田淵節也(24)金融再編にはかかわらず

バブル崩壊
「海の色が変わった」

「海の色が変わった」という株式相場の暴落を予言した僕の発言が一部で話題になったのは一九八九年と思う。

発言の裏には実話がある。関東大震災の直前、房総半島に避暑に来ていた金持ちが、海水の色がいつもと違うのに気づいた。不吉な前兆と思って東京に戻り、大事な物をまとめて安全なところに避難して、被災を免れたという。

日経平均株価が二万円、三万円を超えて上昇する間、僕は弱気だった。「野村証券の会長が弱気では商売に障る」と言うので社内で問題になったこともある。株式市場には「掉尾(とうび)の一振」という言葉がある。「最後に一段高があり、儲ける機会を逃す手はない」という意見が大勢を占めると、僕も自信がなかった。

九〇年の年初から株の暴落が始まり、土地も実勢価格は同時に暴落した。まず証券会社がやられたが、日本のバブルの本質は土地本位制の金融だったから、土地担保融資が焦げ付いた銀行の不良債権が本丸だった。証券会社が自分でリスクを取る時は逃げ道を作っておく。銀行は逃げられないから政府に頼らざるを得ず、合併に追い込まれた。

野村は、銀行を真似て不動産融資をした傘下の野村ファイナンスの処理で傷を負う。約七千億円に上った損失は野村の自己資本のほぼ半分に相当した。「半分もドブに捨てたと思うか、半分は残ったと思うか」だが、早く始末を付けて良かったと思う。

九六年の暮れに政府が「金融ビッグバン」を宣言して、日本は岸信介元首相以来の統制経済と決別した。金融市場の実態は既に先行しており、大蔵省の手に負えないことがはっきりしたということで、遅きに失した感がある。九七年の山一証券の自主廃業を知った時、僕は既に野村から完全に離れていたが、意外感はなく、驚かなかった。

銀行の経営不安が高まると再編や救済の話が飛び交い、真偽はともかく、僕のところに伝わってくる話もあった。兄弟会社の大和銀行は信託分離を拒否し続けた頑張り屋だ。長い付き合いの安部川澄夫君から相談事のようなものはあったが、とても野村が受けられるような話ではない。そのほかにも銀行の救済を打診された気がするが、野村はいずれも受けていない。

大和銀行は三光汽船の破綻処理で野村の株を売っていた。将来、何が起きるか分からないと思った僕は、野村と大和銀行が共同で管理していた京都の野村別邸(碧雲荘)が人手に渡らぬように手を打っておいた。碧雲荘は昨年、重要文化財に指定された。

いずれにせよ、僕は銀行に全く興味がなかった。米国を見れば分かるように、銀行が証券会社を買うことはあっても、その逆はない。証券会社に将来はあっても、銀行に将来はないからだと思う。

その後、野村が日本興業銀行と提携した時、直感的に「うまくいかない」と思った。その時の興銀の西村正雄頭取は立派な人で個人的に尊敬していたので、早く亡くなられたのは残念だった。しかし、両社の体質は著しく異なっており、提携は興銀の再編で数年もたたずに解消した。

今振り返って、内部留保を溜めすぎるのは考えものだという思いがある。最近、野村ホールディングスの古賀信行社長に会った時、「これからの経営は、利益は配当で吐き出し、利益が出なくなったら社長が替わればいいんじゃないか」と言っておいた。

(野村証券元会長)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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