田淵節也(10)本店営業部

経営者の相談相手に
「ノルマ証券」の異名は嫌い

1954年、僕は東京の本店営業部に異動になった。高度成長が始まる前だが、財閥解体後の証券民主化運動などを経て株式投資も始まり、仕事は忙しくなっていた。

僕は岸信介首相が嫌いだった。60年の「安保闘争」は単なる左翼の運動というよりも、資本主義なのに統制経済をやろうとする矛盾の爆発だったと思う。池田勇人首相の「所得倍増」路線は、その矛盾を覆い隠すものだったのではないか。僕は当時流行した「銀行よさようなら、証券よこんにちは」という宣伝文句も好きではなかった。

創業者の野村徳七さんは株で大儲けをした人だが、相場の怖さを知っていたのだろう。戦前は野村証券に株を扱わせなかった。戦争で債券の商売ができなくなり、仕方なく株を扱う時も引受から始めた。戦時中に初めて投資信託を売ったのは野村だ。野村は敗戦でボロボロになった「二割損失補償付き」投信を約束通り償還したが、インフレに救われたのだと思う。

戦後の投信再開は51年。戦後初代の奥村綱雄社長がGHQ(連合国軍最高司令部)に掛け合って認めてもらったぐらいだから野村は投信が好きだった。投信を定期預金の感覚で買ってもらうために「証券貯蓄」という言葉を作り、セールスマンが「百万両貯金箱」を配って歩いた。

僕は貯金箱は単なる象徴にすぎないと思っていた。「ピース一箱で株が買える」と同じで、コストを考えれば間尺に合わない。実際、自分のロッカーに貯金箱を積み上げている者も少なくなかった。

証券会社の営業は、昔も今も人間関係だと思う。新規開拓も得意先が紹介してくれるのが一番効率的で確かだ。自分を信頼してもらい、売り込む以外ない。株が好きな人は中小企業の経営者に多い。信用を得て大きな注文をもらうには、銀行に借金する時の担保や個人保証から税金に至るまで、相談相手になってアドバイスする必要がある。

野村は「課長は係長に権限を下ろして部長の仕事を、部長は課長に権限を下ろして取締役の仕事をしろ」という会社だ。僕は手取り足取り教えられなかったし、教えもしなかった。育つ奴は勝手に育ち、ダメな奴はダメ。血気盛んな当時はそう思っていた。

野村は既に「ノルマ証券」の異名を取っていたが、瀬川さん(美能留元会長)の影響だろう。瀬川さんは「稼げない男は無価値な人間」という主義の「断固として物を売る」のが好きな人で、徹底していた。僕は「ノルマ証券」という言葉が嫌いだった。

もっとも、無理やり働かされていると思うと癪に障るが、ノルマがなければハッピーかどうか。案外、「あの時はしんどかったな」と言って思い出すのが楽しみかもしれず、人間なんて何が幸福か分からない。

本店営業部には凄腕のセールスマンがいた。「営業の神様」と言われた佐藤繁雄君は若くして亡くなったが、毎朝九時に会社を出て馬喰町や横山町の問屋街を回り、大きな注文を取ってきた。僕は東京駅前の丸の内支店にも席を持っており、そこに夕方五時に必ず立ち寄って得意先に電話していたのが後に副社長になる豊田善一君だ。本店で黒板に株価を書き入れていた山本陽子君は意欲的な女性で、頑張って女優になった。

(野村証券元会長)

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