下村脩(31)若い人たちへ

あきらめず、がんばれ
失敗気にせず逃げないで

ノーベル賞を受けた翌年の2009年3月、日本に一時帰国して、日本化学会などが主催する講演会に招かれたときのことだ。講演後のパネル討論の場で、会場の若い参加者から私への質問が出た。おそらく研究者かその卵であろう。「研究で成果が出ず、行き詰まったときはどうすればいいか」という問いだった。

ちょっと考えた後、こう言った。「がんばれ、がんばれ」。つべこべ言わずに努力をしなさいという、突き放したような言い方に、ひょっとしたら聞こえたかもしれない。もう少し丁寧な答え方をしようとも思ったのだが、私が言いたかったのは、結局はこの「がんばれ」という単純な言葉に尽きるのである。

「やりたかったことをやっていて行き詰まったらどうするか」と、聞かれたこともある。この質問の真意が私にはよく分からない。

すぐにあきらめたり、ほかのことに移ってしまったりするのは、それはそのことが本当にやりたかったことにはならないのではないだろうか。

もちろん、人が置かれる状況はそれぞれ異なるだろう。私の場合は、生物発光というテーマを与えられ、その不思議さに魅せられつつ、格闘してきた。

ノーベル化学賞の成果となった、緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見までには、同じオワンクラゲからとれた発光たんぱく質のイクオリンや、それ以前に日本で取り組んだウミホタルのルシフェリンの研究が役立った。これらが成功裏に進んだのは、様々な幸運もあったし、巡り合わせが作用した。

しかし、そのような思わぬ偶然を引き寄せることができたのは、少しの失敗は気にせず、あきらめずに努力したためである。試練には何度となく直面したが、私は逃げることは考えなかった。逃げることができなかったといってもいい。

研究者として、私は実験がうまいとも言われる。「神の手を持つ」などと神格化するようなことを言われたこともある。実際のところは、私は不器用で、実験は上手ではない。よく失敗する。ただ、簡単にはあきらめない。うまくいかなかったら考え直して、別なやり方を試みてみる。だめだったらもう一度。それを何度も繰り返す。それだけだ。

今の研究者には難しいテーマには取り組もうとしない傾向があるようにみえる。こうやれば、結果が出ることが見えているものは手がけるが、すぐに結果が出そうにないものは、始める前から尻込みしてしまう。最近は女性より男性にこの傾向が強い。女性の方がまだ元気があるような気がする。

科学研究に関していえば、私がやってきたのはずっと基礎研究である。生物発光の研究を、何かの役に立つとか考えたことはほとんどない。そうした基礎研究の蓄積があって、緑色蛍光たんぱくGFPのような、後に社会に役に立つものが生まれた。まったく予想を超えたことであった。あらかじめ、予定されている成功などはないのだ。

日本の若い人たちに重ねていいたい。がんばれ、がんばれ。物事を簡単にあきらめてはだめだ。

(生物化学者)

母校の大阪府立住吉高校を妻と訪問、生徒に語りかける(2009年10月)

下村脩(30)里帰り

ゆかりの地から祝福
諫早に銅像、いささか困惑

2008年12月にノーベル化学賞を受賞した後、日本を訪れる機会が急に増えた。大学や研究所勤めをしているときは、日本には数年に1度しか行かなかった。ウッズホール海洋生物学研究所を退職してからは、日本での生物発光に関する学会や会議に招かれることも多くなったが、それでも年に1度くらいがせいぜいだった。

それが受賞の直後から、日本を訪れた際はとにかく一度来てくれという要請がひっきりなしに舞い込むようになった。私は幼いころから、住まいを転々としたため、日本に縁のある土地は多い。京都の福知山、少年時代の佐世保や大阪、諫早、大学に学んだ長崎や名古屋、そして東京……。

米国で生活しているので、これらを訪れるにはまとめて行くしかない。受賞以降、今春までの約1年半で、3度にわたって訪れた。呼ばれなかったのは、幼少期を過ごした旧満州(現中国東北部)くらいである。

私の専門である発光生物、中でもクラゲにちなんだ交流もあった。山形県の鶴岡市に市立加茂水族館がある。小さな水族館であるが、クラゲの展示点数は日本一、あるいは世界一であると聞く。ところが、その中の一つ、発光クラゲのオワンクラゲがうまく光らずに困っているという話が伝わってきた。

私は館長の村上龍男さんに電話をして、クラゲを光らせるためのアドバイスをしたことがある。発光物質であるイクオリンの働きを高めるため、セレンテラジンを餌に加えることを提案した。見事にクラゲが光るようになったという返事をいただいた。

今春にこの水族館を訪れたとき、村上館長は、私を一日館長、妻を同副館長に任命し、地元の人々とふれあう機会をつくってくださった。また、クラゲの展示もしている佐世保市の水族館からは名誉館長の肩書をいただいた。

様々な申し出を受けた中には、困惑を覚えるものもあった。私の業績をたたえる記念碑や、銅像を造りたいと言ってこられたことだった。銅像を建立したいと言ってきたのは疎開先だった諫早市。卒業した長崎県立諫早高校(当時は諫早中学)の正門前に、ぜひ建てたいのだという。

銅像とはいかにも大げさだ。どうしても建てたいなら、私が死んでからでもいいのではないか、と固辞したが、地元では早々と準備をしているようで断りようがなかった。

除幕式に招かれた今年4月、私は照れ隠しの意味を込めて、こうあいさつした。「銅像といえば、イラク戦争中に、民衆の手によって像が引き倒されたサダム・フセイン(元イラク大統領)のことが思い起こされます。そんなことにならないよう、これからもがんばりたいと思います」

この銅像の横には「こどもたちへ」と題した、私のメッセージが刻んである。「どんな難しいことでも、努力すればなんとかなる。絶対あきらめないで頑張ろう」銅像ができてしまったことは、私の本意ではなかったが、この言葉は、私の偽らざる気持ちである。祝福の声が強いのは、私が田舎の出身であることも関係しているだろう。私の業績に釣り合わないような気もする。しかし、みんなが私の受賞を喜んでくださるのをみると、本当にうれしい。

(生物化学者)

今年4月、長崎県立諫早高校前の銅像除幕式で

下村脩(29)授賞式

記念講演、原爆の話から
戦争抜きには語れぬ人生

2008年12月5日、ノーベル賞の授賞式に出席するため、スウェーデンのストックホルムの空港に、妻、明美とともに降り立った。2人の子ども、努、幸も家族同伴で来てくれた。日本の長崎の親せきも何人か合流した。

この年は、日本人のノーベル賞受賞ラッシュの年だった。私の化学賞のほか、物理学賞を南部陽一郎、益川敏英、小林誠の3氏が受賞された。授賞式を欠席された南部博士を除く日本人3人が、ストックホルムに顔をそろえた。

アルフレッド・ノーベルの命日である12月10日に行われる授賞式をクライマックスとする約1週間は、現地ではノーベルウイークといわれ、晩さん会や講演会、現地の科学者との交流会といった行事が目白押しである。

このうち、8日のノーベル賞講演、10日の授賞式と晩さん会の3つには、受賞者は必ず出席しなければならない。私は他の受賞者と比べて高齢でもあるし、この義務をしっかりと果たすことが大事だと考えていた。ほかのスケジュールは軽くして、評判の王立ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団によるノーベル賞コンサートもあきらめ、家族だけが鑑賞した。

「緑色蛍光たんぱく質GFPの発見」と題した8日の受賞記念講演では、長崎の原爆の話から切り出した。

「私の話は長崎の町が原爆によって破壊され、第2次世界大戦が終わった1945年から始まります」

会場正面のスクリーンには、原爆で跡形もなく破壊された当時の長崎医科大学の写真が映し出された。

原爆の話から始めた理由は、ほかでもない。私の人生、ことに研究者としての人生は、戦争が終わってから始まったようなものだ。戦前の子どもの時期に将来に向け描いてきた夢は、戦争によって否定され無視された。戦後は、運命に導かれるように生物発光の研究に入った。それが、このような成果に結実しようとは考えてもいなかった。

私の人生には巡り合わせという言葉がつきまとうが、原爆や終戦こそがもっとも大きな巡り合わせかもしれない。講演では、クラゲ採りの苦労話や、研究を導いてくれた恩師の話を織り交ぜながら、GFPの発見への長い道筋が理解してもらえるよう話したつもりである。

途中、試験管に入れたGFP溶液に紫外線を当てて、光らせる実演も行った。

GFPは共同受賞者の、チャルフィー博士らの仕事によって、遺伝子組み換え技術で大量生産できるようになったが、私が持ってきたのは、オワンクラゲからとった天然物である。いつ見ても美しい。照明を落とした会場で、緑色に輝くGFPを前に、会場からはため息が漏れていた。

授賞式では化学賞は私、チャルフィー博士、チェン博士の順に、カール16世・グスタフ国王からメダルと賞状をいただいた。ファンファーレが響く中、会場に感謝の意味を込めて黙礼した。授賞式をはじめとする行事はすべてが格式と威厳に満ちていた。

現地では、日本人の受賞者を集中取材しようとするメディアも多かったようだが、私は受賞者としての公式日程をこなすのに精いっぱいで、応じる余裕がなかった。授賞式が終われば、騒ぎが一段落するとも思っていたが、そうはならなかった。

(生物化学者)

ノーベル賞受賞の記念講演でGFPを光らせる実演を行う=共同

下村脩(28)ノーベル賞

朝5時、受賞の知らせ
うれしかった息子のメール

2008年10月8日、朝5時に電話で起こされた。受話器を取った妻が「電話に出てください。ストックホルムからですよ」と呼んでいる。この時期、この時間にストックホルムといえば、ノーベル賞の知らせに違いがあるまい。ベッドから起きあがった。寝ているところを起こされたこともあるが、「ああ、いやな電話が来たな」というのがそのときの偽らざる気分だった。

まず女性の声が聞こえ、すぐに男性に変わった。メッセージを読み上げるような口調だ。雑音があってよく聞き取れなかったが、スウェーデン王立科学アカデミーが、緑色蛍光たんぱく質(GFP)の研究で、他の2研究者とともに今年のノーベル化学賞を授与するということだった。電話を切る間際に、相手が言った。「今から20分後に受賞を正式に発表します。ひっきりなしに電話がかかって来ますよ」

何か腹ごしらえをしておかなくては、と妻が用意したトーストを一口かじったら、もう電話が鳴り出した。受賞のコメントを求める世界中のメディアからのものだった。やがてどこかの記者が玄関のドアをノックする音がする。騒がしい一日の始まりだった。

前の職場であるウッズホール海洋生物学研究所から使者がやってきた。午前11時から記者会見を開くので、30分前に研究所まで来てほしいという。電話で連絡が取れないので直接伝えに来たのだった。

身支度を調えて、表に出ると、メディアの人々が詰めかけていた。振り切るように車に乗りこみ、ハンドルを握って、自宅から10分ほどの研究所に向かった。古巣の職場では、所長が記者会見に同席してくれた。

ノーベル賞については、意識していなかった訳ではなかった。私が手がけていたGFPは、医学や生命科学の研究になくてはならない道具になっていた。英国のピアース賞を04年に受賞してからは、賞の下馬評に挙がることもしばしばだった。ただ、もし受賞があるとすれば、生理学・医学賞と思っていた。化学賞とは意外だった。生理学・医学賞の発表はその2日前に終わっていたので、安心して寝ていたという訳だった。

うれしかったことは、息子の努から、電子メールで「おめでとう」というメッセージが入っていたことである。息子は独り立ちして久しいが、そのころは長く消息を聞かず、どこに住んでいるかも知らなかった。

メールの中身は簡単なものだったが、その日舞い込んできた100を超えるメールの上から2番目に並んでいた。どこかで受賞の発表をインターネットか何かで見ていて、発表とほとんど同時に、知ったのだろう。

45歳の息子は、コンピューターセキュリティー技術の専門家で、米国では名うてのハッカー退治をしたことで有名になった。あんなに早くメールをよこしたのは、父の発表を予想して見守っていたのかもしれぬ。思い過ごしかもしれないが。

最初に受賞の知らせを受けたときに「いやだな」と思ったのは、大騒ぎになることが予想されたからだ。私は騒がしいことが大嫌いだ。その一方で、時間がたつにつれ、自分の研究が世界に認められたことへの率直な喜びもわいてきた。

(生物化学者)

ノーベル化学賞受賞が決まり、自宅で電話を受ける=ロイター

下村脩(27)自宅を増築

自分専用の研究施設
「知識を次世代に」本も執筆

2001年、19年間研究の場としてきたウッズホール海洋生物学研究所を退職した。73歳のときだった。

これに合わせ、マサチューセッツ州ファルマスの自宅を増築し、自分で生物発光の研究を続けるための施設を造った。研究室のスペースは50平方メートルあまりと広くはないが、1人で使うには十分だ。

米国では、大学や研究所をリタイアしたのち、自宅で研究を続ける科学者は珍しくない。ただ、顕微鏡一つあれば多くの研究ができる生物学者とは違い、化学や分析が専門である私の場合は、分析機器など、一通りの設備が必要だ。

ウッズホールの研究所では研究室を1人で使っていたし、そこの機器は私が研究資金を申請して購入したものだ。米国では、こうした物品は研究所に帰属するが、自宅に移す許可は簡単に得られた。処分するのにも費用がかかるからだ。そこで、色々の使い慣れた機器をそのまま、自宅の研究室に運び込んだ。

ここでまずは、発光キノコの研究をするつもりだった。自宅の裏山は発光キノコがよく生えるので、実験試料の採集には苦労しない。前々から関心のあるテーマで、じっくりと取り組むつもりだった。

その前に、ぜひやりたいと思っていたことがあった。生物発光についての本格的なテキストを書くことだ。緑色蛍光たんぱく質GFPのように、生物発光の研究成果の応用は盛んなのだが、実は、生物発光の研究自体をやる人は非常に減っている。

理由は、この分野が今の人には難しく見えるためだと思われる。生物発光は多様で、研究の方法がまだ確立していない。未知の分野を開拓するおもしろさがあると思うのだが、最近の研究者は、生物発光に限らず、こうした成果がすぐに見えないものはやろうとしない傾向がある。

このままだと、私のような生物発光の基礎研究者はゼロになってしまうかもしれない。しかし20年くらい先には、研究を志す人が出てくるだろう。今は役に立たない教科書かもしれないが、私の得た知識を残すために絶対に本を書いておきたかった。

約500ページのこの本『生物発光』には、生物発光について、私の知る限りのことを詰め込んだ。末尾には、生物発光の化学の研究に関心をもつ学生へのアドバイスとして、1項を設けた。「生物発光は面白くかつ不可思議な化学の宝の倉だ」とも書いた。この本を読んで、生物発光の研究を志す人が一人でも多く生まれてくれれば幸いだ。

引退後、04年に英国王室顕微鏡学会のピアース賞を、06年には朝日賞を受賞した。07年1月の東京での朝日賞授賞式では、親せきや友人を50人近くも招待してくれ、久しぶりに懐かしい思いをした。

受賞スピーチではオワンクラゲから見つけたイクオリンとGFPという2つのたんぱく質を自分が授かった双子になぞらえ、「その双子の一人が、みるみる成長して偉くなった。子どもの成功は親の喜びだ」と述べた。

3年がかりで06年に本を書き上げ、いよいよ自宅で発光キノコなどの研究にとりかかろうとしていた。ところが、そうした引退後の設計は、ノーベル化学賞受賞の知らせで、吹っ飛んでしまった。

(生物化学者)

自宅研究室で実験(2005年ごろ)

下村脩(26)「GFP」脚光

90年代、進展する研究
発見は幸運のたまもの

1979年にオワンクラゲから得た緑色蛍光たんぱく質GFPの発色団(光が出るための化学構造)を決めた後、私はGFPの研究から完全に手を引いた。その後、GFPを応用する研究は90年代に入り、大きく進展した。

GFPが他の蛍光たんぱく質と異なるのは、たんぱく質自身の中に蛍光発色団が組み込まれて1分子である点だ。このたんぱく質を作る遺伝子を使えば、GFPを人工的に作れる可能性がある。

92年にウッズホール海洋学研究所にいたダグラス・プラッシャー博士が、GFPのクローンを作り出した。ただ、この時点では、クローンのGFPは別の酵素の助けなしで蛍光発色団を作るのは難しいと考えられていた。

この見方を覆したのが、米コロンビア大学のマーティン・チャルフィー教授である。教授は94年、GFPを生きた生物中で働かせることを実証した。線虫の体内で、GFPが緑色に光る写真が、米サイエンス誌の表紙を飾った。さらに米カリフォルニア大学のロジャー・チェン博士はGFPに改良を加え、本来の緑色だけでなく、様々な色の蛍光を出すたんぱく質を作った。

現在、GFPとそれを改良した蛍光たんぱく質は、生体内のたんぱく質や組織に印をつけるマーカーたんぱく質として、世界中で広く使われ、医学や生物学の研究に欠くことのできない道具になった。この応用面の立役者であるチャルフィー、チェンの両博士は、ノーベル化学賞の共同受賞者である。

GFPは計画して発見されたのではない。オワンクラゲの発光の研究中に副産物として発見されたのであり、この発光クラゲの研究なくしてはその発見はなかったはずだ。

仮にGFPを私が発見していなかったとすると、代わりに誰かがGFPを発見していただろうか。誰かその存在を予測していただろうか。そんなことは考えられない。しかし、仮にそんな予測があったとしても、それを確かめるためには、そのたんぱく質を検出する方法を考案し、いろいろなたんぱく質を抽出して、その中に実際にGFPのようなものがあることを証明する必要がある。それは膨大な仕事で、誰もやらないだろう。ということは私が発見していなかったら、誰もGFPを発見していないであろう。

私の発見は幸運なことが重なって起きた。まず私が研究したオワンクラゲの中にイクオリンとGFPという2つが存在していたこと。もしGFPだけだったら、だれもそれを研究しなかったはずだ。もう一つ幸運だったことは、私が以前に行っていたウミホタルの研究の結果が、GFPの解明に絶対必要だったことだ。

さらに一つ。不思議なことだが、以前はあれほどたくさんいたオワンクラゲが、我々の研究が済んだ後、90年ころに突然消えうせたのだ。以来、2~3匹のクラゲを採ることさえ容易でなくなった。

その原因は天然現象かもしれないし、89年に起きたオイルタンカー、エクソン・バルディーズ号の原油流出事故による海洋汚染かもしれない。このようなことが20年早く起きていたら、GFPは発見されず、現在この世にGFPは存在しないだろう。

(生物化学者)

緑色蛍光たんぱく質GFPの結晶(顕微鏡写真)

下村脩(25)新しい拠点へ

関心の赴くまま研究
発光キノコはライフワーク

1979年に緑色蛍光たんぱく質GFPの研究に区切りをつけた。2年前の77年には、ホタルの発光の仕組みをめぐる米研究者との6年あまりの論争にもようやく決着がついていた。プリンストン大学に私を迎え、長年苦楽をともにしてきたフランク・ジョンソン教授は、同じ77年に同大学を退職した。

私はその後、それまで17年間、最初の滞在を含めれば20年いたプリンストン大学を離れ、82年にマサチューセッツ州南部にあるウッズホール海洋生物学研究所に上席研究員として移ることになった。

同研究所は、米国の海洋生物学研究の中心ともいえる存在である。75年には昭和天皇が訪問された。普段は150人くらいの研究者がいるが、夏には世界各地から生物学者が訪問してきて、千人くらいの大研究所に変貌(へんぼう)する。私は2001年に退職するまでのやはり20年近く、ここを拠点に研究をすることになる。

オワンクラゲ発光の研究が終わった後は、関心の赴くままに、様々な発光生物を相手に研究を進めた。

カリフォルニア州のロサンゼルスとサンフランシスコの中間付近、シエラネバダ山脈の標高1500メートルあたりに、ヒカリヤスデと呼ばれる面白い生物がたくさんいる。そこにはレッドウッドという巨木が多く、雪が解ける5月になると、その根元あたりにヤスデがぞろぞろとはい出してくる。2回採集に行き、約1年かけて発光物質の研究をした。

それからウロコムシ。どこの海にでもいる体長2~3センチメートルの小動物で、敵から攻撃されると、ウロコを2枚か3枚はがして逃げる。そのウロコが光るので、敵はそれに欺かれるというわけだ。ウミホタルの場合は、敵から攻撃されると、光る液体を出して自分が逃げるのだが、それとよく似ている。

海岸にいるクモヒトデも研究した。ヒトデの近縁で、豆粒のような形をした頭に、長さ5センチメートルくらいの細長い脚が5本ついていて、クモを連想させる。全身が光る。

発光キノコの研究は、80年くらいから始めた。ウッズホール海洋生物学研究所にやってきて、自宅を建てたとき、木を切って土を掘り返して造成した敷地一面に、色々な種類のキノコが生えてきた。

その中に発光キノコがあり、周囲の山を調べると、同じ種類の発光キノコが繁殖していることがわかり、夢中になって採集した。以来、発光キノコの研究は新たなライフワークになっている。

米国に来た当初にスウェーデンまで出かけて始めたオキアミの研究も、この時期に成果がまとまった。オキアミの発光物質であるルシフェリンは、精製方法が見つかるまで難航し3年ほどかかったが、その後の構造決定が後回しになっていた。

87~88年に、名古屋大学の平田義正教授の紹介で、ハーバード大学の岸義人教授の研究室にいた中村英士氏とオキアミ・ルシフェリンの構造を研究した。中村氏とは同じ時期に、鞭(べん)毛虫類のルシフェリンの構造も研究した。

新天地でさまざまな発光生物を追い求めて10年あまり。その間に、オワンクラゲから得た蛍光たんぱく質GFPは、私が当初想像もしていなかったような発展を始めていた。

(生物化学者)

下村脩(24)ひと区切り

「GFP」の研究を終了
発見から18年、正体を解明

後に私のノーベル化学賞受賞の業績となる、緑色蛍光たんぱく質GFPは、もともとは1961年、オワンクラゲから、発光たんぱく質のイクオリンと同時に発見していたものだった。GFPは結晶になりやすい美しい蛍光たんぱく質である。

GFPは当初はイクオリンとは違い、何の使い道もないものだったが、私はこの蛍光たんぱく質のことが気になっていた。オワンクラゲの発光の色は緑色であり、イクオリンの出す青色とは異なる。緑の蛍光を示すGFPはオワンクラゲの発光のカギを握っているに違いなかった。

その謎に一応の答えを出したのは74年のことだった。オワンクラゲが緑色に光るのは、イクオリンの青い光のエネルギーを、GFPが緑の光に転換するためであることを証明した。イクオリンのそばにGFPがあると、イクオリンがカルシウムによって発光しようとするとき、そのエネルギーがGFPに移り、GFPが緑に光るのだ。

だが、GFPが蛍光を出す仕組みそのものの解明はそれからだった。79年、それまでためておいたGFPを使って、その蛍光の原因となる発色団(化学構造)を調べ始めた。使ったのは、採集に数年をかけたオワンクラゲ約20万匹分にあたる、100ミリグラムのGFPである。

まず、たんぱく質を分解する酵素を使って、GFPを小さい断片(ペプチド)に分解した。得られた無数のペプチドの中から、発色団を持つものを選び出して精製した。

その発色団の、光を吸収する性質を測定したとき、私は驚いた。というのは、その性質が、私が20年前にウミホタルのルシフェリンの研究中に合成していた、ある化合物とそっくりだったからである。

このことを手掛かりに、私はGFP内にあると推定される化合物を合成した。その特性は実際にGFPから得られた蛍光ペプチドと完全に一致した。とうとう、GFPの発色団の正体を突き止めた。

その意味するところは、それまで考えられもしなかったことだった。

普通の蛍光たんぱく質は、たんぱく質に蛍光化合物が結合している。つまり2つの分子からできている。しかし、GFPはこれとは全く違っていた。たんぱく質の中に蛍光発色団が組み込まれ、これを含めて1つのたんぱく質分子をなしているのである。GFPは200個以上のアミノ酸からできているが、その中の3つのアミノ酸が、分子内で反応を起こし、発色団を作っていることがわかった。

79年のこの発見は、その重要性から見て、GFPの本当の発見といえる。最初にGFPが発見されてから18年目のことだった。

GFPの構造を発表したこの年、私はラトガース大学のワード博士が、オワンクラゲのGFPの研究を始めたことを知った。博士はウリクラゲの発光たんぱく質の研究で見事な手腕を発揮した人物だった。

私の主な目的は、生物発光のメカニズムの解明であり、副産物のGFPについては、私はできるだけのことはしたし、やり残したことはないと判断した。GFPの研究はやめ、他の生物発光の研究に全力をつくすことにした。この不思議な蛍光たんぱく質が再び脚光を浴びるのはしばらく後のことである。

(生物化学者)

下村脩(23)長い論争

有力者が誤った学説
意を決し反論、後味悪く

1960年代後半から、毎年夏に米西海岸のフライデーハーバーで大量のオワンクラゲをとり、発光の研究を進めていた時期、私は一方で、やっかいな問題を抱えていた。ホタルの発光の仕組みについての基本的な部分でいわく付きの論争が起き、その一方の当事者として約6年間、対応に追われていたのである。

70年に、米国の著名な女性研究者がホタルの発光について新しい説を発表したのが発端だった。ホタルの発光物質であるルシフェリンは、生体内で酸素と結びついてできた過酸化物の分解で光ることが分かっていたが、その研究者は関与する過酸化物の種類が「直線状」の形をしたものであるとする論文を発表した。

私はそれを見て、すぐに間違いに気付いた。ルシフェリンの発光に関与する過酸化物の種類は、直線状のものではなく、別なタイプであるはずだった。研究者は、実験データを誤って解釈していた。大気中に微量に含まれる二酸化炭素の影響を考慮していなかったためのミスだった。私だけでなく、他の多くの有機化学者も同じ見解だった。

ところが、事情は単純ではなかった。その研究者は、自身が高名であるだけでなく、全米科学財団(NSF)の元所長の夫人だった。NSFは米国の研究資金の元締である。そのような影響力のある人が、誤った学説を唱えるのは困るし、かといって、公然と間違いを指摘するのもはばかられる空気があった。

間違いは正さなければならない。私はその翌年、ホタルではなく、ウミホタルのルシフェリンを使った実験を行い、論文を発表した。ウミホタル・ルシフェリンの発光は、同じ過酸化物でも、四員環過酸化物という、直線状でないタイプのもので起こるという結論をそこで示した。

ホタルとウミホタルのルシフェリンの化学構造は違うが、反応はよく似ている。関与する過酸化物が異なるとは考えがたい。私としては、女性研究者に間違いを悟ってもらい、自ら訂正してくれればいいという考えだった。

ところが逆に、女性研究者の結論を支持する研究論文が続々と発表された。そのほとんどは、もとの実験と同じ条件で行った追試に基づくものだったので、もとの実験と同じ誤りを犯していた。結論が同じになるのは当然である。

私にはそれらは、付和雷同的なものであるとしか思えなかった。その中には、ノーベル賞をもらうような著名な研究者の名も含まれていた。私は、自説に基づく論文を何報か提出し、激しい論争に発展した。数の上では、多勢に無勢で、一時はつらい立場に立たされた。

その時期、著名な論文誌に投稿をしても、編集者から「急いで載せる必要はない」などという納得できない理由で、掲載が見送られたこともあった。

私は意を決し、ウミホタルではなくて、ホタルのルシフェリンを使って、相手の誤りを証明することにした。77年、ホタルのルシフェリンの発光も、四員環過酸化物の分解によって起こることを私の研究室の実験結果が証明した。論争には終止符が打たれた。

最後は科学的に決着したわけだが、その経緯は後味の悪いものだった。真理を追究すべき科学研究の底に流れるどろどろしたものを垣間見た思いだった。

(生物化学者)

下村脩(22)イクオリン

発光の仕組みが判明
自然の偉大さ、あらためて

オワンクラゲから私が発見した発光物質のイクオリン。イクオリンが光るためのカギを握ると狙いをつけていた物質「AF350」の化学構造が判明したのは、1972年のことだった。67年から5年をかけて、家族も総出で、のべ25万匹ものクラゲをとり、そこから抽出した成分をもとに構造を決定できた。

その中で、私は思いがけないことに出合った。このAF350には、私が見慣れていた化学構造とよく似たものが含まれていたのだ。

十数年前、名古屋大学の研究生をしていたころ扱っていたウミホタルの発光物質ルシフェリンの酸化物中にあって、当時見つけていた化学構造と共通したものが、AF350の中にもあったのだ。構造の端の部分は異なっていたが、よく似ていた。

このことは、全く別物同士と思われていたオワンクラゲの発光と、ウミホタルの発光との間に、密接な関係があることを物語っていた。その後の我々の研究で、イクオリンの発色団(発光を担う化学構造)が、セレンテラジンと我々が命名した化合物であることが分かった。

ウミホタルとオワンクラゲにはどのような関係があるのだろうか。それまで知られていた、ウミホタルなどのルシフェリンとルシフェラーゼ(酵素)による発光と、イクオリンの発光が異なるのは、イクオリンの発光には酸素が不要で、カルシウムを加えただけで光るという点であった。

イクオリンは分子量が約2万の球状をしたたんぱく質で、その真ん中にセレンテラジンの過酸化物が入っている。ニワトリの卵を想像してもらうと、イクオリンが卵全体で、セレンテラジンの過酸化物は黄身に相当する。白身がイクオリンのたんぱく質部分だ。

もし、カルシウムイオンが周囲にあると、それがイクオリンに結合して、白身に相当するたんぱく質部分が変形する。その変形によって中のセレンテラジンが分解して光を出す。光った後のたんぱく質部分にセレンテラジンを加えて放置すると、もとのイクオリンに戻る。

つまり、セレンテラジンは、ルシフェリンのような役割をもち、たんぱく質がルシフェラーゼのような働きをしている。イクオリンというたんぱく質の内側で、ルシフェリンとルシフェラーゼによるのと似た、反応が起きているのだ。

このようなイクオリンの発光の仕組みの全体像が分かったのは、75年のことだった。その後、セレンテラジンは、イクオリンだけでなく、多くの発光生物の中で発見されている。

イクオリンというたんぱく質は、カルシウムイオンが結合すると、あたかも充電されていたかのように発光する。「放電」した後も、セレンテラジンによってまた充電することができる。このような、まるでバッテリーのような働きをするたんぱく質を、私はこれまで見たことがなかった。この不思議なたんぱく質を創造した自然の偉大さを感じないわけにはいかなかった。

もしも我々が、あらかじめこのウミホタルのルシフェリンの構造を知らなかったら、イクオリンの発光のメカニズムの研究は進まなかったと思う。私はここでも幸運だった。

(生物化学者)

線虫の体内で光るGFP(from science,vol.263,no.5148 reprinted with permission from aaas)