ユダヤ人のおばあさんが教えてくれたツキを呼ぶ魔法の言葉 – 五日市剛

異国での一回の出会いでツキの人生が始まった

「ありがとう」「感謝します」。この二つの言葉が人生に好運を招くことを教えたのは、二十六歳の時に異国を旅して偶然出会った一人の老女だった。この時の一度きりの出会いが五日市さんのその後の人生を大きく変えることになる。信じられないような不思議な体験談。だが、そこに苦難を乗り越えツキを呼び込む秘密が隠されている。

現実逃避のイスラエルへの旅

湾岸戦争があった一九九一年の冬、僕は一人でクリスマスを間近に控えたイスラエルに飛び立ちました。大学院の冬休みを利用しての一か月間の長い旅行でした。これだけの長期の旅行を計画したのには理由があります。その頃は人間関係が最悪の時期でした・人の欠点ばかりを指摘する変なクセが自分にあり、周囲との衝突が絶えない毎日でした。

自分の欠点を指摘されて喜ぶ人なんかいません。ところが僕は、例えば大学院の講義でも先生の真ん前に座って「先生、授業の準備が不十分じゃないですか。こっちは授業料を払って受講しているんですよ」「あなたみたいな人は教える資格ありません」と平気で言うような学生でした。先生にもプライドがありますから、頭にきて教室を出て行きます。僕の顔を見たくないといって学校に来なくなった先生もいました。

先輩や後輩と議論するのにも、すぐに喧嘩腰になり下宿に帰ると大家さんと些細なことでたびたび口論しました。そんな鼻持ちならぬ人間でしたから、周りは自然と僕から遠ざかるようになり、段々と崖っぷちに追い込まれるようになりました。いや実際には自分で自分を追い込んでいったというほうが正確な表現かもしれません・自分の口から吐いた毒で自分自身が苦しんでいた時期で、自分に非があるとは思っていなかった僕は、そのことにすら気づきませんでした。

人間が崖っぷちに追い込まれたらどうなるか。ある人の言葉を借りれば、三つのうち一つを選択することが多いそうです。一つ目は自分を傷つける、その究極は自殺です。ニつ目は人を傷つける。三つ目は逃避。僕にとってのイスラエルの旅はまさに逃避そのものでした。イスラエルを選んだのは、中東問題に関心があったからだけではありません。日本にはない、まったくの異文化に触れてみたいという理由もありました。

現実逃避して自分を癒す旅-のはずでした。しかしそれは出発時から踏んだり蹴ったりの連統でした。まず成田空港に着くとパスポートの期限が切れていることに気づきました。不注意な自分に向かって暴言を吐き、怒り狂いながら自宅に戻りました。更新を終えてまた空港に着き、やっと出発かと思いきや飛行機が動きません。その航空会社の窓口で怒鳴り散らしました。

ようやく飛び立ったと思ったら、今度は隣のシートに座っている外国人男性のキツィ体臭に悩まされ、さらに激しいいびきに安眠を妨げられました。目的地に着くまで、ずっと一人でブツブツ文句を言い統けました。

ここまではよくある話です。ところが、テルアビブの空港に着くや、駆け込んだトイレの棚に財布を置き忘れてしまったのです。財布の中には所持金の約半分が入っていました。気づいた時は入国を済ませていましたから、もとには戻れません・トランクに入れていた残りのお金は闇市で交換しようとして騙されて半分になりました。結局所持金の四分の一になってしまったのです。僕は日本円にして六万円ほどのお金で一か月を過ごさねばなりませんでした。

もう一つ、困った問贈が起きました。出国前、イスラエル大使館に気候を聞いたら「暖かいですよ」という返事でした。半袖のシャツと短パン、ジーパンをトランクに詰め込みました。ところがいざ行ってみると雪が降っているではありませんか・七十年に一度あるかないか、という大寒波がこの国を襲っていたのです。どんなに寒くても僕には防寒着を買う余裕はありません。

足元をネズミがチョロチョロ走り回るような汚い安宿に泊まり歩く旅はこうして始まりました。クリスマスの翌日、僕はハイファという港町にいました。例によってまず安宿探しです。でも、この日に限って、どういうわけかどこの宿泊施設も閉まっているのです。これには参りました。

どこもここも休業でした。午後九時をすぎた頃、厳しい寒さと疲れで何ともやりようのない気持ちになりました。

「なんでだよ。なんで俺だけがこんな目に遭うんだよ。天は俺に死ねというのか。あー、俺ほどツイていない人間はいないな」

七十歳前後の小柄なおばあさんが、ニコニコしながら「顔色が悪いですよ。どうしたんですか」と声をかけてきたのは、僕が心の中でこのように呟いていた時でした。沈んだ暗い心がきっと表情にも表れていたに違いありません。このおばあさんとの出会いが、僕のその後の運命を大きく変えていくとは、この時、知る由もありません。

「運命というものはあるのよ」

おばあさんは「よかったら、うちに泊まりなさい」と親切に言ってくれました。僕は「もうちょっと探して、見つからないようだったらおじゃまします」と答えて、簡単な地図を書いてもらいその場を去りました。しかし、結局泊まる場所は見つからずに、おばあさんの家を訪ねることにしました。

玄関のチャイムを押したと同時に、いきなりドアが開いて、「お待ちしていました」とおばあさんが目の前に立っていました。これには心臓が飛ぴ出るほどビックリしました。「寒かったでしょう。どうぞ」と中に案内されると、さらに驚きでした。テーブルにはすでに温かいスープが準備されていたのです。何時何分におじゃましますと伝えていたわけではありません。おばあさんが、なぜあのタイミングでドアの前に立ち、スープを温めてくれていたのか。それを考え出すといまでも眠れない時があります。意外だったのは、おばあさんは僕が何者なのか、なぜ旅をしているのかといったことには何も触れず、淡々と話を始めたことでした。

自分の生い立ち、亡くなったご主人の思い出、隣町に住む息子夫婦、そして可愛い孫の話、趣味のペン集めのこと……。スープを飲み終わる頃、おばあさんは、電気の代わりにロウソクの炎を灯して、ちょっぴりスピリチュアルな話を始めました。

「私、人間の生まれ変わりを信じているわ」

彼女はユダヤ教徒です。仏教でいう輪廻転生を信じているなんておもしろいことを言うな、と思ってこの話を聞いていました。

おばあさんはさらに「運命というのはあるのよ。それからツイているツイていない、という『ツキ」というのも確かにあるのよ」と言葉を統けました。

この種の話にあまり関心がなかった僕は「そういうこともあるのでしようね」と相づちを打つと「だけど、それは簡単に手に入るものなのよ」という言葉が返ってきました。この一言で、僕は思わず身を乗り出していました。「えっ、何ですか。教えてください」ついさっきまで自分ほどツイていない人間はいない、なんで俺だけ踏んだり蹴ったりなんだと思っていた僕は、おばあさんが何か大切なヒントをくれるのではないかと、ワクワクした気持ちで耳を傾けたのです。

「あのね、ツキを呼び込む魔法の言葉があるのよ」
「それって難しい言葉ですか」
「簡単な言葉なの。二つあってね。一つは『ありがとう」、もう一つは『感謝します」。ねっ、簡単でしょ」
「えっ?」

あまりに月並みな言葉に、いささか拍子抜けしました。

「ちょっと待ってください。月並みな言葉じゃないですか。そんなこと誰でも言っていますよ」
「でも、言えているようで、言えていないんじゃないかな」

なるほど。そう言われてみると知識で分かっていても、実際に言葉に出すことが少ないのが「ありがとう」であり、「感樹します」です。

嫌なことがある時に「ありがとう」しばらく黙っていたおばあさんが再び話を始めました。「そうね。使い分けたら効果的かもね。『ありがとう』は、何か嫌なことがあった時に使ったらどうかしら。例えば、朝寝坊して学校や会社に遅刻しそうになってイライラしている時、急いでい

て交通事故に遭った時に、『ありがとう』と言葉に出してみるの。親が亡くなっても、歯を食いしばって「ありがとう』と言うのよ」

「なぜなら嫌なことがあると嫌なことを考えるでしょう。そうすると、また嫌なことが起きるの。不幸は重なるというけれども、それは宇宙を貫く法則なのよ。でも『ありがとう』というとその不幸の鎖が断ち切られて、逆にいいことが起きるのよ」

嫌な時に「ありがとう」。最初はなんとなくしっくりきませんでした。しかし、日本に帰ってしばらくして、おばあさんのことを思い出しながら「有難う」と漢字で書いた時、ギョッとしました。「難が有る」と書かれていたからです。「へえーつ、難が有るからありがとうか。そうするとピンチがチャンスになるんだな。おばあさんが言ったことと一緒だなあ」といたく感心した記憶があります。

次に「感謝します」について、おばあさんは次のように話してくれました。「逆に良いことがあったら『感謝します』と言ってみてはどうかな。待ちに待った運動会が晴天だったら『晴れて感謝します』とかね。それにこの言葉は、願っていることがまだ実現していなくても『そうなりました。感謝します』と言い切ると、本当にそうなるんだから。例えば「○○大学に合格させていただき感謝します」とイメージしながら言い切っちゃう。何の疑いも不安も心配もなく、力まずに自然に思えて口に出せたら必ず想いが実現すると思うわ」と。「想って」「口に出して」「行動(勉強)する」と、本当に合格してしまうのかもしれません。

おばあさんはニコニコしながらお話ししてくれましたが、恐らくそうした笑顔も大事なポイントのような気がします。笑顔は「ありがとう』で不幸の連鎖を断ち切ったり、「感謝します」で願望を実現させるための「触媒」的な作用があると思われます。

もう一つ、おばあさんは絶対にロにしてはならない言葉があると教えてくれました。その言葉を口にすると、それまで積み重ねてきた徳やツキが吹っ飛んでしまうというのです。

「何ですか」と尋ねると「汚い言葉ですよ」。つまり、テメェーだとか、バカヤローだとか、死んじまえだとか汚い言葉を使うと、そのような人生を歩むというのです。そして最後に「怒っちゃ駄目よ。怒ると何の得もないのよ」と付け加えました。

非常にシンプルな話に、「そうか、そうか」と素直にうなずいている自分が不思議でした。でも、僕は決して信心が深いほうではありません。そこで「僕ね、神橡とか仏様とかあまり信じていないんだけど、誰に対してありがとうとか感謝しますとか言えばいいのですか」と聞いてみました。「ただ言えばいいのよ。言葉には魂があるの」というのがおばあさんの答えでした。

もし、僕が何の悩みもなくおばあさんの話を聞いていたら「いい話だね」程度で終わっていたでしょう。日本に帰る頃には話の中身をすっかり忘れていたに違いありません。しかし、精神的にどん底の状態であったことが幸いして、おばあさんの言葉一つ一つが心に刻まれていったのです。

幸せをもたらす黒い箱

次の日、おばあさんの息子夫婦が訪ねてきました。おばあさんは「私はこれから彼らと旅行に出かけるけれども、五日市さんは是非もう一泊していってください。これは記念にあげるわね」と、二つの箱を僕に差し出しました。「いや、そんな、おばあさんにこんなにお世話になりながら、贈り物までもらうわけにはいきませんよ」

僕は日本流の遠慮のつもりで、そのように答えました。すると、おばあさんは急に真剣な顔になって「ああそうですか。だったら買ってください」と言うのです。いつもニコニコ顔の人が急に真剣な表情になるのですから、さすがにドキッとしました。

小さな声で「お、おいくらですか」と尋ねると「いくらでもいいわ」。日本円でいうと十円でも百円でもいいというニュアンスの返事でした。その時の僕の所持金は三万円か四万円ほどです。

まだまだニ、三週間の日程が残っています。いま思うと不思議な気がするのですが、少ない手持ちの中から一万円相当のお金を出して買ったのです。普通なら「そんな馬鹿な使い方するな」と言われるところでしようが、おばあさんの反応は違いました。「やっばりね。あなたってお金の使い方を知っているのね」とポツリと言ったのです。この言葉はいまも心の中に残っています。

もらったのは、一つが大きく、もう一つは小さく細長い箱でした。大きいほうは白の、小さいほうは黒の包装紙でくるまれていました・「五日市さん、約束して。あなたの誕生日が来たら開けてね・最初の誕生日に一つ目、次の誕生日に二つ目の箱を開けるのよ。どちらが先でもいいわ」

「どうしてですか。なぜそんなことを言うのですか」
「開けたら分かるわよ」
「分かりました。約束します。ありがとうございます」

こういう会話を交わして、おばあさんとは別れました。
日本に帰った後、僕はもらった箱を棚の上に置いて誕生日を待ちました。
ニ十七歳の誕生日を迎えた日、さてどちらを開けようかと考え、とりあえず大きな白い箱を開けてみることにしました。軽い箱でした。ドキドキしながら蓋を取ると、なんと空っぽではありませんか。

「そりゃあ、ないよ」と思いました。「開けたら分かるわよ」と言われても、これでは分かるはずがありません。

それから半年ほど経った頃のことです。ある夜、おばあさんが夢の中に現れました・どういう夢かは忘れましたが、ニコニコした笑顔が浮かんできました。急に眠れなくなって、ふと、もう一つの箱のことが気になり始めました。誕生日はまだ半年先です。しかしどうしても箱の中身が知りたくなりました。僕は一人暮らしですから誰も見ているはずがありませんが、人目を気にするかのような心境でした。夜中に起きてべッドを降り、本棚のある部屋に行きました。そして本棚に手を伸ばしました。が、不思議なことにその本棚に黒い箱がないのです。下に落ちたのかと思って見ても、どこにもありません。あれっ変だな?と朝までかかって他の部屋もくまなく探しましたが、結局見つかりませんでした。

腑に落ちない話です。翌日、思い切っておばあさんに電話をしてみました。通信状態が悪く、何回かかけてようやく通じました。電話口に出たのはおばあさんの息子でした。そこで初めておばあさんが三か月前に亡くなっていたことを知ったのです。

僕は箱の話を切り出しました。「ご存じかもしれませんが、おばあさんから箱を二ついただきましてね。誕生日に開けてねと言われたので白い箱のほうを開けたのです。そうしたらカラでした。もう一つの…」そう言いかけた途端、息子はドスのきいた声で言いました。「あんた、誕生日が来る前に開けようとしただろう」僕は返す言葉がありませんでした。それだけではなく、すべてを見抜かれていたようで足がガクガクと震えるのです。お互いに無言の状態が少し統いた後、一呼吸おいて白々しいとは思いつつも、「何が入っていたと思いますか」と尋ねてみました。

彼は言いました。

「きっと、おふくろが一番大事にしていたものじゃないかな」

おばあさんが大事にしていたものと聞いて僕はピンときました。趣味がペン集めであることをおばあさんの口から聞いていたからです。旅先で買ったものや友達からもらったものを、楽しそうに見せてくれました。

息子は続いて「五日市さん、箱は絶対に出てきますよ。恐らくあなたの誕生日に」、そして「それはあなたに幸福をもたらすものでしょう」という気になる二つのことを付け加えました。

その頃、僕には付き合い始めた女性がいました。僕の二十八歳の誕生日、彼女からプレゼントが届きました。その箱を見た時の驚きはいまだに忘れられません。見た感じといい重さといい、おばあさんからもらった黒い箱と同じではありませんか。その感覚は僕にしか分かりません。彼女が百貨店で買ったものですから、物理的に同じはずはありません。しかし、いずれにしても僕の誕生日にあの箱が出てきたのです。

開けてみると中身はペンで、僕のプロポーズを承諾する彼女のメッセージが添えられていました。さらに不思議なことに、このペンをよく見るといくつもの小さな傷があり、半透明のプラスチックチュープの中のインクの量が半分に減っていました。百貨店のギフトショップで中古が売られているはずはありません。しかしそれは明らかに誰かが使った形跡がありました。彼女にも店の人にも聞いてみましたが、「そういうことはありえない」という返事。考えれば考えるほど不思議ですが、「おばあさんが大事にしていたもの」「あなたに幸福をもたらすもの」が僕の誕生日に届くという言葉は確かに現実となったのです。

白い箱に隠された秘密

黒い箱は僕の手許に届きました。ただ、僕にはどうしても腑に落ちないことがありました。それは空っぽの白い箱のことでした。この白い箱に意味があるとすればそれは何だろうかという疑問が長い間、心の中にひっかかっていましたが、ある時その謎が解けたのです。少しその話をしたいと思います。僕は宮城県内の中学校を卒業した後、同じ県内の高専に進学しました・高専の二年生になってすぐに、あるきっかけで中学三年生の家庭教師をするようになりました。その子というのが、実は筋金入りの不良少女だったのです。

喫煙、シンナー、窃盗、恐喝、売春などを繰り返し、少年院と学校を何度か往復していました。悩んだ母親が「よい友達があまりいないので、話し相手になってほしい」と家庭教師を頼むことにしたのです。

会ってみると、彼女はとてもいい子でした。歳も二つ違いで、まるで妹のように感じました。自分のそれまでのことはすべて僕には話してくれましたし、僕の言うことは大抵きいてくれました。「受験生だから深夜放送はよくないぞ」「マンガ本を読んでもいいけれども、少しずつ減らそうよ。宿題とかいろいろやることあるもんな」というと「そうだね」と素直に従ってくれました。とはいうものの彼女は自力で宿題はほとんどできません。太陽が東から昇って西に沈むことすら知りませんでしたから、学カ的なレベルは小学校低学年くらいだったでしょう。九月に入って二学期が始まると、すぐに実カ試験があります。彼女の成績は五百点満点中百点ちょっとでした。相変わらず学年でビリであることに変わりはありませんでしたが、それまでと比べると明らかな進歩でした。

「おまえ、やればできるじゃないか」
「うん」

彼女はとても嬉しそうでした。そして大きな変化が見られました。僕と一緒でないと勉強できなかったのが、それからというもの、自分一人でもがむしゃらにやるようになったのです。四か月後、冬休み明けに中学最後の実力試験がありました。その試験で彼女は何点だったと思いますか?五百点満点中、四百六十八点も取ったのです。

僕も信じられませんでした。学年でニ番、県下でもベスト五十以内に入りました。そしてついに県内で最もレベルが高い高校に合格したのです。

その後も勉強一筋。高校二年生くらいから成績も上位のグループに入り、地元の国立大学に現役合格。それから大学院の修士課程に進み、修了後は県内の市立中学校の先生になりました。

さて、僕はというと彼女が高校を卒業する頃、高専を卒業し愛知県豊橋市にある技術科学大学に編入しました。遠く離れてからも彼女とは電話や手紙でいつも連絡を取り合いました。年に一度は彼女が豊橋に来て、一年間どのようなことがあったかをとことん話し合いました。顔を見ただけで、互いに何を考えているかが分かるのです。きようだい以上の仲だったと思います。彼女と出会っていつしか十年近い歳月が流れていました。
僕がニ十七歳の艇生日を迎えたのはそういう時でした。誕生日を間近に控え、ふとあることを考えました。

「俺ももう二十七だよなあ。彼女は二十五か。お互い、いい歳だよなあ」

いつしか彼女を一人の女性として意識するようになっていたのです。僕はプロポーズの機会を待ちました。年に一度の訪問の日、豊橋駅に到着した彼女を新しく借りた小さな一軒家に案内しました。お互いに向き合った時、開口一番彼女はこう言ったのです。

「私、来年結婚するの」

思ってもみない一言でした。僕は自分の思いを抑えながら、作り笑顔でこう言いました。

「そうか、よかったね。幸せになれよ。でも、もしよかったら、これからもいままで通り、年に一回僕のところに来てくれるかな。だけど今度からは旦那と一緒だぞ」最初に開けた大きなカラの箱。それは僕と彼女とのそれまでの長い歴史だったのではないかと思います。つまり結婚したくてもできない運命をその箱が象徴していたように思うのです。

翌年の誕生日に届いた黒い箱は小さいけれども中身がありました。それは現在の妻との出会いを暗示していたのではないでしようか。それ以外に答えは見つかりません。

ちなみに家庭教師をしていた彼女はいまは小学校の教師をしていて、年に一回僕の家に遊びに来ています。お互い三人の子どもがいるのですが、相変わらず、気持ちや悩みを語り合う兄妹のような付き合いは、いまも続いています。

感謝の言葉が次々にツキを生み出した

おばあさんと僕は、お互いの人生の中でたった一回、二日間だけ出会いました。しかし、このご縁は僕にとって人生で最も大きな転機となりました。何よりも言葉の使い方一つで運命が好転することを教わったからです。

他人に対し何かと対抗心むきだしだった僕が、なぜかおばあさんの話だけは無条件に受け入れ、実行するのに何の抵抗もありませんでした。帰国後、良いことがあったら「感謝します」、嫌なことがあったら「ありがとう」。この二つに加えて、「ありがとうございます」「運がよい」「ツイてる」という言葉も意識して使うようになりました。
忘れまいと最初は手にフェルトペンで書きましたが、洗うと落ちてしまうので、ワイシャツなどの袖にも書いて、いつもいつも見ては思い出し、タイムリーに口から発せられるようにしました。袖が真っ黒になったシャツはいまでも大切に持っています。何とか自分を変えたいと思っていた僕は、自分なりに精一杯努カしたのです。

「ありがとう」「感樹します」が習慣化するうちに、どんどん人間関係が改善され、自然とツキもよくなっていきました。そして、何もかもツキっぱなしの人生に変わったのです。

具体的な出来事を数え上げたら切りがありませんが、例えばこういうことがありました。

僕は大学院で博士号を取るための研究を行っていましたが、研究にひどく行き詰まり、論文も書けない時期が続いていました。しかし、イスラエルから帰国後、人間関係の改善とともに多くの方々からの助言と直接的な協カが得られました・本当にありがたかったです。そして、イッキに多くの論文を発表でき、無事、博士号を取得できました。

その後、ある大手の化学会社に勤めました。しばらくすると新しい会社から声をかけられて転職したのですが、給料はびっくりするほど増え、自分の好きな研究開発の仕事がどんどんやれるようになりました。しかも、億単位の開発費が僕のために準備されたのです。新規事業を立ち上げ、たった二年で国内のシェアがトップになりました。

そのうちに、あるヘッドハンティングの会社から多国籍企集の社長にならないか、という声がかかりました・関連会社を含めて十万人以上の社員を抱え、社長の年収として数億円が提示されました。

それはともかく、当時いた会社では多くの部下がいるポストが僕に与えられました。日々、部下から様々な報告を受けます・それは決して嬉しいことばかりではありません。怒らずにいられない失敗の報告も数多くあります。

以前の僕なら「何だ、おまえは」と目くじらを立てて叱りつけていたでしようoしかし、ツキを呼ぶ言葉を知って以来、僕は本質的に怒れなくなりました。それでも苦言を呈さなくてはいけない時には、相手のことを思って冷静に言葉を選べるのです。自分が段々変わっていく様子が、自分でも手に取るように分かりました。

大勢の人前で怒りをぶつけるのではなく、応接室に個別に呼んで、必死に謝る部下をなだめながら「いいんだよ。『失敗』と書いて、『けいけん」と読むんだから」などとキザなことを言うこともたまにあります。そういうことを繰り返す中で「上司(僕)が喜んでくれるなら」と皆夜遅くまで頑張ってくれるようになりました・僕が変わることで、部下もまた変わったのです。

人間は生まれ変わる

おばあさんは僕に「生まれ変わりはあると思うわ」と言いました。「生まれ変わり」というと、まず過去世、現世、来世、輪廻転生という言葉が頭に浮かびます。

ところが最近では、それだけではないな、と思うようになりました。「かつて何をやってみても駄目、人間関係も最悪で踏んだり蹴ったりだった自分がここまで変わることができた。これは生まれ変わり以外の何ものでもない」と気づいたのです。僕が生まれ変わった理由は簡単、言葉を変えたからです。口から毒を吐くのをやめたからです。人間は言葉によって生まれ変わることを自分の体験によって、いつの間にか?んでいました。
これは家庭教師をしていた彼女についてもいえることです。最初に出会った頃、彼女はとても汚い言葉を使っていました。特に親に対しての言葉遣いはひどかったです。相手の目を見て話をすることもできませんでした。しかし、僕と出会ってしばらくすると、言葉と表情が変わってきました。悪い言葉、マイナスの言葉は少なくなって笑顔が多くなりました。そして超難関の高校に合格した時、僕の目をじっと見て「五日市先生、本当にありがとうございます」と言えました。言葉が変わることで、彼女も変わったのです。

そう思うと、いま子どもたちが引き起こすいじめや暴力など様々な問題も、言葉を変えることによって解決できるのではないでしようか。言葉によって人間はこの現実の世界で生まれ変わることができる。これは僕の確信です。もちろん、僕は輪廻転生や人間には定められた運命があるという考えは否定しません。ある本で「人間は生まれる前に両親を選び、人生のシナリオを書いた後、その記憶を消して生まれてくる」という一節に触れた時、おばあさんが言う「運命」とはこのことではないかと腑に落ちるものがあり
ました。

かつて僕は「こんな両親のもとに生まれたから頭が悪いんだ、不幸なんだ」と周囲の環境を恨んだ時期があります。

しかし、自分の人生のシナリオは自分で書いていると考えた時、「俺が両親を選んできたんだな。親父とおふくろに悪いことをしたな」と運命を肯定的に受け止められるようになったのです。

また、ある方は「自分の人生は自分が主人公」とおっしゃっています。映画監督と主役はともに自分自身で、脇役などのキャスティングをするのもすべて自分・様なことを言う相手がいても、それは自分の精神的成長を促すための存在。自分が書いたせりふをしゃべってくれているのです。そう思うと、すべて自分が書いたシナリオ通り。それに対していちいち腹を立てても仕方がない、というわけです。

逆に運命を否定的に捉えたらどうなるでしよう。被害者意識を持って、誰かを陥れるための計画を画策し実行するようなことばかりしていたら‘墓穴を掘り、運命は悪いほうへ悪いほうへと転がっていってしまいます。言葉の魔力を考えると、これもまた事実かもしれません。

類は友を呼ぶ。人間は同じ波長の者同士が引き合うと言われます。悪い波動を持った人間は、同じ波動の人間と縁を結び、いさかいを起こして別れ、また同じ波動の者と結び合うようです。

そこでは、いつまでも良い縁はありません。これを僕は釤波動ビル釤という概念でイメージします。例えば、一階のレベルにいる限り、その人が会えるのは一階の人間、一階の出来事ばかりです。ツイていない人はどこまで行ってもツイていないのは、その低階の住人だからです。かつては僕もそこの住人でした。

大事なのは二階、三階と着実に波動をレベルアップし、決して下がらないこと。気が緩むとすぐに落ちてしまいます。波動を下げない秘訣が「ありがとう」「惑謝します」を言葉に出すことだと思います。

さらに、地下の住人が、いきなり最上階近くまで一気に行ける方法があることに僕は最近気づきました。それは何か?これまで何度も述べてきた、嫌な時に「ありがとう」と感附することだったのです。嫌な出来事に直面した際「ありがとう」と言ってニコッと笑う。そして「ダメもと」でいいからすぐに何らかの行動を取ると、口に出した願いがより早く実現することも分かってきました。昔から言われている「ピンチはチャンス」は本当なのです。

「ツイてる人」とは、逆境こそが好機であることを経験的に知っており、絶体絶命のピンチになっても深刻にならずに真剣になり、「ニヤッ」と笑ってタイムリーに対処できる方たちのようです。そうして自分の波動をどんどん上げていき、同じ波動の人たちと引き合い、次々と素晴らしいご縁を築いていくわけです

意図せずに築かれていった新しい縁

これまで述べてきたイスラエルでの不思議な話を、僕は最近まであまり人前で話しませんでした。「それって本当の話?」と皆眉をひそめるからです。

五年前、たまたま金沢の知人宅で二時間ほどこの話をしたところ、信じられないことが起きました。そこで録音されたテープが大量にコピーされ、わずかの間に日本国内に広がったのです。さらに講演録をまとめた冊子ができ、たちまち増販を重ねました。その勢いはいまも止むことがありません。ある見方では、この一年間に八十万人以上の人が読んだとも言われています。

いまでは、僕の人生が自分でもびっくりするほどうまくいくものだから、いつの間にか「五日市に会えばツキが回ってくる」というので、多くの人たちが倹の周りに集まってくるようになりました。中には相当名の知られた文化人や経済人、政治家もいます。かつての僕では絶対にあり得ない現象が次々に身の回りに起き、新しい縁が築かれています。「五日市さんの言葉に触れて考えが変わりました」「ツクようになりました」「営業の成績が桁違いに伸びました」という声も続々と寄せられています。

ただ、それは僕が意図してやったわけではありません。僕の知らないところで冊子やそのコピーが出回り、いつの間にか僕の名前が知られるようになったのです。おばあさんが言うように、すべての人に運命があるとしたら、いまこの時期に僕の体験が注目を集めているのも、何か大きな意味があるのかもしれません。イスラエルから帰国後、僕がおばあさんに出した礼状に、しばらくして返事が来ました。おばあさんの想いがこもったその手紙の言葉を最後に紹介しておきたいと思います。

「心の持ち方って大事よ。だけど、もっと大事なのはね、言葉の使い方なの。どんなことを口に出すかであなたの目の前の状況が変わってくるし、あなたの心も変わってくるの。本当よ」そして、もう一文。僕の心がとっても温かくなる魔法の言葉です。
「いつでも、あなたのことを思っていますよ」

五日市剛(いつかいち・つよし)エ学博士
昭和39年岩手県生まれ。国立宮城高専を卒婁後、豊横技術科学大学に編入学。その後アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学。大手企業で新規事業の研究開発に従事したあと独立。5社の研究顧間を務める傍ら、専門書の執筆、講漬活動などを続ける。その不思議な体験験をまとめた小冊子『ツキ本呼ぶ魔法の言葉』は広く読まれている。