下村脩(1)蛍光たんぱく質「GFP」発見

天の導き
謎多い世界、興味

早いもので、最初に米国に渡って今年で50年。その前の日本での期間を入れると55年、私は生物発光の研究に打ち込んできた。長年の研究所勤めを終えた9年前には、ここマサチューセッツ州の南の町ファルマスの自宅に研究のための設備を備え付けた。来月で82歳になるが、これからも体と頭が動く限り研究ができる。

手がけた発光生物は、日本でのウミホタルを皮切りに、渡米後はオワンクラゲやオキアミ、ホタルイカ、発光キノコなど1ダースにもなる。これだけ研究してもなお、発光生物の世界は謎に満ちており、興味が尽きることはない。

特に米西海岸から採ったオワンクラゲから見つけた緑色に光る蛍光たんぱく質は、最初の発見から何十年を経て、今日では医学や生命科学の研究になくてはならない道具として世界中で使われるようになった。この緑色蛍光たんぱく質「GFP」の発見で、2008年のノーベル化学賞を受賞した。GFPの応用を発展させた米国の2人の科学者との共同受賞である。

このGFPの発見から応用への劇的な展開は、当初私の予想するところではなかった。米国に渡ってすぐに上司から勧められたオワンクラゲの研究を進める中でGFPを探し当てた。それは同じオワンクラゲが持つ、別の発光たんぱく質の研究の副産物ともいえるものだった。

オワンクラゲの発光にかかわるたんぱく質の研究が成功したのは、その直前に日本で最初に手がけたウミホタルの研究の知識があったからこそだった。そのウミホタルから発光物質を抽出するという研究テーマは、奇縁を得た指導教授から与えられたものであり、私は言われるままに研究に没頭したのであった。

まったく幸運としかいえないこともあった。実験材料として毎年、家族総出で何万匹も採っていたオワンクラゲが、GFPの研究が終わったころにはうそのように消えうせてしまい、その後は研究が不可能になったのだ。

こうした数々の出来事や幸運の重なり、人々の厚意や援助、それに科学の進歩がうまくからみあった。これらの事情がわずかでも違っていたら、蛍光たんぱく質GFPは現在、この世に知られていないのではないかと思う。

GFPの発見はいわば天の導きのようなものであり、天は私という人間を使って、人類にGFPを与えたのではないかと思うことさえある。

化学者あるいは研究者になろうとは最初は考えてもいなかった。終戦の年に形ばかり卒業した旧制中学時代は勉強どころではなかった。長崎県諫早市で勤労動員の作業中に原子爆弾に遭った。

その原爆で破壊された長崎医科大学付属薬学専門部(現在の長崎大学薬学部)が諫早の家の近くに臨時移転してきた。私は入学を許された。戦後の混乱でほかにどこも行くところもなかったが、それが研究者としての人生の始まりだった。

ストックホルムでのノーベル賞の受賞記念講演では、長崎の被爆体験から説き起こした。後に名古屋大学、プリンストン大学、ウッズホール海洋生物学研究所と移ったが、あの戦争とその終結の象徴である原爆を抜きにしては、私の研究者の人生を語ることはできない。発光生物の不思議に魅せられつつ、運命にもてあそばれつつの人生を振り返ってみたい。

(生物化学者)

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