小宮隆太郎(31)国際的地位低下

日本の将来「亡国の兆し」
英の教訓に学べ国民奮起を

私は今、日本の将来を憂えている。最近、日本の国際的地位の低下を印象づけられた事例が三つある。

一つ目は11月にワシントンで開催した20カ国・地域(G20)による緊急首脳会合(金融サミット)である。各国首脳の記念写真の前列中央で中国の胡錦濤国家主席はブッシュ米大統領と並んでいたが、麻生太郎首相は隅の隅。

1975年の最初の先進国首脳会議(サミット)に三木武夫首相が出席したとき、日本がG6の地位を占めたのとは隔世の感がある。

二つ目は経済協力開発機構(OECD)諸国の中での一人当たり国内総生産(GDP)の順位で、90年代には日本は2-4位だった。それが最近の統計では19位まで下がっている。

三つ目は経済学の世界の話である。世界の経済学者の人名録である「フーズフー・イン・エコノミクス」に載っている日本の経済学者の数が大幅に減った。英文論文の被引用回数をもとに経済学者を選んでいるが、99年に出た第3版では日本生まれは21人、日本在住は9人だった。2003年の4版では7人と3人に急減している。日本は世界の経済学の潮流から取り残されている。

今日の日本の成長と繁栄は日本人全体で約310人といわれる第二次大戦での犠牲の上に成り立っていると私はしみじみ思う。日本は「神国不敗」「一億総玉砕」を唱え、戦争が長引いた。あまりに犠牲が大きかったために日本は降伏せざるを得なかった。

私の世代は戦争被害は比較的少なかったが、終戦直後はひもじい思いをし、「一度でいいからおなかがいっぱいになるまでご飯を食べたい」と思っていた。30代に子供が3人いたころ、エアコンはなかった。今の世代と比べれば、当時の生活水準ばはるかに低かった。

それでも私の世代は敗戦後のどん底からはい上がり、日本が経済的に繁栄し、国際的な地位が向上することの恩恵を享受できた幸せな世代だった。同じ年代を比べれば物質的には後の世代がずっと豊かだが、経済が成長するいい時代を生きることができた。

これから20年、30年先の日本人はどうだろうか。日本の出生率はこの10年で大きく低下したが、人口減少への危機意識は高まっていない。過疎は深刻化し、国の財政も悪化している。国債の格付けが下がってその金利が上がれば、日本のトップクラスの企業が外国へ脱出する恐れがある。優れた学者や大志を抱く若者たちは、外国の大学に「頭脳流出」するだろう。私はこのような「亡国の兆し」を放置してはならないと思う。

70年代の英国では産業や社会の横造転換が遅れ、大量の失業に直面し、「英国病」の患者といわれた。ところがサッチャーからプレアまで、わずか3人の首相が28年間を統治し、英国経済は蘇った。この間の日本では自民党の派閥と与野党は政策よりも「政局」に明け暮れ、15人が首相になった。平均在任期間が英国の5分の1なのだ。

中長期的な視野で「亡国の兆し」に対処して国民が奮起しなければ、日本の将来に明るい展望を描くことはできない。

(日本学土院会員)

小宮隆太郎(30)日銀批判と反論

ゼミ仲間同士で論争
白川氏と相談し擁護論展開

私は、マクロ経済隈題、税制、貿易、国際金融、産業政策、独禁政策、公共部門のスト権の問題等々、「応用経済学」の様々な分野に関心を持ってきた。「器用貧乏」と椰輸されたこともある。

金融政策も私が長年にわたって関心を持ち続けた問題の一つである。私は日銀のエコノミストたちと真っ向から対立して論争したことが何回かあった。

一回目は一九六〇年代前半の吉野俊彦環との論争である。当時の私はマクロ経済と国際金融関係は万事、ケインズ的に考えていた。他方、吉野氏は金本位制主義だった。

J・M・ケインズにとって、金本位制は「大嫌いなもの(betenoire)」だったが、吉野氏にとりケインズとケインズ経済学は、”betenoire”だった。生意気な若造であった私を相手に議論に応じてくれた吉野氏に、私は深く感謝している。しかし、基本的な経済哲学が違っていた。

二回目は「七三-七四年の大インフレーションは日銀が起こした」という趣旨の七六年の論文で金融政策を厳しく批判した。当時の日銀幹部が田中角栄首相の「日本列島改造論」に遠慮して金融引き締めが遅れ、マネーサプライが膨張して石油危機以前に大インフレが始まったと私は論じた。

三回目は七七年以降の私に対する外山茂理事(当時)の厳しい批判と、私の反論である。「日銀派」を代表する外山氏は、欧米の標準的な金融理論以前の古い考え方で、手品のように恒等式から様々な結論を導くが、私にはその論理が分からなかった。

八〇年代後半から九〇年代初めにかけての「バブル」現象についても、日米経済摩擦のもとで日本の黒字をさらに増やす恐れのある金融引き締めを日銀がためらったことが一因であると私は考えた。

しかし、政治・行政からの独立性を大幅に強化した新日銀法が九八年に施行された後の日銀の金融政策は、「百点満点に近い」と私は述べた。

これに対し、今度はかなりの人数の経済学者が反発した。要するに「もっと早くゼロ金利にしろ」とか「為替介入の効果を『不胎化政策』で減殺するな」という主張だ。私が大学院で指導し共著もある岩田規久男さんや、かつての東大の同僚の浜田宏一さんが一番厳しかった。ゼミOBの山本幸三衆院議員も日銀叩きで名を馳せてきた。

私はあまりにも「日銀バッシング」がひどいと感じ、白川方明さん(当時日銀企画室審議役)と相談して八代尚宏さん(同日本経済研究センター理事長)にお願いして、討論の場を設定してもらった。論争は「金融政策論議の争点」という本になった。同書には小宮ゼミ仲間が日銀批判と反論の両方覚何人も登場した。

日銀の政策委員会や支店長会議の写真で、小宮ゼミOBの白川総裁と大学院で教え「現代国際金融論」の共著者でもある須田美矢子委員の二人のお姿が並んでいるのを見ると、私は不思議な気持ちになる。

私はいつも始まりは「少数派」であり、今もその気持ちは変わらない。しかし、しばらく前にマル経の若い人に「小宮さんこそ多数派でしょう」と言われて驚いた。「多数派」と言われるということは、もうあまり斬新な意見を述べる舞台には登場しないということで、現役ではなくなったわけであろう。

(日本学士院会員)

小宮隆太郎(29)日銀批判と反論

ゼミ仲間同士で論争
白川氏と相談し擁護論展開

私は、マクロ経済問題、税制、貿易、国際金融、産業政策、独禁政策、公共部門のスト権の問題等々、「応用経済学」の様々な分野に関心を持ってきた。「器用貧乏」と揶揄されたこともある。

金融政策も私が長年にわたって関心を持ち続けた問題の一つである。私は日銀のエコノミストたちと真っ向から対立して論争したことが何回かあった。

一回目は1960年代前半の吉野俊彦氏との論争である。当時の私はマクロ経済と国際金融関係は万事、ケインズ的に考えていた。他方、吉野氏は金本位制主義だった。J・M・ケインズにとって、金本位制は「大嫌いなもの(betenoire)」だったが、吉野氏にとりケインズとケインズ経済学は、”betenoire”だった。生意気な若造であった私を相手に議論に応じてくれた吉野氏に、私は深く感謝している。しかし、基本的な経済哲学が違っていた。

二回目は「73-74年の大インフレーションは日銀が起こした」という趣旨の76年の論文で金融政策を厳しく批判した。当時の日銀幹部が田中角栄首相の「日本列島改造論」に遠慮して金融引き締めが遅れ、マネーサプライが膨張して石油危機以前に大インフレが始まったと私は論じた。

三回目は77年以降の私に対する外山茂理事(当時)の厳しい批判と、私の反論である。「日銀派」を代表する外山氏は、欧米の標準的な金融理論以前の古い考え方で、手品のように恒等式から様々な結論を導くが、私にはその論理が分からなかった。

80年代後半から90年代初めにかけての「バブル」現象についても、日米経済摩擦のもとで日本の黒字をさらに増やす恐れのある金融引き締めを日銀がためらったことが一因であると私は考えた。

しかし、政治・行政からの独立性を大幅に強化した新日銀法が98年に施行された後の日銀の金融政策は、「百点満点に近い」と私は述べた。

これに対し、今度はかなりの人数の経済学者が反発した。要するに「もっと早くゼロ金利にしろ」とか「為替介入の効果を『不胎化政策』で減殺するな」という主張だ。私が大学院で指導し共著もある岩田規久男さんや、かつての東大の同僚の浜田宏一さんが一番厳しかった。ゼミOBの山本幸三衆院議員も日銀叩きで名を馳せてきた。

私はあまりにも「日銀バッシング」がひどいと感じ、白川方明さん(当時日銀企画室審議役)と相談して八代尚宏さん(同日本経済研究センタ一理事長)にお願いして、討論の場を設定してもらった。論争は「金融政策論議の争点」という本になった。同書には小宮ゼミ仲間が日銀批判と反論の両方に何人も登場した。

日銀の政策委員会や支店長会議の写真で、小宮ゼミOBの白川総裁と大学院で教え「現代国際金融論」の共著者でもある須田美矢子委員の二人のお姿が並んでいるのを見ると、私は不思議な気持ちになる。

私はいつも始まりは「少数派」であり、今もその気持ちは変わらない。しかし、しばらく前にマル経の若い人に「小宮さんこそ多数派でしょう」と言われて驚いた。「多数派」と言われるということは、もうあまり斬新な意見を述べる舞台には登場しないということで、現役ではなくなったわけであろう。

(日本学士院会員)

小宮隆太郎(27)前川リポート

米国への恭順露骨に
「黒字減らす」は見当違い

東大医学部教授だった沖中重雄氏は1963年の最終講義で自分の「誤診率」は14.3%だったと率直に語った。

私自身の誤診率はどれほどだろうか。経済問題に関する発言での成績で言えば「クンロク大関」より少しましな九勝三敗三分けぐらいか。

「引き分け」は、私も相手も「自分が勝った」と考えているケースである。86年の「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」(前川リポート)は私の批判の相手方がまだ自分たちは正しかったと思っているので「引き分け」に入る。

例えば、加藤寛氏は「私の履歴書」で前川リポートを「空想画」と批判した私に対して「批判者のように経済学の世界に閉じこもって、どうして政策論がでてくるのかが分からない」と反論している。

金森久雄氏も同欄で「これがその後のバブル経済のもとになったという批判もある。

恐らくそれは正しくない」と書いた。私は日本の黒字を減らすための放漫な金融政策や、日米構造協議で政府が対外公約した「公共投資430兆円」がバブル経済の背景になっていると思う。

私に言わせれば「前川リポート」は、中曽根康弘首相が訪米してレーガン大統領に会うときに、「恭順の意」を表すためにアメリカ側が気に入るようなことを書いて持っていったという感じである。同リポートに対して、C・ヤイター米通商代表は「首相が訪問国の喜びそうな報告を発表するのは日本のいつものやり方だが、危険なゲームだ」と批判した。書いてある中身も経済学的な批判に堪えない間違ったことばかりだ。

まず、「前川リポート」は日本の黒字は、自動車の輸出を減らし、石炭の輸入を増やすことで部分的に直せると考えている。国際収支に関するマクロ経済学をまるで理解していない。

次に「経常収支の黒字が申し訳ない」という発想だ。歴史的に考えると、イギリスは大英帝国と呼ばれた時代に今の日本とは比べものにならない膨大な経常収支の黒字を出している。その黒字を対外投資に使って大英帝国のみならず世界中に資本を供給した。

資本の余っている国が資本を供給して世界全体が発展するのは自然である。

国際法的には、国際通貨基金(IMF)協定上、黒字国が黒字を減らさなければならない理由は一切ない。赤字国で外貨準備が減れば赤字を減らす努力をしなければならないだけのことである。

前川リポートは「経常収支の黒字を減らす」一方で「対外援助を増やそう」と言う。だが、対外援助を増やせば経常収支の黒字は増える。国際収支の複式簿記を理解していないのだ。

政治学的には、国際政治、外交の基本は、主権国家は対等だということだ。各国内の自由民の「人格の対等」と同じである。

サンフランシスコ講和条約に調印した後、吉田茂首相は日本の外務省とGHQが相談して作った英語の原稿を読むことになっていた。これに白洲次郎氏は「日本は戦争に負けただけで奴隷になったのではない」と、非常に憤慨した。そして急きょ、日本語の原稿を日本側だけで作り、巻紙に墨でしたため、吉田首相は羽織袴で日本語でスピーチをした。日本が米国に「恭順の意」を示す前川リポートの姿勢が、私には耐えられなかった。(日本学士院会員)

小宮隆太郎(15)積極的に発言

所得倍増に楽観貫く
「国際収支の天井」存在せず

米国留学から戻った私は「あかんたれ」が吹っ切れた。物おじせず、誰に対しても遠慮なく、積極的に発言するようになった。

1960年12月、池田勇人内閣が「国民所得倍増計画」を決定した。「所得倍増は可能か」。当時、ほとんどの経済学者・エコノミストは「所得倍増」の「高度成長」は難しいという悲観論だった。楽観派は大蔵省出身で所得倍増計画の生みの親の下村治氏以外はごく少数。所得倍増計画発表後の「エコノミスト」誌連載の座談会で楽観派は東大の数年先輩の内田忠夫さんと私だけだった。

私は経済成長の問題はR・ソロー流に考えていた。ソローはマサチューセッツ工科大(MIT)教授で、私は在米中に何度か話をしたことがあり、後にノーベル賞を受賞した。「経済が成長するのは三つの要因による。一つは人口あるいは労働力の増加。もう一つは実物資本、つまり耐久生産財の蓄積。三つ目は技術の進歩」という、「総生産関数」に基づく考え方である。私は分かりやすい自然な考え方だと思ったが、日本にはそういう考え方はなかった。

当時の日本は「労働」の供給に余裕があり、貯蓄率が高く「資本」の供給も豊富だった。「技術」も欧米へのキャッチアップの余地が大きい。私は日本の経済成長率は高くなって当然だと考えた。

悲観論者はどう考えたか。当時、学界の多数派のマルクス経済学の人たちは、「資本主義は行き詰まる」というのが基本的な見方だった。

経済の歴史には発展段階があり、奴隷制から封建制に至り、資本主義、帝国主義、独占資本主義を経て、プロレタリア革命によって社会主義に至る。そして資本主義は1930年代に「一般的危機の時代」に入ったとされていた。それが順調に発展するはずがないと考えられていた。

また国際収支面からの悲観論も有力だった。「成長率が高いと日本経済は『国際収支の天井』にぶつかって国際収支が赤字になり、赤字抑制のために財政・金融の引き締めが必要となり、高い成長率は続かない」と主張した。

私はかなりの時間を注いでこの「国際収支と経済成長」の問題に取り組んだ。そして「天井は存在せず、国際収支の面から一国の経済成長が制約されることはない」という考えを「国際収支に関するマネタリー・アプローチ」という論文にまとめた。

国際経済関係のない閉鎖経済のインフレ・デフレの現象と、国際取引のある開放経済の国際(貿易)収支の問題とは、よく似ている。経済全体としての総供給能力以上のスピードでマネーサプライが増えれば、前者ではインフレ、後者では貿易赤字が生じる。逆であれば前者はデフレ、後者では国際収支の黒字が生じる。これが国際収支の簡潔なマクロ経済学的な理解である。

この論文は六九年にシカゴ大学から出ている学術誌に発表された。戦後の日本、西独やその後の韓国、最近の中国などの経験に照らして、今日でも基本的に正しいと考えている。私は経済理論の「作り手」ではなく、ほぼ一貫して理論の「使い手」として仕事をしてきたが、この論文は国際経済学の理論面で多少とも有意義だったと思う。