細川護熙(25)民主党旗揚げ

「政権の選択肢」に執念
退陣後の混乱、罪滅ぼしに

1994年4月25日、細川内閣は総辞職、羽田政権に変わったが、ほどなく、自民、社会、新党さきがけの連立による村山内閣が誕生した。安保や対米政策ひとつとってもあれほど距離のある自社が組んで、社会党の村山富市氏を首班として擁立するなどということは、なかなか思い及ばないことであった。

しかし、社会党はそれによって終わりを迎え、自民党もそれまでの良き保守の誇りを失うことになった。少し長い目で見れば、明らかに衰退の道への始まりだったような気がする。

旧連立与党の側も、いったんは新進党として結集するものの、”秦を滅ぼすものは秦″というように、内部崩壊で分裂していく。94年10月、私は日本新党の解党を党大会で宣言したが、それは日本新党の旗揚げに際し、新党は55年体制にトドメを刺すための時限的なプロジェクト政党であって、それを実現した暁には解党することを公言していたからだった。

私はその党大会で、同志の人たちにこういった。「我々が歴史的な仕事に参画する機会をお互いに持ち得たことは本当に幸福だったと思うし、口舌の輩に向かって『どうだ、やれるものならやってみろ』と胸を張って言ってもらったらいい」と。その模様を伝え聞いた小沢一郎氏らは「自分たちも一度でいいからそんなセリフを曇言ってみたいもんだ」とうらやましそうに語っていたそうだ。

新進党が解体したのは97年暮れ。その後には小沢氏らの自由党、羽田孜氏らの民政党、新党友愛などいくつもの党派ができた。鳩山由紀夫、邦夫兄弟、管直人氏らは旧民主党を結成していた。

参院選が迫る中、私は野党院内会派の民友連の政権戦略会議議長となったが、踊り場政党ばかりではとても選挙は戦えない。なんとか4つの党をまとめねばということで、各党の幹部や労組幹部らを連日説得してまわった。党名が民主党では駄目だとか、菅氏が党の顔なら嫌だとか、そんなことは政権交代実現の大義の前では小さなことだ。

50年代、保守合同のとき、党首選びはもめにもめて結局、民主党の鳩山一郎、三木武吉、自由党の緒方竹虎、大野伴睦の4氏が総裁代行という形で自民党はスタートした。当時の老政客たちの激しいやりとりは浪花節的なところもあるが、社会党統一に対して是が非でも保守合同をという執念が伝わってくる。

新しい選挙制度は、実体的にはきわめて首相公選に近い制度だ。新党であれ、政党連合であれ、問題の本質は、政権の選択肢をつくれるかどうかで、とにかく共同で政権の枠組み、首班候補、主要政策を示さなければならなかった。

細川が指している詰め将棋はしつこいとその当時ずいぶん言われたが、粘り腰で、ついに困難との見方もあった統一新党(現民主党)まで詰めきることができた。

私を調整役として三木武吉翁の役まわりに駆り立てたものは、ただひとつ自らの政権の終わり方と、その後の政治の混乱へのしょく罪の気持ちであった。98年4月末、新しい民主党を立ち上げた直後に、私はずっと懐にしていた国会議員の辞職願を衆議院議長に提出。27年の政治活動にピリオドを打った。

(元首相)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。