細川護熙(20)コメ開放

内憂外患薄氷の妥結
「自由貿易は国益」信念基に

政治改革とともに細川内閣が抱えたもう一つの難題は、多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)でのコメの市場開放問題だった。鉱工業、サービスを含む交渉の行方は世界経済発展のかぎとされ、特に農業は貿易障壁の撤廃が強く求められていた。

そういう状況の中で最終合意の基礎となるドンケル案が出されたが、これは農産物輸入の国境措置をすべて関税に置き換えたうえで、徐々にその水準を引き下げていくというもので、わが国としては受け入れがたいものだった。しかし、国際社会では我が国のような主張は少数派で、まさに四面楚歌の状況だった。

特にコメは自給体制堅持の国会決議が3度にわたってなされていたし、与野党の国会議員までが官邸前に寝袋を持って徹夜で抗議集会を開いたりしていた。生産地では、私を模したワラ人形を逆さづりにして火をつけるなどの抗議も繰り返された。農水省のサムライ京谷昭夫事務次官らが、毎晩のように深夜隠密で記者たちの目をかすめて公邸に打ち合わせに現れていた。

1993年12月14日の交渉期限(日本時間)が迫った同月8日、農業分野のとりまとめに当たったドゥニー議長から、わが国が主張してきた包括的関税化の例外扱いにも配慮して、一定基準の農産物はミニマム・アクセス(最低輸入量)として消費量4~8%の輸入を認めれば6年間関税化をしなくてもよいとの調整案が提示される。わが国としてイエスかノーか難題を突きつけられた。

私がある意味で政治改革以上にこの問題の快着に意を用いたのは、海洋国家である日本にとって、自由な通商の体制を守ることこそ最大の国益であるとの信念に基づくものであった。貿易によって恩恵を受けてきた日本が交渉をぶち壊すようなことは絶対にやるべきではない。

にもかかわらず、野党に転じた自民党は内閣にドロをかぶせて反対と政府の責任追及ばかり。与党第1党の社会党も党内の意見集約が出来ず大混乱状態だった。

官邸では社会党閣僚総引き揚げのときはどうするか、閣議で社会党閣僚があくまで反対したときは罷免して強行突破を図るか、内閣不信任案可決ならば総辞職か衆院解散か、さまざまなケースを想定しながら、時計の針とにらめっこで、騒然とした社会党本部の動向を見守った。私はガットのサザーランド事務局長にこのような国内情勢を説明し、午前3時まで会議の開始を遅らせてもらうよう要請し了解をとりつけた。

午前2時をまわって社会党内は「党としては反対だが、首相の判断を了とする」という立場の使い分けでようやく事態が落着。午前3時過ぎから私が記者会見して調整案の受け入れ決断を表明。コメ開国への歴史的転換が始まった。

宮沢喜一元首相はこの問題をめぐり、報告にきた農水省幹部に「パーフェクトゲーム」とねぎらわれたそうだ。実は9月末には日米間で基本合意ができ、それを多国間合意に発展させることと国内調整が焦点だった。昼夜を分かたず走り回った官僚たちには私も頭が下がる思いだったが、早くから肚を固めていた官邸と関係者が全くぶれずに、政官一体の取り組みができたことが結果につながったのだと思う。

(元首相)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。