話術の達人

◆一口に話術と言っても、講演、座談、話芸とさまざまだが、それらをオールラウンドでこなして名人上手といわれた人に徳川無声がいる。大正から昭和にかけて活躍した、いまでいうマルチタレントのはしりのような人だが、2003年にその著書『話術』(初版は1945年)が新装版で刊行されたところをみると、そこで披渡された話術の要諦は、今なお神通力を失っていないようだ。

◆無声はそこで、聴衆を退屈させず、興味を持続させるには3つの原則があると述べている。
①問のとり方が的確であること。
②声の強弱や明暗が巧みに配置されていること。
③言葉の緩急、遅速が申し分なく調節されていること。無論、話の内容も重要で、内容を練り上げた上でこの三原則を用いれば鬼に金棒、という。

◆この他にも、スピーチやセールストークにも応用できる実際的な手引きがあって、随所に達意を感じさせる。さすがに話術の達人という感が深いが、その極めつけは次の一言。日く「ハナシは人なり」。

◆いくら口先がうまくても、心が醜ければ、それは隠せない。達人への道は、まず己の品性を磨くことから始まるようだ。

◆「心太」と書いて、「ところてん」と読む。この当て字は正倉院文書にあり、古い用字である。古くは「こころぶと」といったが、江戸時代に入ってから現在の「ところてん」というようになった。

◆心太は、天草を煮て、冷やし固めた食品である。「ところてん」のトコロは、凝(こご)り固まるという意味をもつ。山芋の一種である野老(ところ)の根をすっても、すぐに固まりがちなことから凝るといった。煮凍りのコゴリ(凝り)が、ココロ、トコロに転じたものらしい。また天草は、煮膨れて太るからブトともいう。鳥取では、膨れることも、太ることも、フテルという。ところ天・天草・寒天のテンは、フデノ(膨れ)の変化かもしれないとする説もある。

◆冷たい水のなかに入れて冷やしておいたところてんをすくい上げ、「天突き」という道具で容器に突きだす。紐状になったところてんに三杯酢をかけ、和がらしを添えて食べる。透明感があり、っるっとした食感とのどごLがさっぱりしているので、暑い季節に涼を得られる食べ物として人気がある。
夕風や酒の肴のところてん星野麦丘人

◆「ところてん」になぞらえ、押し出されて自然に前に進むことを「ところてん式」という。人間も、ところてんそのもののように、爽やかな後味を残したい。

(三井住友銀行冊子)

加山雄三(8)バンド活動

米軍キャンプで大喝采
演奏と歌声「多重録音の元祖」

大受けに受けて、僕らは仰天した。エルビス・プレスリーの曲を歌うと、米兵が総立ちになった。「君たちは発音がいいな」と褒められ、お世辞でもうれしかった。

慶応大学の仲間で組んだバンド「カントリー・クロッブス」は、ギターが3人、ベース、ドラムにバイオリンを加えた6人編成。僕はギターとボーカルで、ドラマー以外は全員歌えた。ただし米軍キャンプでやったのは一度きり、しかも誰かの代役だった。

活動の場は主にホテルなどで開かれるダンスパーティーで、銀座6丁目の東京温泉前にあった銀星会館の地下貸しホールには週2回ほどレギュラーで出演していた。米軍キャンプでは1万5000円ぐらいもらえたのに、ここではツーステージでたったの500円。ただし飲み食いは無料というのがよかった。バンドで稼いだ資金はスキーの合宿費としてため込んだ。

若い女性客も来たが、どうやらお目当ては僕ではない。カントリー・クロッブスには人気者が何人もいて、注目されていた。僕はその2、その3だった。

スキー合宿で仲間からギターを教わったのが高校1年の冬。最初はアコースティックだったが、大学時代は主にエレキギターを弾いていた。日本にエレキブームが起きるのは7、8年後のことだ。

我が家には、新しもの好きのオヤジが買ったワイヤレコーダーという米ウェブスター社製の録音機材があった。テープレコーダーの前身で、細いワイヤに録音する。西伊豆の加山雄三ミュージアムに展示しているが、近年動かしてみたら、ピアノを弾き語りする僕の歌声が残っていた。大学2年、57年の録音だ。

曲はエルビスの「トリート・ミー・ナイス」。当時大ヒットした「監獄ロック」のB面だ。僕はあまのじゃくなところがあって、B面の曲ばかりやっていた。

オヤジは後にテープレコーダーも手に入れた。僕は2台のレコーダーで実験を始めた。まずギタ」やピアノの弾き萬りを録音する。録音を再生しスピーカーから出る自分の声と演奏に合わせて、もう1台にボーカルを吹きこむ。二重唱に伴奏の付いたテープができあがる。4回やればプラザーズ・フォアになる。

原始的な多重録音だ。僕より若い世代のミュージシャンなら、同じことをやった人は多いだろうが、当時の日本には機材がなかった。国内では「多重録音の元祖は加山雄三」などといわれている。

新潟・岩原スキー場にあった叔父のスキーロッジでも演奏した。石原慎太郎、裕次郎さん兄弟がよく滑りに来ていて、仲良くしてもらった。特にアドリブで武勇伝を面白おかしく語ってくれる裕次郎さんとはウマが合った。

岩原では小島正雄さんとの出会いが大きかった。名門ジャズバンド、ブルーコーツのバンドマスタ」だ。僕らの演奏を聴いた後、にこにこしながら「君は音楽が好きなんだろう」と言われた。「それで飯を食うようにならない方がいいよ。音楽への情熱が薄れちゃうのよね。そうなってもらいたくないからさ」

ものすごく印象に残った。後に「君といつまでも」などがヒットするようになったころ、この言葉が頭を駆け巡った。「おれは音楽が大好きで、趣味でやっているんだ」。自分に言い聞かせた。おかげで音楽への情熱はいつまでも燃え続けている。

(俳優)