下村脩(5)諫早に疎開

転校初日に勤労動員
まずい食事、いつも空腹

1944年8月に疎開した長崎県諫早の母の家は、もともと小さな地主で、田畑を持っていた。大阪にいたころから、食糧の配給制が始まり、米は1人1日、2合3勺(約330グラム)と決まっていた。疎開先を母方にしたのは、そんな食糧事情も考えてのことだったのだろう。

夏休み明けの9月1日、転校先の諫早中学に初登校した。知ってる人はだれもいないので、教室の一番後ろにいて待っていた。やがて担任の先生が現れたが「これから重要な会議があるので、そのまま待つように」と言い残し、教室を出て行った。先生は2時間くらいで戻ってきた。

そして「このクラスは明日から大村の海軍航空廠(しょう)に行ってもらうことになりました」と告げた。勤労動員である。私はあっけにとられた。一日も授業に出ることなくかり出されるとは。他のクラスは、長崎市の三菱造船に行くなど、4年生の約250人全員が動員されることになった。

今は沖合に長崎空港がある大村市だが、当時は東洋一といわれた規模の海軍航空廠があった。海軍の飛行機の開発や試作、修理を行う施設である。工員用の寄宿舎があり、我々学生はそこに入れられた。8畳くらいの部屋に6人で生活した。私にとって集団生活は初めてである。

生活は海軍式で、朝6時に起きて体操。様々な作業を小間使いのようにさせられた。決まった仕事を任されたわけではないので、仕事の内容はよく思い出せない。忘れられないのは食事がまずかったことだ。昀初こそ麦飯だったが、1週間もすると大豆の搾りかすと米が半々の豆かす飯になった。まずい上に量が少なくいつも空腹だった。

こんなところに1年もいたらどうなることかと思っていたが、この大村の勤労動員は長くは続かなかった。働き始めて2カ月後の10月25日、大規模な空襲で工場群は焼尽されてしまったのだ。

その日の午前10時ごろ、爆撃機B29の第1波がやってきた。私たち学生は、防空壕(ごう)ではなく、滑走路の端まで走り、溝に身を伏せた。防空壕の数には限りがあり、全員が入ることができなかったからだ。やがて爆弾投下が始まり、それまで澄み切っていた大空は、たちまち噴き上げる煙と砂じんで真っ黒になった。

我々は工場の敷地の端にいたことが幸いし、爆弾の直撃を受けることはなかった。犠牲者は約300人に達し、その中には、女学校生も含まれていた。空襲は何波も襲いかかり、ほんの1時間ほどで工場群は跡形もなく消えてしまった。

その後、海軍航空廠は臨時の施設を諫早に急ごしらえで造り、私は今度は家から歩いて毎日工場に通った。エンジン修理工場で、クランクケースにシリンダーを取り付けるときに接合面を削る「すりあわせ」と呼ばれる作業が担当だった。

45年3月、諫早中学を4年で卒業した。1日も授業に出ず、卒業式も卒業証書もなしである。しかし、勤労動員は続いた。

4月ごろになると、修理のために運び込まれるエンジンがほとんど来なくなった。もう飛ばす飛行機がなくなってしまったのだろう。毎日、出勤はするがやることはあまりなく、ぼんやりしていることが多かった。そして、勤労動員が始まって約1年後、運命の8月9日がめぐってきた。

(生物化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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