田淵節也(29)再度・海の色

「アメッポン」行く末は
世の中変わる、不変の真理

バブルが弾ける直前に、僕は株式相場の潮の変わり目を直感して「海の色が変わった」と発言したことを書いた。今、その時感じたのと同じような胸騒ぎを覚える。

「アメッポン」人アメリッポンと言う人が多いが、僕はアメッポンを使う)と言われる日本は米国に振り回されてきた国だ。その米国が今また、大きく変わる節目にあるような気がしてならない。

来年の大統領選挙で優勢を伝えられる民主党候補が勝てば、イラク戦争への厭戦気分が一段と高まり、中東情勢は混沌とするのではないか。

軍事力に翳りが出れば、ペーパーマネーのドルの信認が低下し、米国は金や原油、穀物などの実物資産を裏付けとする新しい通貨制度を考え出すのではないかと思う。

そうなれば、金本位制が「ドル紙幣本位制」に変わって以来の大変化だ。世界中が混乱し、アメッポンの日本は一番大きな影響を受ける。既に、政界はざわついてきた。

僕は安倍晋三前首相のお父さん(安倍晋太郎元外相)と親しかったが、安倍さんが総理になった時、「蒸留水しか飲んだことがない人は持たないのではないか」と思った。小沢一郎さんが天下を取るのか、小泉純一郎さんが再登場するのかは分からない。いずれにせよ、日本の政治も大揺れするのではないか。

高度成長期以来、ぬるま湯につかってきた日本は、久しぶりに大激動の時代を迎えることになるように思う。

僕は日本の将来を悲観も楽観もしていない。日本は世界屈指の豊かな国だ。「職人国家」としてそれなりのステータスを保っていけると思うから心配していない。最近、円高を歓迎するようになったのは進歩だと思う。もっとも、軍事力も持たずに「金融立国」の幻想を抱いている人は幻滅するかもしれないが……。

「履歴書」を書く機会を与えられ人生を振り返っても、僕の人生なんて波瀾万丈には程遠く大したことはない。

改めて人生観を自問すれば、「人間は太古の昔から同じことを繰り返している動物」ということだ。人生は思った通りにならない。それは残念なことだが、だから人生は面白いのであり、結果的にハッピーなのではないか。

「人間三代でチャラ」とはよく言ったもので、いい事ばかりは続かないし、悪い事ばかりも続かない。人間、何が幸せで何が不幸か、本当のところは分からない。それもまた人生の面白いところだ。人間は変わらないが、世の中は変わる。これが実感であり、不変の真理なのだと思う。

長年連れ添った妻の四方子には感謝している。僕は息子の家族とは別所帯だが、妻は誰よりも、孫がかわいい。美味しい物はまず孫からで、僕は二の次だ。それが我が家の幸福につながるのだから、結構なことだと思っている。

紙幅も尽きた。かなうのならば、二つ望みがある。もう少し生きて世の中の変化を見届けたい。そして、もう一度見てみたいものがある。

それは確かブラジルの港町サントスの海岸で見た光景だったと思う。沈む夕日を背に、奴隷の子孫の黒人が跪き、先祖の故郷アフリカに向かってお祈りする姿に、ただ、感動した。理屈でなく、見る人の魂を揺さぶる一幅の絵か写真のように心に焼き付いて離れない光景だ。

(野村証券元会長)
=おわり

田淵節也(28)笹川平和財団

「清濁併せ呑む」器量
育っていい寄付の文化

僕はヂーゼル機器の株買い占め事件で知り合った笹川陽平君(日本財団会長)に頼まれ、一九八六年から笹川平和財団の会長をしている。当時は野村証券の会長だったので、瀬島龍三さんに頼みに行くと「田淵君、君がやればいい」と言われた。「無給」が条件というので引き受けた。

平和財団は陽平君のお父さんの笹川良一さんがつくった日本船舶振興会(日本財団)関連のNPO(非営利組織)だ。日本最大級の約八百億円の基金をもち、アジアを中心に非営利の組織や団体の国際交流活動を資金面で支援している。笹川さんが会長職を「無給」にしたのは、有給だと役人が天下りポストにするのを阻むための知恵だろう。

競艇の利権を握る船舶振興会は笹川さんが右翼の大物だったこともあり、世間から得体の知れない団体と見られている。ギャンブルの上がりを資金源にしているが、造船会社への低利融資や学術研究、ボランティアヘの支援など結構いいことをしている。

作家の曽野綾子さんが、やはり無給で日本財団の二代目会長に就任した時、聖書の言葉を引用して「仮に金の出所や動機が不純でも、その金をどう使うかが大事」と言ったのに僕も同感だ。日本は何でも税金で召しあげて役人が金の使い道を決める国だが、寄付や慈善事業など、民間が自分で金の使い道を選択する文化が育っていいと思う。

笹川さんと、そもそもの関係はない。一度だけ、中国に一緒に行ったことがある。八八年に、国連で日本の応援団を増やそうというので、笹川さんが太平洋の島国の元首をはじめ要人約二十人を東京に集めて国際会議を開いた時、手伝いをした。招待客に希望を聞くと、皆「万里の長城が見たい」と言う。引率して行ったのが笹川さんだ。

中国政府は国賓待遇で迎え、僕たちを釣魚台の迎賓館の貴賓室に泊めてくれた。豪華な朝食を前に、羽織袴の笹川さんは「生卵はあるか」と言い、ご飯に生卵をかけてかき込むと「ああ、うまかった」と言ったのを覚えている。

平和財団の活動が縁で、僕は北京大学の顧問教授を頼まれ、九六年から計六回、特別講義をするために中国を訪れた。発展著しいアジア経済の分析を中心テーマとし、アジア地域の統一通貨の重要性を強調した。北京大学の学生だけでなく、教授連中が大勢聴きにきて質疑応答もやるので準備が大変だった。

顧問教授は名誉ある肩書でどこへでも好きなところに連れて行ってくれ、訒小平氏にも何度か会った。実力者の部小平氏は「黒猫でも白猫でも鼠を捕る猫がいい猫だ」と言い放ったので有名だ。僕の印象では政治家というよりも、経営者に近い気がした。

人間の器量の大きさを指す「清濁併せ呑む」というのは好きな言葉だ。世の中には善い人間もいれば、悪い人間もいるが、本当に判別できるものなのか。何が清で、何が濁か、人間には分からない。神様だけがご存じで、評価はうんと後になってから分かる。

昔、運動選手は水を飲むなと言われたが、今はどんどん飲めというように変わった。奇麗事では商売にならず、奇麗事そのものも変わるから、奇麗事では誤魔化せない。ゴタゴタするとその時は嫌だなと思うが、振り返るとそれが人生で、そういうことが楽しかったのだろうと思う。人間、八十歳になると、そう思えてくる。

(野村証券元会長)

田淵節也(27)米・中・ブラジルに魅了され

大国の友人
ボルカー、汪、ウエキ・・・

島国の窮屈な金融の世界に息が詰まる思いをしたせいか、僕は大きな国が好きだ。

野村証券は昔から米国の有力者とパイプを作ってきた。僕の生涯の友達はFRB(連邦準備理事会)の議長を務めたポール・ボルカー氏だ。米国の証券会社の友人が「誰でも紹介してやる」と言ってきたので財務省の役人だったボルカー氏を指名した。彼らは体の不自由な子供を持つ親同士で親しかったようだ。ボルカー氏は二?はある大男の秀才だが、何となく気が合い、何でも話せる間柄だ。竹下登元首相が大蔵大臣の時、二人を引き合わせたこともある。

リップルウッドが日本長期信用銀行を買収して新生銀行に衣替えした時は「成功するだろうか」と聞かれ、「日本で信用あるあんたが絡んでいるから成功すると思うよ」と答えた。数年前、朝食を奢ってくれて「八城政基新生銀行社長とカルロス・ゴーン日産自動車社長はどっちが偉いか」議論になった。僕は「国の支援なしでやったゴーンの方が偉い」と言ったが、彼が何と言ったかは忘れた。

中国との縁も古い。一九八〇年ごろ、「赤い資本家」と言われた栄毅仁氏(元国家副主席)に「清国以来外債発行の経験がないので教えてほしい」と頼まれ、野村が外債発行の辞書のような物を作り、中国国際信託投資公司の百億円の円建て外債の幹事をやって感謝された。その後続出した投資公司の走りだ。人民服と自転車の時代に、彼は背広にネクタイでクライスラーの大型車を乗り回していて、「こんなことが共産党であるのか」と思った。

江道涵上海市長が「ホテルをつくらないか」と言ってきた時は「野村だけ」という話だったので感激したら、次々にホテルができて驚いた。合弁事業の回収計画作りに手間取ったものの、中国は大人の国で共産党でも話せば分かる。上海ガーデンホテルは大成功を収めたが、よく見ると必ず向こうが少しだけ多く得をするようになっているのは四千年の歴史のなせる技か。

上海の合弁事業には思い出がある。北裏喜一郎元会長が病床で意識も薄れたころ、僕は見舞いがてら「中国に五十億円投資します」と報告すると、北裏さんの目が輝いて、「一ケタ違うのではないか」と言われた。北裏さんは間もなく亡くなったが、中国の発展を見るに付け、凄い先見性だったと改めて思う。

ブラジルは、戦前の日本人移民の悲惨な境遇を知った創業者の野村徳七が同胞を助けるため、私財を投じて農場をつくった歴史がある。その後、野村が山手線の内側ほどの広さの農場(ノムラブラス)を開設した際、瀬川美能留元会長と現地を訪れて以来、病みつきになった。

何度か訪れるうちに、日系人の大臣(鉱山動力相)、シゲアキ・ウエキさんと昵懇の関係になった。ウエキさんはサトウキビからつくるエタノール燃料の元祖として有名だ。もう一人の友人、サンパウロ大学の二宮正人教授は東大で講義をしに来日するたびに訪ねてくれる。僕が野村を完全に辞めた時、彼の誘いでアマゾンの奥地にまで足を伸ばしたセンチメンタルジャーニーは楽しい思い出だ。

ブラジルでは定期便が定刻通り飛ぶのは希だが、プライベートにチャーターした小型機を使えば、タクシーのようにどこへでも運んでくれる。おおらかでこせこせしないところが気に入っている。

(野村証券元会長)

田淵節也(26)ロッキード裁判、情状証人に

交友
藤沢氏に学ぶ「鈍」の心

証券会社の顧客は多種多様にわたるので、親しく交わった人は数え切れない。

今年亡くなった平岩外四元経団連会長とは、東京電力の総務部長の時代からのお付き合いだった。僕が幹事になり、日立金属の河野典夫元会長、明電舎の今井正雄元会長と平岩さんを囲む「四人会」は二十年以上続いた。

最後にお会いしたのは亡くなる二十日前。吉兆で平岩夫妻にご馳走になった時、車椅子を乗り換える際にしくじって足の骨を折られたのがいけなかった。気が合うというか、平岩さんと一番親しかったのは僕ではないかと思う。僕は「証券不祥事」で、経団連会長だった平岩さんの気持ちを察して自ら経団連副会長を辞めたが、事実上の「解任」と言われても仕方ない。

ソニーの盛田昭夫元会長も公私にわたる付き合いだった。経団連会長に内定してからも精力的に宴会をこなす盛田さんに、「一番偉くなったのだから少し休んではどうか」と言った直後に倒れた。

病院に見舞うと目がトロンとして「危ない」と思った。やはり見舞いに行った立花証券の石井久元会長も同じ意見だった。意外だったのは、ソニーと野村の関係で何でも相談にあずかっていたと思ったら、盛田さんは個人財産の運用を石井さんに任せていたことだ。野村の相場下手をよくご存じだったのだろう。

その石井さんは「独眼流」の時代から一目置いている相場の天才で、かれこれ四十年近く情報交換してきた仲だ。僕が証券業協会長の時、政策委員長になってもらったのは相揚の分かる人が近くにいてほしかったからだ。同い年の僕と彼はサラリーマンとオーナーの対照的な人生を歩んだが、証券界で最も信頼し合っている友達だと思う。

丸紅の伊藤宏元専務とは仕事を通じて知り合い、囲碁や座禅の仲間でもあった。ロッキード事件の裁判で、僕は伊藤さんに頼まれて情状証人として法廷に立った。

僕は「伊藤さんがやったことは会社のためであり、私が伊藤さんの立場ならどうしたかは、ずっと考えても分かりません。既に長期間にわたって針の筵に座らされており、十分償いはしたと思います」とだけ述べた。検事の反対尋問はなく、伊藤さんは執行猶予になった。

僕が経営者として最も尊敬しているのはホンダの藤沢武夫元副社長だ。本田宗一郎さんとの名コンビで有名だが、実質的な社長は藤沢さんだったと言うのは本当だと思う。「朝、角帯を縮めると寝るまで一回も締め直さずに済む」という伝説があるぐらい居住まいが端正で物事が徹底していた。藤沢さんの背広姿を会社でも見たことがない。

藤沢さんが偉いのは表に出なかったことで、経営者の資質で最も大事なのは「運・鈍・根」の「鈍」ということを学んだ。運は誰にも巡ってくるし、根気強い努力も大切だが、鈍に徹するのが一番難しい。「切れ者は警戒されてうまくない」と教えられた。僕には志茂明君という切れ者の名参謀がいたので格好を付ける必要がなく、鈍に近づけたのではないかと思う。

作家の山崎豊子さんや、評論家の江藤淳さん、中国の古典や思想史の研究者など、多くの文化人とも親しくお付き合いをした。根が文学好きの僕は、自分が鍛えられ、話を聞くのが楽しみだったが、紙幅がないので割愛させていただく。

(野村証券元会長)

田淵節也(25)若手集め、竹下首相囲む会

財界活動
気が置けぬ同友会の友

僕が経済同友会に入会したころ、円切り上げの議論があった。全員が反対の会議で手を挙げて「一?三〇八円でいいんじゃないですか。日本の国力はそんなもんじゃないですよ」と発言すると、皆びっくりして僕の類を見た。代表幹事の木川田一隆さんが「いいこと言いますな。あんた名前なんて言うの」と言ったのが財界デビューだ。

同友会では湾岸戦争後に、クウェート政府代表を迎えた時を思い出す。百三十億?の援助に礼を言うのかと思ったら、初っ端から「日本は血を金で買うのか」と言われ、一言もやり返せず、情けない思いをした。米国の傘の下で自分の国も守れない惨めさを痛感した出来事だった。

一九八五年に始まった前川委員会で「輸出立国をやめ内需主導の国民経済をつくる」(前川リポート)という構造改革の議論に参加したのは真面目で楽しい思い出だ。前川春雄委員長(元日銀総裁)は役人臭さが無く、信条的にも気が合う人で、僕を信頼してくれたのでズケズケ物を言えた。感心したのは中曽根康弘首相が毎回欠かさず出席し、何も言わずに議論を聞いていたことだ。「大した総理」と言う印象を受けた。

僕は九〇年に平岩外四会長の経団連の副会長になり、五島昇日本商工会議所会頭とも親しかったが、同友会の面々が一番気が置けない仲間だ。僕が世話人となり、牛尾治朗君や藷井虔君らの若手財界人で竹下登首相を囲む会(木鶏会)をつくった。斎藤英四郎経団連会長ら財界団体首脳の「竹世会」に対抗したのではないが、財界の世代交代を促したいとの思いはあった。

僕は竹下さんと仲が良く、新幹線に乗り合わせて酒を飲みながら身の上話を聞いたのが出会いだ。同じ年の竹下さんに「政治家は偉そうなことを言っているが、世の中のことはさっぱり分からんので教えてくれ」と言われ、よく呼ばれて議員会館を訪ねた。

野村証券が政治や行政と特別な関係にあるという世間の見方は誇張されていると思う。野村と大蔵省の関係は「大蔵省日本橋出張所」とか「野村証券霞が関支店」などと言われたこともあったが、そんなことはあり得ない。大蔵省に首根っこを押さえられていたのが実態で、政治家と仲良くして得したこともない。

ただ、こうは言える。政治家は常に株価を気にして、株価が下がると対策に熱心だ。大蔵省のエリートはスキャンダルを書き立てるマスコミを気にする。野村はどちらも平気でネタを提供する側だから、ジャンケンポンのような関係にあったかもしれない。

日本は金融制度など米国の真似をしてきた国で、野村はよく勉強していたから、大蔵省が野村を利用することはあったとしても、逆はない。利用された振りをすることはあったかもしれないが……。

優れた政治家はポロを出すようなことはしない。竹下さんも細かく広く集めていた。大昔はともかく、僕の時代はドカンと金を預かって政治資金づくりを手伝ったことはない。

日本証券業協会会長の時、売買の回数と株数が一定限度を超えると譲渡益に課税する変則的な税制を改める証券税制の改正があった。僕は「ややこしいことはやめて有価証券取引税を廃止し、ロスの繰り越しや損益の相殺を認め、世界共通の税制にしてほしい」と主張した。当たり前のことだから政治家に頼む必要はなかった。

(野村証券元会長)

田淵節也(24)金融再編にはかかわらず

バブル崩壊
「海の色が変わった」

「海の色が変わった」という株式相場の暴落を予言した僕の発言が一部で話題になったのは一九八九年と思う。

発言の裏には実話がある。関東大震災の直前、房総半島に避暑に来ていた金持ちが、海水の色がいつもと違うのに気づいた。不吉な前兆と思って東京に戻り、大事な物をまとめて安全なところに避難して、被災を免れたという。

日経平均株価が二万円、三万円を超えて上昇する間、僕は弱気だった。「野村証券の会長が弱気では商売に障る」と言うので社内で問題になったこともある。株式市場には「掉尾(とうび)の一振」という言葉がある。「最後に一段高があり、儲ける機会を逃す手はない」という意見が大勢を占めると、僕も自信がなかった。

九〇年の年初から株の暴落が始まり、土地も実勢価格は同時に暴落した。まず証券会社がやられたが、日本のバブルの本質は土地本位制の金融だったから、土地担保融資が焦げ付いた銀行の不良債権が本丸だった。証券会社が自分でリスクを取る時は逃げ道を作っておく。銀行は逃げられないから政府に頼らざるを得ず、合併に追い込まれた。

野村は、銀行を真似て不動産融資をした傘下の野村ファイナンスの処理で傷を負う。約七千億円に上った損失は野村の自己資本のほぼ半分に相当した。「半分もドブに捨てたと思うか、半分は残ったと思うか」だが、早く始末を付けて良かったと思う。

九六年の暮れに政府が「金融ビッグバン」を宣言して、日本は岸信介元首相以来の統制経済と決別した。金融市場の実態は既に先行しており、大蔵省の手に負えないことがはっきりしたということで、遅きに失した感がある。九七年の山一証券の自主廃業を知った時、僕は既に野村から完全に離れていたが、意外感はなく、驚かなかった。

銀行の経営不安が高まると再編や救済の話が飛び交い、真偽はともかく、僕のところに伝わってくる話もあった。兄弟会社の大和銀行は信託分離を拒否し続けた頑張り屋だ。長い付き合いの安部川澄夫君から相談事のようなものはあったが、とても野村が受けられるような話ではない。そのほかにも銀行の救済を打診された気がするが、野村はいずれも受けていない。

大和銀行は三光汽船の破綻処理で野村の株を売っていた。将来、何が起きるか分からないと思った僕は、野村と大和銀行が共同で管理していた京都の野村別邸(碧雲荘)が人手に渡らぬように手を打っておいた。碧雲荘は昨年、重要文化財に指定された。

いずれにせよ、僕は銀行に全く興味がなかった。米国を見れば分かるように、銀行が証券会社を買うことはあっても、その逆はない。証券会社に将来はあっても、銀行に将来はないからだと思う。

その後、野村が日本興業銀行と提携した時、直感的に「うまくいかない」と思った。その時の興銀の西村正雄頭取は立派な人で個人的に尊敬していたので、早く亡くなられたのは残念だった。しかし、両社の体質は著しく異なっており、提携は興銀の再編で数年もたたずに解消した。

今振り返って、内部留保を溜めすぎるのは考えものだという思いがある。最近、野村ホールディングスの古賀信行社長に会った時、「これからの経営は、利益は配当で吐き出し、利益が出なくなったら社長が替わればいいんじゃないか」と言っておいた。

(野村証券元会長)

田淵節也(23)「債権大国」の実態には疑問

バブル経済
野村、利益で日本一に

一九八五年、僕は七年務めた社長を田淵義久君に譲り、会長に退いた。先輩三人は社長を十年やったが、初めからそのつもりはなく、若返りを進める意味もあった。軍師の志茂明君と「株式相場は八合目、これからの社長は大変だな」と話した覚えがある。

僕と義久君は同姓、同郷でも縁戚関係はない。社長候補は二人いて、甲乙付け難かったが、志茂君と相談して決めた。義久君は岡山の名門の出で、いろんなことをのみ込んでいる賢い男だ。判断は間違っていなかったと思う。

バブルの予兆はあった。五百円に張り付いた大手銀行株が動き出すのが八四年。八五年のプラザ合意、日米円・ドル委員会の金融自由化が続き、僕も参加した八六年の前川リポートで「内需主導への構造転換」が国策になった。

八七年のブラックマンデー(米国の株価暴落)が転機だったと思う。偶然、ニューヨークにいた僕は新聞記者にコメントを求められ「神の摂理」と答えた記憶がある。経済が疲弊していたのに基軸通貨国の特権に胡坐をかいていた米国の株高は、理屈に合わないと思っていたからだ。

「債権大国」と浮かれていた日本にも、僕は疑問を持っていた。電機や自動車などの産業は世界を席巻し、銀行は資金量で世界のトップテンを独占する勢いだった。野村証券は日本の国力と資金力を背景に世界に打って出る戦略を描き、実行していた。

しかし、その裏で起きていたのは空前の地価の高騰だ。出張先のブラジルのテレビが「日本の地価は正気の沙汰じゃない」と揶揄する解説を聞き、「ブラジル人に馬鹿にされているめか」と情けなく思った。今の人はオランダのチューリップ投機を笑うが、日本の土地も同じだった。

根っこに土地担保の信用創造にのめり込む銀行があり、地価を反映して高騰した株価を使って企業や銀行が資金調達を競い、「財テク」と称して資金運用を活発に繰り広げたのが日本のバブルだ。

証券会社は調達と運用の両面で手数料を稼ぎ、野村は八七年の決算で五千億円の経常利益を上げ、利益日本一になった。今考えれば間違っていたが、その時点で世界一の金融機関になったと思った。

ブラックマンデーが転機と言うのは、米国と一緒に調整していれば、その後のバブルは小さく、傷も浅かったという意味だ。不幸にもそうならなかったお陰で、野村は利益日本一になり、世間から「株屋ごときが」と叩かれた。

会長の僕は経営会議に出ても会議中は新聞を読んでいた。「アロガント(倣慢)な野村」という評判は耳にしたが、野村の最高経営責任者(CEO)は社長だ。僕が社長でも、流れをせき止められたかというと全く自信はない。同じことをしたと思う。証券会社はバブルに責任がなかったかと言われれば、そんな力はなく、期待されてもおらず、正義の味方でもない。

米国はメリルリンチやゴールドマン・サックスなどの証券会社のトップが財務長官になる国だ。「株屋ごときが」という日本で野村のトップが大蔵大臣になるなど考えられない。規制する側とされる側が入れ替われば、お互い市場を理解しているから実効性ある規制もでき、市場の規律も働くのだろうが、大蔵省は市場を知らず、証券会社はそれに従うのが日本だ。言い訳に聞こえるかもしれないが、それが現実だった。

(野村証券元会長)

田淵節也(22)M&A前史

勉強になった小糸事件
数々の攻防戦に立ち合う

欲得が渦巻く証券市場ではいろんなことが起きる。その一つが株買い占めだ。僕自身幾つかの事件にかかわった。1989年、米国の投資家ブーン・ピケンズが、麻布自動車グループが買い集めた小糸製作所の株を譲り受け、揺さぶりをかけてきた。最初は目的が分からなかったが、小糸の筆頭株主のトヨタ自動車に株を買い取らせるのが狙いらしいということになった。野村証券はトヨタの幹事証券として事件に立ち会った。

日米摩擦に絡む思惑もあって「肩代わりしてはどうか」と役人が口を出し、一時は緊迫した。僕も「ただじゃ済まんぞ」と思ったが、立派だったのは豊田英二さんだ。「動いちゃいけない」と一言だけ言って相手にせず、顔色一つ変えない。大人の風格の本物の経営者に接し「この人の言う通りにしなければ」と思い直した。株価が下がり、相手は退散したが、豊田さんは僕を借用してくれ、僕は動かないことの大切さを学んだ。

1980年代前半の読売グループの土地持ち企業、よみうりランドの株買い占めでは機敏に動いた。僕は日本テレビ放送網の社外取締役だったので他人事でなく、株売買の手口を調べて小林与三次さんに報告し、務台光男さんと相談して言うことを聞いてもらった。相手を会社に呼んで話し合い、交渉をまとめたのは僕だ。その後の地価高騰で株価も急騰したので、解決が遅れていたら高く付いたと思う。

笹川良一氏のヂーゼル機器の株買い占めで、僕も中に入って事実上の解け合いの処理をしたのはその前だったと思う。大株主の銀行が一旦株を引き取る約束が、土壇場で一行が抜け、野村がその分を引き受けた。笹川さんがなぜ買い占めようとしたのかは分からない。後始末に苦労していた息子の笹川陽平君とはその時知り合った。その縁で陽平君に頼まれ、僕は今、笹川平和財団の会長をしている。

買い占め事件では野村は幹事証券会社として専ら防衛側に付く。しかし、事業会社のM&A(合併・買収)は証券会社の本業だ。野村は1988年に野村企業情報を設立してM&A時代に備えた。

M&Aの先駆者、ミネベアの高橋高見君を公然と支えたのはソニーの大賀典雄さんと僕だろう。高橋君は「カナダを拠点に世界一の養豚事業をやりたい」などと夢を語るスケールの大きな事業家で、買収で喧嘩を売って歩きながら用心深いところがあった。財界の有力者、今里広記さんの日本精工がライバルだったから後ろ盾が欲しかったのだろうと思う。彼の方から僕を訪ねてきて、友達になった。

ミネベアが三協精機に買収を仕掛けた時は、三協に八十二銀行、三菱銀行、日本興業銀行が付き、ミネベアに住友信託銀行、日本長期信用銀行、野村が付く構図になった。膠着状態に陥り、僕は「無理は通らない」と鋭得して退かせた。高橋君が今も健在なら大活躍しているだろう。

昨年の王子製紙と北越製紙の買収攻防で野村は買収側に付いた。両方とも野村が幹事だから逆の立場もあり得ただろう。義理人情の時代は終わったのだから、割り切って考えればいいのではないか。

僕は村上ファンドやステイール・パートナーズなどには興味も関心もない。儲けたいという人はいつの時代にもいて、現れては消える。株式市場には付き物の、本質とは関係のないアヤだと思う。

(野村証券元会長)

田淵節也(20)自由化前夜

潰れた信託合弁構想
時には政治・外圧に訴える

僕が社長時代、野村証券が世間を騒がせた事件に、中期国債ファンドと、米モルガン・ギャランティとの合弁信託会社設立構想があった。

中国ファンドは既に触れた。定期預金と競合する商品を証券会社に認めるのは大事件だが、国債の消化に汲々としていた大蔵省は何とかなった。問題は銀行だった。

当時の全国銀行協会会長が野村と親戚付き合いにある三井銀行の関正彦社長だったので、「三井と野村の密約」「三井は野村に騙された」などという批判が起き、行政を通じて様々な制約を押しつけてきたのにはあきれた。歴史の必然が生んだ商品への反応は、日本の金融界の性格をよく表していたと思う。

一九八三年、日経新聞がすっぱ抜いた「野村・モルガン合弁」は大蔵省の反対で潰れたが、外国銀行の信託業務参入や国内の投資顧問業の一任勘定認可のきっかけになることで、資産運用の時代の幕開けを告げる出来事だった。

野村グループにとって、資産運用の受け皿である信託業務は本業であり、悲願であり、鬼門でもあった。兄弟会社の大和銀行(現在のりそな銀行)は都市銀行と信託銀行を分離する戦後の政策に反して信託業務を手放さず、行政面で冷や飯を食わされ続けた。

一方の野村は五〇年代に信託銀行設立に動いた。横やりが入り、妥協の産物としてできたのが三和銀行や神戸銀行む相乗りの東洋信託銀行(現在の三菱UFJ信託銀行)だ。東洋信託には野村から相当数の社員が移籍した。僕と同期入社で評論家として知られる神崎倫一君もその一人だ。

投資銀行業務で当時ナンバーワンのモルガンの狙いは日本の金を取り込むことだと分かっていた。僕は野村の悲願成就と日本の金融のゆがみを正す一石二鳥の機会と思い、申し出に乗ることにした。

野村とモルガンで仮調印をしたのは日米摩擦が高まり、「日米円・ドル委員会」で外圧による金融自由化が始まる直前で、レーガン大統領の来日が決まったころと思う。

「米国の自由化要求への回答にもってこい」というので、竹下登大蔵大臣の了解も取り付けたが、頭越しされた格好の大蔵省の反発で日の目を見なかった。「野村はやり過ぎだ」という大蔵省次官OBの声が僕の耳にも入った。

もし実現し、事業がうまくいかなければ、米国はしたたかだから、野村は大損を押し付けられていたかもしれない。そう思えば、良かったのか悪かったのかは分からない。

「野村は政治を使う会社」と世間から見られている面があることを承知している。戦後の初代社長の奥村(綱雄)さんが池田勇人首相と肝胆相照らす仲だったのは有名だし、歴代の社長、会長が政治家とパイプを作ってきたのも事実だ。僕自身、中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一の歴代首相をはじめとする政治家とそれなりのお付き合いをした。

野村が時に政治や外圧に訴えたことを否定しない。しかし、それは証券市場や証券界、ひいては日本の金融が在るべき姿から程遠く、大蔵省や銀行に比べ、証券業界の地位も力も極端に低くて話にならず、無力に等しかったからだ。中国ファンドも信託合弁も、当たり前のことが当たり前でなかった時代の思い出だ。こうしたことがスムーズに実現していれば、日本の金融の構造改革は十年は早まったと思う。
(野村証券元会長)

田淵節也(19)キープヤング

大企業病克服に挑む
教育機会充実、人材育てる

個人プレーも大事だが、一人の力は限られている。僕は社長になると、「全員参加」の経営を掲げ、「車座経営」を標榜して現場に足を運び、人間の欠点よりも長所をみる「美点凝視」を座右の銘とした。何よりも若返りを徹底し、人材教育にカを入れた。

大企業の端くれになった野村証券で何が大事かを考えた。企業が放物線を描いて墜ちて行く宿命を逃れるには、二段、三段ロケットに点火して飛び続ける必要がある。それには「若返りで絶えず血液を入れ替えるしかない」。野村は競争原理を使って社員を働かせるのがうまい会社だ。一九七一年には「範囲給制度」を作り、管理職の給与を年功から能力主義に改め、思い切った抜擢人事を可能にした。日本の企業で最も早かったのではないかと思う。

だが、若返りを続けるには上を整理する必要がある。僕は実力者の瀬川さん(美能留元会長)が相談役になっても経営会議に出て居眠りするのを見て、グループの社長、役員に定年制を設けた。役員には報酬を弾み、目一杯仕事をしてさっさと辞めてもらう。冷たいようだが実行した。上から下まで「キープヤング」は野村の活力の源になった半面、野村社員は「金太郎飴」と言われ、世間とのズレを生んだ面もある。野村はもともと教育熱心な会社だ僕が人材教育に熱心だったのは若さのハンディキャップを補うためでもあった。

僕は八四年に高輪研修センターをつくった。野中郁次郎さんや伊丹敬之さんなど一線で活躍している学者を講師に招き、部長や支店長を日常業務から引き離して勉強させた。実務も大事だが、世界観を磨き、知的水準を引き上げるのが目的で、僕自身時間が許す限り講義を聴いた。

八一年に野村マネジメントスクールをつくったのも僕だ。日本企業は働き盛りの優秀な社員に勉強の時間を与えるのを惜しむ。それでは外国企業と渡り合える人材が育たない。「日本のビジネスマンの水準を引き上げるには欧米のビジネススクール並みの教育の場が必要だし、野村の社会貢献にもなる」と思った。

企業のトップに呼びかけて幹部候補生を出してもらい、最初は一カ月、缶詰にして特訓した。ハーバード大学のクラム教授をはじめ一流の学者に頼んでAMP(経営幹部コース)レベルの講義を充実させた。金融や財務の専門用語を多用する英語の講義を理解してもらうため、日本で一番の人に通訳をお願いした。

野村は日本で最も多くの社員を留学させた会社と思う。日本に進出した外資系金融機関で活躍しているのは野村出身者が断然多い。一通りが話せて仕事もできる金融の人材を探せば、野村しかといないということだろう。「彼らは昼は会社に忠誠を誓って働いても、夜は、赤提灯で昔の仲間と語り合っている」という。何のことはない、東京にいてOBの人脈を使えば、世界の動きが分かようになっている。僕は転職する人を引き留めなかった。外資に限らず、OBの活躍を見聞きするのは楽しみの一つだ。

野村は「証券不祥事」で二人の社長の首が飛んだが、途中入社で海外畑が長い異色の経歴の氏家純一君(現会長)が社長になり、若返りも進んだ。金融機関が再編に巻き込まれる中で、野村が名前も実態も継続している理由を一つだけ挙げれば、人材がいたからだと思う。

(野村證券元会長)