田淵節也(20)自由化前夜

潰れた信託合弁構想
時には政治・外圧に訴える

僕が社長時代、野村証券が世間を騒がせた事件に、中期国債ファンドと、米モルガン・ギャランティとの合弁信託会社設立構想があった。

中国ファンドは既に触れた。定期預金と競合する商品を証券会社に認めるのは大事件だが、国債の消化に汲々としていた大蔵省は何とかなった。問題は銀行だった。

当時の全国銀行協会会長が野村と親戚付き合いにある三井銀行の関正彦社長だったので、「三井と野村の密約」「三井は野村に騙された」などという批判が起き、行政を通じて様々な制約を押しつけてきたのにはあきれた。歴史の必然が生んだ商品への反応は、日本の金融界の性格をよく表していたと思う。

一九八三年、日経新聞がすっぱ抜いた「野村・モルガン合弁」は大蔵省の反対で潰れたが、外国銀行の信託業務参入や国内の投資顧問業の一任勘定認可のきっかけになることで、資産運用の時代の幕開けを告げる出来事だった。

野村グループにとって、資産運用の受け皿である信託業務は本業であり、悲願であり、鬼門でもあった。兄弟会社の大和銀行(現在のりそな銀行)は都市銀行と信託銀行を分離する戦後の政策に反して信託業務を手放さず、行政面で冷や飯を食わされ続けた。

一方の野村は五〇年代に信託銀行設立に動いた。横やりが入り、妥協の産物としてできたのが三和銀行や神戸銀行む相乗りの東洋信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行)だ。東洋信託には野村から相当数の社員が移籍した。僕と同期入社で評論家として知られる神崎倫一君もその一人だ。

投資銀行業務で当時ナンバーワンのモルガンの狙いは日本の金を取り込むことだと分かっていた。僕は野村の悲願成就と日本の金融のゆがみを正す一石二鳥の機会と思い、申し出に乗ることにした。

野村とモルガンで仮調印をしたのは日米摩擦が高まり、「日米円・ドル委員会」で外圧による金融自由化が始まる直前で、レーガン大統領の来日が決まったころと思う。

「米国の自由化要求への回答にもってこい」というので、竹下登大蔵大臣の了解も取り付けたが、頭越しされた格好の大蔵省の反発で日の目を見なかった。「野村はやり過ぎだ」という大蔵省次官OBの声が僕の耳にも入った。

もし実現し、事業がうまくいかなければ、米国はしたたかだから、野村は大損を押し付けられていたかもしれない。そう思えば、良かったのか悪かったのかは分からない。

「野村は政治を使う会社」と世間から見られている面があることを承知している。戦後の初代社長の奥村(綱雄)さんが池田勇人首相と肝胆相照らす仲だったのは有名だし、歴代の社長、会長が政治家とパイプを作ってきたのも事実だ。僕自身、中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一の歴代首相をはじめとする政治家とそれなりのお付き合いをした。

野村が時に政治や外圧に訴えたことを否定しない。しかし、それは証券市場や証券界、ひいては日本の金融が在るべき姿から程遠く、大蔵省や銀行に比べ、証券業界の地位も力も極端に低くて話にならず、無力に等しかったからだ。中国ファンドも信託合弁も、当たり前のことが当たり前でなかった時代の思い出だ。こうしたことがスムーズに実現していれば、日本の金融の構造改革は十年は早まったと思う。
(野村証券元会長)

About sayfox
Bubbles of river disappear rapidly.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。