津本陽(20)つめ跡

茶店消えて枝に着物
無常観、後に心締め付ける

四回めの爆撃は、どの壕にも入れる余地はなく、私は坂道を下りた右側の大きな池の畔で伏せていた。記憶は空白である。轟音と震動が納まったあと、私ははね起きて、あてもなく走った。四角の穴を見つけた。一辺が二十メートルほど、深さは約十メートル、底辺は十メートル四方ほどの梯形の穴で、工場の資材を疎開させるためのもののようであった。

赤土に雪がいくらか積った穴のなかは空虚であった。頭上で三十機がなぜか旋回して立ち去らないので、私は赤土の斜面を滑り下り、四角に区切られた青空に敵機があらわれると、その姿が見えない向いの斜面のほうへ走る。また敵機が見えてくると、反対側の斜面へむかって走る。敵機が見えると自分が危険にさらされているような気がして、泥にまみれ、穴の底をこま鼠のように走りまわった。

いつのまにか私といっしょに息をきらせ、走りまわる生徒がいた。同級生の土山君である。彼はゲートルの下がなぜか白靴下で、それを泥まみれにしていた。玉津寮に歩いて帰ったのは、三時頃であったか。工場から二キロも離れた寮にも何発か落ち、ポイラーが全壊、食堂が閉鎖され、電灯もつかない。

教師は夕方、私たちを引率して工場へむかう。県道脇でイカナゴと玉葱の煮物を売っていた茶店は吹っ飛び、直径四、五メートルの深い穴ができていた。傍の木の枝に女の着物がひっかかっている。県道と国道の交叉点には爆弾が命中し、小山のように盛りあがっていた。ガスタンクの傍に不発弾を示す赤旗が数本立っており、爆発の危険があるので引き返した。

夜は靴をはいたまま、布団をかぶって寝た。いつ爆撃がはじまるか分からないというの譜ある。翌朝、空腹をこらえ水だけ飲んで工場へむかった。途中で道が混雑し、白木の棺を積んだトラックとすれちがう。蓋の下から屍体の手足がはみだしていた。近くの丘で工員たちが屍体焼却をしており、そこから流れてくる煙のにおいが、脂味の魚を焼くにおいに似て、空腹を刺激された。

工場には屍体処理がすんでいないとの理由で、入れなかったが、藁屑だらけの大きな握り飯一個と佃煮をもらい、空腹をしのいだ。

その夜、父母が玉津寮にたずねてきた。「なんで、こんな危ない所へきたんよ」と私は怒った。父母は餅をたくさん持ってきており、教師や生徒をよろこぼせ、一泊して帰った。

私は爆撃の前日、診療所ビルの二階で、看護師に栄養注射をしてもらった。ガラス窓から日がさしこむ部屋は清潔で暖かかったが、爆撃のあとは瓦礫の山となり、静まりかえっていた。医師たちは全員死んだという。

空襲の直前、私とむかいあい、桶の湯で手をあたためていた逞しい伍長は、防空壕で直撃弾をうけ、コンクリートの壁に幅二十センチ、長さ一メートルほどの灰色の血痕を残しただけで、消えてしまった。

私はその後、電車、自動車の動揺、雷の音響を気にするようになった。その習性は三十五、六歳頃まで続いていた。私の身内には、人の命がいかにはかないものかという無常観が松の磐根(いわね)のようにくいこんでいた。幼い頃の浄土真宗の教えと結びついて、生は一瞬間のことだと自分にいい聞かせるようになった。一瞬間であれば、好きなことだけやればいいと考えるが、人なみの生活を送るためには、嫌なことばかりやらねばならない。成長して、社会に歩みいってゆく私には、常につまらないことをしているという思いがつきまとい、それが長い心の痛みとなっていった。

(作家)

起業の3条件

鎌倉シャツ社長貞末氏

・自分が欲しい物
・市場にはあるが高価な物
・売れ続ける物

カンブリア宮殿 2009年12月14日