野田順弘(15)草創期

土日返上、夜でも修理
気心知れた3人が加わる

「大阪ビジネス」は私たち夫婦だけで誕生したが、この後会社を大きくするためには人材が必要だ。ただ誤った人選をすれば、会社が小さいだけに死活問題になりかねない。

事務所には東京オフィスマシン時代の部下たちが入り代わり立ち代わりやってきた。仕事の不満を訴え、私たちの会社に移りたそうな者もいる。だが会社は生まれたばかり。そうそう希望を叶(かな)えてやるわけにはいかない。

会社を立ち上げて2週間ほどがたち、堀内忠雄君が東京オフィスマシンから移ってきた。彼は技術者で会計機の保守・点検・修理に不可欠な人物。技術者ゆえに会計機の限界を知り、私と同じく目の前に迫っているコンピュータ時代を肌で感じていた堀内君の合流は当然のことだった。

もう1人、一緒に仕事をしてほしい人物がいた。木村博君という。東京オフィスマシンの大阪営業所長時代に私が採用した青年で、私より11歳下にもかかわらず、しっかりして見どころがある。

4月の末、息子の転職に反対していた両親を説得した19歳の木村君が、明るい挨拶(あいさつ)とともに出社してきた。

時代は2年ほど下る。

日本タイプライター(当時)の営業にいた澤田和久君が会計機の購入を検討している会社があると教えてくれた。商談はすぐにうまくいったので紹介料を払おうとしたら「あの会社は先輩の取引先です。もし紹介料を下さるのなら先輩にやってください」と言って受け取らない。

この誠実さと正直さに心が動いた。私は彼を誘い、26歳だった彼は応じた。こうして草創期の主要メンバーがそろった。

その間、会社は急成長していた。大企業が持て余している旧式の会計機を買い取り、整備して中小企業にレンタルするというビジネスモデルが当たったのだ。昼間は会計機の引き取り、レンタルのセールスに回る。

夜になると引き取ってきた会計機を堀内君の家の庭に持ち込んだ。機械をばらすのは堀内君。部品をガソリンで洗うのは私。きれいになった部品を座敷に運び、広げた新聞紙の上で組み立て直した。

気がつくと空が白々と明け始めている。新聞配達の自転車を横目に見ながらスバル360を走らせて家に帰り、数時間眠ってまた会社に行った。土曜も日曜もない。

会計機はよく故障した。ある早朝、枕元の電話が鳴った。納入先のタクシー会社からだった。

「給料計算の途中で機械が止まってしもたんや。運転手が帰って来る時間までに給料を揃(そろ)えなあかんのや。寝てはる時間いうことはわかってるんやけど、わしらは働いとるんや。いますぐ直しに来てくれへんか」。すぐに木村君へ電話して、タクシー会社に向かってもらった。

そんなこともあって24時間勤務のような状態が続いた。機械の保守が会計機を売る会社の「おまけ」と思われていたころではあったが、私は別な考えを持っていた。

機械を売った時点で仕事が終わるわけではない。顧客を満足させることを考え続けない企業はだめになる。クレームを受けないに越したことはないのだが、もしクレームを受けたら対応が迅速であればあるほど顧客の信頼を得ることができる。

これはビジネスの基本であると当時から考えていた。いまもそれは変わらない。

(オービック会長兼社長)