下村脩 (3)跡取り息子

祖母から厳しいしつけ
ご飯一粒残してもダメ

父と別れて、満州(現中国東北部)から佐世保に戻り、白南風(しらはえ)小学校に4年で編入した。1938年のことだ。そのすぐ後、母だけが父のところに1年ほど行ったので、その間、私は祖母に養育されることになった。

祖母のツキはいかにも明治を思わせる人で、私を下村家の跡取りとして、大変厳しく育てた。特に作法に厳しく、常日ごろから姿勢を良くしていなければならなかった。

「武士は食わねど高ようじ」という言葉をよく聞かされた。食事の時に一粒でもごはん粒を茶わんに残すと、米はお百姓さんが丹精込前列に祖父母と父母、2列目右端に
めて作ったものです、と白湯で洗って飲まされた。

風呂の後で時々、耳の後ろと首筋を調べられ、少しでもあかがあると、「打ち首になったときに見苦しい」と注意された。切腹・打ち首などはあり得ない時代なので、あくまでも心得として言っているのだが、それにしてもかなり怖いおばあさんだった。

一方では体の弱い私に栄養のあるものを食べさせて、気遣ってくれてもいた。この1年間の祖母のしつけは、私の生涯に良い意味でも悪い意味でも、強い影響を及ぼしたと思う。良い意味とは、何でもきちんとやり、いいかげんなことはしない姿勢である。

反対に悪い意味というのは、気位が高く、孤立しがちな人生態度になっていったことだろうか。今でも私は、無愛想だとかよく言われる。弟は祖母に対して苦情を持っていたようだが、私は比較的素直に、このやや古めかしい道義を受け入れていた。

41年、佐世保で中学校に入学した。その年の12月には太平洋戦争が始まる。軍国主義も最盛となる。

週に2回ほど、配属将校による軍事教練の時間があった。そのあるときのこと、いつものように隊を組んで、行進の練習をさせられ、最後に将校による訓話があった。横一列に並んだ私たちに将校が言った。

「おまえたちは天皇陛下のおんために戦うのである。もし失敗や間違いを起こしたときは切腹をする覚悟はあるか」。一斉に「はい」と返事をする。ここまでは良かった。
将校は続けて、「切腹する者は一歩前に出ろ」と言う。ほかの生徒は反射的に一歩踏み出した。しかし私は、将校の言う理屈がすっきりと飲み込めず、疑問を感じて考えている間に一歩出るのが遅れてしまった。

私が思ったのは、戦争という大変なことを遂行しているのに、少々間違えたり、失敗したりしただけですぐ腹を切るというのはどういう理屈なのだろうか。切腹とは相当に大変なことだが……。

将校は出遅れた私を見て、「下村、おまえ」とにらみ付けた。絶体絶命。間違いなく処罰されると思った。ビンタを3つくらい食らうか、放課後に正座をさせられるか。覚悟を決めてこう言った。「そのときの状況によって、判断します」

配属将校はちょっと考えて、「おまえは思慮がある」とか言って、それで終わりになった。ほっとした。

佐世保にいる間、夏休みと正月は、諫早の母の実家で過ごすことが多かった。坂の下にある、小さな川でフナやザリガニを釣った。南の有喜の海岸には潮干狩りに行った。山では山芋を掘ったり、祖父の炭焼きを手伝ったりした。

(生物化学者)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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