下村脩(4)住吉中学に転入

速い授業成績さんざん
初の都会暮らし、結核患う

父が大阪の歩兵第8連隊に転勤になり、太平洋戦争が始まった1941年12月、家族も佐世保から大阪に移り住んだ。東住吉区に住み、私は転入した住吉中学に通った。住吉中学はかなり水準が高い学校で、簡単には入れなかったらしいが、父の知り合いの部下の世話で、なんとか手続きをしたらしい。

転校の初日、母に連れられて住吉中学の職員室にあいさつに行った。母が担当の先生に、自分たちの紹介をしていると、横で聞いていた男の先生が「ああ、あなたは諫早の人ですか」と親しげに話しかけてきた。

その人は、諫早出身の著名な詩人で、国語教諭であった伊東静雄先生だった。詩集「わがひとに与ふる哀歌」などで知られ、今の住吉高校には伊東先生の詩碑がある。

現在の大阪府立住吉高校にある伊東静雄の詩碑同郷同士と知った母と伊東先生は、たちまち諫早弁に切り替わっ、郷里の話などをしばし続けたものだから、周りの先生はぽかんとした顔で見ていた。そんな縁で、昀初は伊東先生が組主任のクラスに入れていただいた。2年からは担任ではなかったが、国語はずっと伊東先生の授業だった。

住吉中学での成績は悪かった。それまでいた中学と比べ、授業の進み方は速く、学習内容のレベルも高く、いくら勉強してもついていくことができない。昀初の試験の成績は同じ学年の302人中300番とさんざんだった。その後は少しずつ追いついていったが、4年のころにやっと真ん中くらいの成績だった。

さらに悪いことには、都会に初めて住んだせいか、たちまち肺結核を患った。学校でのエックス線の集団検診で引っかかった。当時は結核の薬はなにもなく、自然治癒を待つしかなかった。

私の場合は、菌を外部に排出する開放性結核ではなかったため、他人にうつす危険はないということで、学校に通うことはできた。結核は当時はありふれた病気で、軽いものを含めれば周囲のかなりの人がかかっていたのではないだろうか。たしか、伊東先生も後に結核で亡くなられたはずである。

結核は体力を消耗するので、回復するまでの半年くらいは非常につらかった。幸か不幸か、そのころから授業時間が減って勤労奉仕の時間が増えた。貯水池作りなどの現場に行って、もっこ担ぎなどをやらされた。当時のクラス写真を見ると、すべての生徒が脚にゲートルを巻いた姿で写っている。

私は当時からメカニカルなものに興味があり、模型飛行機作りなどに凝っていた。竹ひごを曲げて作り、ゴムひもでプロペラを回して飛ばすあれである。住吉中学の時代に、愛読していた科学雑誌に載っていた羽ばたき型の飛行機の話を参考に、羽ばたき機を製作して大阪のデパートの展覧会に展示したこともあった。

将来、飛行機や船の設計者になりたいと漠然と思っていた。だが、自分の思い通りに将来を描けるような時代ではもはやなかった。

父が「大阪も空襲が来るので危ない」と言ったので、家族は諫早の母の両親の家に疎開して身を寄せることになった。中学4年の15歳、44年の夏のことである。通算で5回目くらいの引っ越しだった。

(生物化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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