細川護熙(26)リーダーの進退

「退を好む者」自ら実践
達成感こそ喜び、政界去る

政治改革の合意成立直後の1994年1月29日、小沢一郎氏に「私の使命は達成した。政権は長きをもって貴しとせず。首相の職をいつ辞めるともやぶさかならず」と私の意中を伝えていたことは既に触れた。結局それから4年間、気が向かぬまま政治の世界に居続け、98年、4党をまとめていまの民主党を立ち上げる大仕事をやり遂げたところで、議員を辞職し政治の世界と縁を切った。

12期8年つとめた熊本県知事を辞した時には「権不十年」といって退任した。「権不十年」とは、権力というものはどんなに健全なものであっても10年たてば腐るということをいったものだ。

首相の職を辞した時も、知事を退任した時も、人からみれば唐突、突然に見えるのが当然で、投げ出したとか、無責任だとか厳しい批判を受けた。しかし、私はいっさい弁解はしなかった。

出処進退についての私の基本的な信念は、リーダーたる者は常に「退」ということを腹中においておかなければならないという一点に尽きる。

宋の名臣たちの功績を集めた「宋名臣言行録」に「人を挙ぐるには須(すべから)く退を好む者を挙ぐべし」とあるが、人を枢要なポストに推挙する場合にはポストばかり欲しがるような人でなく、いつも引き際のことを考えて自ら身を退くことをなんとも思っていない者を推すことが大事だという意味だ。それは人を推す場合よりも、むしろ自分の進退について肝に銘じておくべきことだろう。

会社などでもよくあるのは、社長が「そろそろ自分も後進に道を譲ろうかと思うが、どうかね」と、本心ではそう思ってもいないのに副社長ら幹部に投げかけるケースだ。副社長らは面と向かってそう言われれば「いや、それは社長にはもっと引き続きやっていただかなければ困ります」というようなお追従を言わざるを得ない。社長はまたしばらくポストにとどまったうえ、さらに会長から相談役、顧問まで居座る例はしばしば耳にする話である。

私は自分の出処進退を、ひとに相談したことはいっぺんもない。知事の時も、首相の時も、2日ぐらい前に家内に一方的に通告しただけで、私の気性を知り尽くしている家内も「そうですか」と至極あっさりしたものだった。

私が最も忌み嫌うのは権力のポストに恋々とすることで、「長きをもって貴しとせず」と繰り返し言うのもそのためだ。私は何事かを成し遂げる達成感に喜びを感じるのであって、ポストそのものにはなんの関心もない。

古代ローマが外敵に攻めこまれ全滅の危機にさらされたとき、元老院はこの危機を救いうる人物は川の彼方で農作業をしているキンキナトゥスしかいないとの結論に達し、彼を独裁官に任命して全軍の指揮権を与える。

恐らく彼はそれ以前なにかの折に軍事的才能を発揮したことがあって見込まれたのだろうが、彼はその期待に応え敵を撃破する。ローマは彼の働きで救われた。それを成し遂げたあと、キンキナトゥスは半年の任期をわずか半月で返上してさっさと元の農民に戻ったという。

誠に見事な胸のすく行動ではないか。権力のポストにある者にはこれぐらいのけれん味のない進退こそいちばん望まれるものだと私は思っているのだが。

(元首相)

細川護熙(25)民主党旗揚げ

「政権の選択肢」に執念
退陣後の混乱、罪滅ぼしに

1994年4月25日、細川内閣は総辞職、羽田政権に変わったが、ほどなく、自民、社会、新党さきがけの連立による村山内閣が誕生した。安保や対米政策ひとつとってもあれほど距離のある自社が組んで、社会党の村山富市氏を首班として擁立するなどということは、なかなか思い及ばないことであった。

しかし、社会党はそれによって終わりを迎え、自民党もそれまでの良き保守の誇りを失うことになった。少し長い目で見れば、明らかに衰退の道への始まりだったような気がする。

旧連立与党の側も、いったんは新進党として結集するものの、”秦を滅ぼすものは秦″というように、内部崩壊で分裂していく。94年10月、私は日本新党の解党を党大会で宣言したが、それは日本新党の旗揚げに際し、新党は55年体制にトドメを刺すための時限的なプロジェクト政党であって、それを実現した暁には解党することを公言していたからだった。

私はその党大会で、同志の人たちにこういった。「我々が歴史的な仕事に参画する機会をお互いに持ち得たことは本当に幸福だったと思うし、口舌の輩に向かって『どうだ、やれるものならやってみろ』と胸を張って言ってもらったらいい」と。その模様を伝え聞いた小沢一郎氏らは「自分たちも一度でいいからそんなセリフを曇言ってみたいもんだ」とうらやましそうに語っていたそうだ。

新進党が解体したのは97年暮れ。その後には小沢氏らの自由党、羽田孜氏らの民政党、新党友愛などいくつもの党派ができた。鳩山由紀夫、邦夫兄弟、管直人氏らは旧民主党を結成していた。

参院選が迫る中、私は野党院内会派の民友連の政権戦略会議議長となったが、踊り場政党ばかりではとても選挙は戦えない。なんとか4つの党をまとめねばということで、各党の幹部や労組幹部らを連日説得してまわった。党名が民主党では駄目だとか、菅氏が党の顔なら嫌だとか、そんなことは政権交代実現の大義の前では小さなことだ。

50年代、保守合同のとき、党首選びはもめにもめて結局、民主党の鳩山一郎、三木武吉、自由党の緒方竹虎、大野伴睦の4氏が総裁代行という形で自民党はスタートした。当時の老政客たちの激しいやりとりは浪花節的なところもあるが、社会党統一に対して是が非でも保守合同をという執念が伝わってくる。

新しい選挙制度は、実体的にはきわめて首相公選に近い制度だ。新党であれ、政党連合であれ、問題の本質は、政権の選択肢をつくれるかどうかで、とにかく共同で政権の枠組み、首班候補、主要政策を示さなければならなかった。

細川が指している詰め将棋はしつこいとその当時ずいぶん言われたが、粘り腰で、ついに困難との見方もあった統一新党(現民主党)まで詰めきることができた。

私を調整役として三木武吉翁の役まわりに駆り立てたものは、ただひとつ自らの政権の終わり方と、その後の政治の混乱へのしょく罪の気持ちであった。98年4月末、新しい民主党を立ち上げた直後に、私はずっと懐にしていた国会議員の辞職願を衆議院議長に提出。27年の政治活動にピリオドを打った。

(元首相)

細川護熙(24)連立政権の群像

「二重権力」実相と遠く
誠実・したたか…個性的面々

8頭立ての馬車は、苦労も多かったが、個性豊かな人々との出会いの場ともなった。
副総理の羽田孜氏は、まったく裏表のない、誠実で、人の話にもよく耳を傾ける人だった。連立政権の中枢にいた新生党の小沢一郎代表幹事にも面と向かって、言いにくいことも率直に言っていた。

いまはちょっと語りづらいが、その小沢氏について、マスコミが細川政権の「二重権力構造」などというのは、実相からはかなり遠い。小沢氏といえば、すぐ「強権」などといわれるが、私が知る限り、物事を決めるとき、必ず「あなたの方はそれでいいですか」と相手の判断を求めながら議論を進めていた。

きわめて慎重かつ合理的な考え方をする人だが、物事が自分が思っている方向に進まないと横になってしまったりすることもあって、何回かてこずらされた。

公明党書記長の市川雄一氏は、ものの考え方が誠に論理的で、時によって相手を言い負かしてしまうので、味方にすればこれほど心強い人はいないし、敵に回すととてもやりにくい相手だと思う。律義な性格でまめに報告があり、私を立ててくれた点では一番だった。

小沢氏、市川氏、米沢隆民らと対立したのが、官房長官の武村正義氏だ。ムーミンパパと呼ばれたぼう洋とした風貌と体形に隠された戦略性や行動力は、相当したたかなものだった。

ただ正直いって私にはいまもって理解できないところがある。私とはもともと日本新党と新党さきがけの政治的同志だったが、野党対策の名目で頻繁に自民党と連絡を取っていたことが、与党内で一体どこの官房長官だと警戒を生むことになった。

与党第1党の社会党にはいろいろ手を焼かされたが、委員長の村山富市氏は言うべきことは言うし、なかなかの人物と思っていた。審議のルールにも詳しく「わしらが野党のときは、あんなむちゃはやらなかった」と、自民党の横暴ぶりに憤慨していた。

私に向かって「よく夜中に騒ぐ男じゃのう」と言われたが、それは「おたくの事情でこんな時間になったんですよ。歴史は夜作られるんだから」とよくやり合ったものだ。

書記長の久保亘氏は気骨のあるリベラリスト。何でもすぐ党に持ち帰るというので「社会党の書記長はそんなことも自分で決められないのか」と他党からよく突っ込まれていた。党内右派だったから左派に気を使わざるを得ない立場で苦労されたようだ。

さきがけの園田博之氏は小沢氏と武村氏の間にあってバランスとりに腐心してくれた。実にいい政治感覚の持ち主でいろいろ助けてもらった。〝老中役″の渡部恒三氏は民意を読むことにたけており、ここぞというとき、あの独特の語り口でよく私を励ましてくれた。

官房副長官の鳩山由紀夫氏は官邸のさきがけトリオの一角を占めていたが、武村氏のような政治的行動はなく、見かけ通りの人柄で、私も内輪のような気安さと安心感をもって接していた。真撃に職務に精励していたが、時々、教育的指導で小沢氏にしかられていたようだ。いまもあまり変わりないようだが(笑)、やはり17年の歳月は長い。

(元首相)

国民福祉税構想 – 細川護熙 22

手順誤り「唐突」と批判
不適切だった「腰だめ」発言

1994年2月3日未明、私は消費税を廃止して、税率7%の国民福祉税を創設する構想を発表し、国民から唐突だと厳しい批判を受けた。すぐに撤回を余儀なくされ、政権は大きな痛手を負ったが、私自身、政治的な詰めの甘さがあったことを重々反省している。

この間題は財政再建、高齢化社会の福祉財源、バブル崩壊後の景気対策として各界から要望されていた大型の所得減税の財源確保などが絡んでいて、私は政権発足直後から対応策を模索していた。

政府税調、平岩研究会、羽田孜副総理が座長の経済問題協議会で審議してもらい、私自身も「21世紀ビジョン」で緊急の課題として税制改革について提起した。しかし前提としての行革への強い決意を国民に伝えることができなかった。問題は唐突だといわれた決定の手続きよりも、政策の手順が間違っていたといわざるをえない。

検討の過程で、幾つか傾聴すべき助言をいただいた。宮沢喜一前首相からは、85年のプラザ合意後の不況時に、4ヵ月かかって当時の大蔵省を説得して赤字国債を財源に減税し、景気を回復させて大幅な自然増収があった話をうかがった。

「今度は短時間でやらねばならないから大変だ。今首相がすべきことは、大蔵省を説得するか、押し切るか。大臣に辞めてもらわねばならない事態もあるかもしれない」と言われた。卓見と思い心が動いた。

斎藤次郎次官ら大蔵省幹部には「大蔵省のみ残って政権がつぶれかねないような決断はできない」と、強く言っていた。93年末に小沢一郎氏、市川雄一氏、大蔵省幹郡と協議した際にも、私と市川氏は景気対策の減税と高齢化社会に向けての増税を切り離すことを主張したが、大蔵省は増減税ワンセット諭を譲らず、小沢氏は終始沈黙だった。

そのころ、税に詳しい大蔵省のOBから、年金税のアドバイスを受けた。社会党の村山富市委員長からも、年金税なら党内をまとめられるかもしれないとの感触を得ていた。
1月15日に私は斎藤次官にこの話をして社会党も納得できる形での最終案の取りまとめを指示した。年金の目的税が望ましいが、少なくとも福祉目的を打ち出すようにとも言った。

その公表が唐突な形になったのは、政治改革が予定外の1月末までかかったことによる。2月10日の訪米までに予算の骨格を決める必要があり、政府与党首脳会議などに速やかな審議を依頼したが、全然まとまらない。

結局、また今回も、最終的な決断が私に一任される格好となり、前に大蔵省に取りまとめを指示しておいた案を不完全な形ながらも与党の責任者に提示。さらに私の判断で大蔵案の減税先行2年を3年に修正して深夜の政府与党首脳会議などに提示し、記者会見に臨んだ。

この会見で、私は税率7%を「腰だめ」と述べて批判されたが、実は以前、斎藤次官に大蔵は実のところ何%ならいいのかと問うたのに対し「5%か6%」との答えだった。7%は将来の負担増を見込んでの数字。こうしたことも念頭にあったので、そう言ったのだが、確かに私としては誠に不適切な発言だった。

(元首相)

細川護熙(20)コメ開放

内憂外患薄氷の妥結
「自由貿易は国益」信念基に

政治改革とともに細川内閣が抱えたもう一つの難題は、多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)でのコメの市場開放問題だった。鉱工業、サービスを含む交渉の行方は世界経済発展のかぎとされ、特に農業は貿易障壁の撤廃が強く求められていた。

そういう状況の中で最終合意の基礎となるドンケル案が出されたが、これは農産物輸入の国境措置をすべて関税に置き換えたうえで、徐々にその水準を引き下げていくというもので、わが国としては受け入れがたいものだった。しかし、国際社会では我が国のような主張は少数派で、まさに四面楚歌の状況だった。

特にコメは自給体制堅持の国会決議が3度にわたってなされていたし、与野党の国会議員までが官邸前に寝袋を持って徹夜で抗議集会を開いたりしていた。生産地では、私を模したワラ人形を逆さづりにして火をつけるなどの抗議も繰り返された。農水省のサムライ京谷昭夫事務次官らが、毎晩のように深夜隠密で記者たちの目をかすめて公邸に打ち合わせに現れていた。

1993年12月14日の交渉期限(日本時間)が迫った同月8日、農業分野のとりまとめに当たったドゥニー議長から、わが国が主張してきた包括的関税化の例外扱いにも配慮して、一定基準の農産物はミニマム・アクセス(最低輸入量)として消費量4~8%の輸入を認めれば6年間関税化をしなくてもよいとの調整案が提示される。わが国としてイエスかノーか難題を突きつけられた。

私がある意味で政治改革以上にこの問題の快着に意を用いたのは、海洋国家である日本にとって、自由な通商の体制を守ることこそ最大の国益であるとの信念に基づくものであった。貿易によって恩恵を受けてきた日本が交渉をぶち壊すようなことは絶対にやるべきではない。

にもかかわらず、野党に転じた自民党は内閣にドロをかぶせて反対と政府の責任追及ばかり。与党第1党の社会党も党内の意見集約が出来ず大混乱状態だった。

官邸では社会党閣僚総引き揚げのときはどうするか、閣議で社会党閣僚があくまで反対したときは罷免して強行突破を図るか、内閣不信任案可決ならば総辞職か衆院解散か、さまざまなケースを想定しながら、時計の針とにらめっこで、騒然とした社会党本部の動向を見守った。私はガットのサザーランド事務局長にこのような国内情勢を説明し、午前3時まで会議の開始を遅らせてもらうよう要請し了解をとりつけた。

午前2時をまわって社会党内は「党としては反対だが、首相の判断を了とする」という立場の使い分けでようやく事態が落着。午前3時過ぎから私が記者会見して調整案の受け入れ決断を表明。コメ開国への歴史的転換が始まった。

宮沢喜一元首相はこの問題をめぐり、報告にきた農水省幹部に「パーフェクトゲーム」とねぎらわれたそうだ。実は9月末には日米間で基本合意ができ、それを多国間合意に発展させることと国内調整が焦点だった。昼夜を分かたず走り回った官僚たちには私も頭が下がる思いだったが、早くから肚を固めていた官邸と関係者が全くぶれずに、政官一体の取り組みができたことが結果につながったのだと思う。

(元首相)