした行動をとっていた。

空を見上げていると、北の方角からやってきたのは、B29爆撃機が1機だけだった。それが長崎の近くで白い落下傘を2つか3つ、落としたのが見えた。聞くところでは、それには爆発をモニターする測定器と送信機がぶら下がっていたそうだ。その落下傘めがけて地上から撃つ銃声がパンパンと聞こえた。

2、3分後にもう1機、別のB29が現れた。キラキラと輝く銀色の機体が長崎上空に達したときに、空襲警報が解除になった。後から思うと、そのときにすでに原爆は機体から切り離され、飛行機は全速力で退避を始め、原爆は降下中であったのだろう。

この空襲警報の解除のタイミングが早かったので、安心して防空壕から出てきた人々が、原爆爆発の熱線を直に浴びることになったとは、後でよく聞かされた話である。

逆に私の場合は、空襲警報が解除になり、作業を再開するために工場の屋内に戻ったことが幸いしたかもしれない。仕事にかかろうとした瞬間、建物の中に強烈な閃光(せんこう)が走った。まぶしさのあまり、しばらくは目が見えなくなった。それから40秒ほどたっただろうか。大音響が響き渡って、強烈な爆風がきて、耳がおかしくなった。

私は混乱した。どこかで大きな爆発があったようだ。そこまではなんとなく分かったが、経験のない状況なので、何が起きたかまったく訳が分からない。外に飛び出すと、空には見る見るうちにおかしな形の雲が立ち上っていった。全くミステリアスな状況だった。

学生たちはいつものように家路についた。朝はあんなに天気が良かったのに、今は空が暗雲で覆われ、家に着く前に、黒い色をした雨が降り出した。家に着いたころには、着ていた白いシャツが黒く染まり、まるでドブネズミのような格好になってしまった。祖母がみかねて、すぐに風呂を沸かしてくれた。

工場は長崎の爆心地から直線距離で10キロメートルあまりである。翌日、長崎が大変なことになっているということで、出勤したわれわれ学生が集められ、救援隊が組織された。何台かのトラックの荷台に分乗して長崎に向かおうとした。しかし、途中の日見峠を抜けるトンネルの付近が通行できなくなっており、救援隊は途中で立ち往生した。

トラック1台が迂回(うかい)路を探しに行ったが、それもだめだった。救援隊のリーダーはとうとうあきらめて、我々を解散させた。もっとも、そのとき長崎までたどり着けたとしても、我々のような少年に何か有効なことができたとも思えない。

長崎に原子爆弾が投下された6日後の8月15日、日本は無条件降伏し、戦争は終わった。1年近く続いた勤労動員もそこで終わりになった。

(生物化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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