高原慶一朗(9)猛烈会社員

経営観察、工場経験積む

営業成績4倍で婿養子話大学は1953年(昭和28年)3月に卒業した。復興の槌音と学生運動の土煙が交錯した時代だったがこうした世の中のにおいは覚えていない。起業するにはどうしたらいいか。それしか眼中になかった。

父の助言もあり大阪に本社のある従業員が150人程度の関西紙業にお世話になることにした。同窓生が関西の重厚長大企業や商社などに就職したが、大企業では会社の仕組みがわからないと考えていた。この規模の会社だと経営全般がわかると思った。起業のための助走だった。

新人は私、1人。ここでも人の3倍は働いてやろうと決めた。入社して半年間は製造部原料係に配属され、原料の仕入れを手伝う。関西紙業の主力商品は台紙のような板紙で、原材料は雑誌、段ボールなどの古紙。材料の相場を毎日、グラフにして価格変動のパターンを覚え、できるだけ安値で仕入れる努力をした。

工場は2交代制の24時間操業。工場は欠勤者も出るので夜勤や休日出勤を買って出て現場の経験も積んだ。だから休んだ記憶はない。むしろ休むことのほうが異常だと思っていた。今なら、「狂気の沙汰」と言われるだろうが、「出しゃばる。度を過ごす」ことも若いときには必要だ。社長や工場長からの受けはよかったが、「あいつはやり過ぎだ」というやっかみ、ひがみ、ねたみの声も上がっていた。でも全く気にしなかった。

2年目は営業に回った。担当は名古屋地区で朝6時台の近鉄電車で名古屋に向かい、取引先をいくつも回って、終電を乗り継いで大阪に帰ってきた。扱っていたのは菓子箱に使う白い板紙。自分で原料を仕入れて、自分が工場で作っていたから製品への思い入れは人一倍だった。

その情熱が仇となり今で言うセクハラ事件を起こしてしまったことがある。大口の取引先に自社製品をもっと扱ってもらおうと営業攻勢をかけていた。商談の鍵は社長夫人が握っていると見た。社長よりもテキパキと社員に指示するやり手だった。

ようやく商談の時間を頂いて夫人に商品説明をしていた時のことだ。「弊社の製品はどこよりもいいものであると自負しております。どうかご一考をよろしくお願いします」と言ったか言わぬか。夫人が思わず立ち上がった。「何をするのより馴れ馴れしい」

説明に熱が入ってしまい、つい夫人の膝に手が触れてしまった。「あの高原は生意気だ」と夫である社長から抗議が来た。その場で平に謝ったが火に油を注いだようで、上司の営業部長と再び謝罪にいったが許してもらえなかった。部長は「おまえがなんとかせえ」とさじを投げてしまう始末で窮地に立たされた。

何とかしなければ。会社の中で最も信頼を寄せていた常務に事情を説明した。「大変やなあ。事情はわかったから」とおっしゃってくれた。常務がどのようなことをされたのかはわからなかったが、万事取りなしてくれて事なきを得た。この失敗は新たな刺激となり営業活動に精を出し、営業成績は前任者の4倍を売り上げていた。

3年目は社長秘書を務めた。経営そのものを間近に見ることができたのはうれしかったが、「あんたの働きには感服する。婿養子になってくれんか」と社長に懇願された。このままだと2代目社長になってしまう。そんな時にスカウト話が飛び込んできた。

高原慶一朗(ユニ・チャーム会長)