ずっと書きたかった私からの手紙 – Peter Frankl

子から親へ
ずっと書きたかった私からの手紙

世の中で切っても切れないもの・・・それは”親子の絆”
世代を越えて、受け継がれてきた自分の中の親のカタチ、
そんな子から親への心の伝言。

人の話にじっくりと耳を傾ける父でした。

「父に教わったことは山ほどあります。子供にとって一番大事な無条件の愛、それは母に教えてもらった。何よりもすごく両親に愛されて育ったという実感が、僕は非常に強い」

ピーター・フランクル

1953年ハンガリー生まれのユダヤ人、18歳で国際数学オリンピック金メダル獲得。1977年数学博士号取得。1979年フランスに亡命。1987年フランス国籍取得。1988年より日本に在住。大学の講師、大道芸披露、講演、執筆等、多忙な日々を送る。

僕は、カポシュパールという、ハンガリーの人口が5万人ぐらいの地方都市に生まれました。町の県立総合病院の皮膚科は、ベッド数が60以上あり、父はその皮膚科の院長でした。母もまた、同じ皮膚科に務める医師でした。

父は興味と関心を持って人の話を聞き、それを診断に生かす医者でした。家の机には、内臓の病気が皮膚に症状として現れる例を記載した本が置かれていたのを覚えています。

皮膚病として現れた患部だけで判断をするのではなく、その人がどんな環境に住み、どんな暮らしをしているのか。父は人の話にじっくりと耳を傾け、その皮膚病の原因は何かを論理的に考える人でした。

父より19歳年下の母は、父が大学の教壇に立っていたときの教え子です。だから、そんな父の影響をすごく受けていて。例えば後年、僕の皮膚に、湿疹のようなものができて、なかなか治らなかったとき、母は「2年前に風邪を引いたときも、同じような症状が出たじゃない」と。

母のアドバイスで、飲んでいた薬を控えたら、それからは一切湿疹のようなものが出ない。ある抗生物質に対するアレルギーだったんです。

単なる現象だけで物事を見るのではなく、その現象がなぜ起こるのか、本質的なところをじっくりと考える。そんな両親の気質を僕は受け継いだ。だから数学者になったのかもしれません。

父のことを知っている町の人は、たくさんいました。朝、学校に行くとき、病院に向かう父と一緒に家を出る。5分も歩かないうちに、「先生」と誰かしらに声をかけられる。

「実はうちの誰々の具合が悪い」とか、立ち話は終わりそうもないから、「僕、先に行きます」というのが、常でした。「善と知は違う」これも僕が大事にしている父の言葉です。「たくさん物を知っていて頭がいいからといって、その人がいい人で、ためになる話を聞けるかといったら、それは違う」と。

父が本当に仲良くしていた中には、無学の農家の人もいました。日曜日にはその人の家に遊びに行き、ものすごく歓迎された覚えがあります。

小学校時代は病弱で、家で本を読んだりすることが多かった僕だけど、このときはわんばく振りを発揮して、農家の庭で木登りをやったり。遊びに来たついでに、父はそこの家の親戚の皮膚の悪いところを見てあげたりして。

その意味では、人にまったく垣根を作らない両親でした。

一番大切なのは家族、次に仕事と価値観がはっきりとした親でした。

思い出深いのは、バラトン湖という湖の湖畔の小さな別荘で過ごした夏のひととき。小学生時代から、夏は土曜日の午後、そこに出かけ、日曜日の午前中は遠浅の湖で父と泳ぎ、母はランチの準備をする。

家にいるのが好きな母は、レストランに行くのも苦痛に感じていて、自分の料理のほうがレストランよりもおいしいという自覚がありました。そんな母が作る別荘でのランチは、チキンの料理が多かった。

当時の社会主義体制のハンガリーで、医者の収入は高くなかったけど、父は患者さんに人気がありましたから。よく病気が治った患者さんから、チキンや魚とかの差し入れがあった。そんなチキンを丸ごとなべに入れ、その中にニンジンや大根、たまねぎやスパゲテ
ィーを入れて作ったスープとか、別荘で母が作ってくれた料理は、今もまぶたに残っています。

学校の勉強をおろそかにしてはいけない、それが唯一、親の厳しかった点でした。父は僕以上に記憶力がよく、ギリシャ語、ラテン語、へプライ語、ドイツ語に英語も、かなり話せた。

僕も記憶力がよかったから、先生の話を聞いているだけで大体覚え、申し分のない成績は取っていた。成績さえよければ多少のいたずらをしても文句は言わないという親の態度が、僕を勉強に向かわせたとも言えます。親に叩かれたりした記憶は、まずありません。

将来は僕を医者にしたかった父。
でも僕は数学の魅力に・・・

僕は、4歳のときに3つ離れた姉が九九や掛け算をやっているのを見て、二桁の掛け算を自然に覚えた。こんなに小さい子が暗算で二桁の掛け算を解くと、近所の人や患者の問で話題になって。いろんな人が家に来て、問題を解くたびにお菓子やチョコレートをもらった覚えがあります。

数学が特別できることに、父があまり関心を示さなかったのは、医者になるのにそんなに高度な数学は必要ないという考えがあったからでしょう。

息子は医者になるものと、父は思っていました。父は第一次世界大戦、その後の全体主義の時代、第二次世界大戦、戦後のスターリン主義の時代をユダヤ人として生き、この職業がいかに大事か、思い知っていたことでしょう。

医者はどんな時代でも普遍性がある。この職業につけば、自分の身を守り、食べていくことができるだろうと。人助けの仕事に意義を見出す一方、父は医者という職業にそんな考えを持っていたに、違いありません。

でも、数学の魅力を知った僕は、数学者になりたいと思い始めた。18歳のときに隣国の旧チェコスロバキアで開かれた数学オリンピックに優勝して、父と母は話し合ったらしい。

その結果、「フツーの医者になるより、世界的な数学者になるほうがこの子にとっていいんじゃないか」と、医者にならないことを認めてくれました。

もとより父は、人の考え方を受け入れる寛容な人でしたから。ルールもほどほどに守ればいいと。

僕が高校1年の頃、父と母がアメリカに移住をした知人宅に遊びにいくことになり、お土産に何がほしいかと聞かれ、友達に聞いて知っていた「PLAYBOYという雑誌がほしい」と、ねだった。すると、当時ハンガリーには持ち込み禁止だったPLAYBOY誌を6冊持ち帰ってくれて。

もう、うれしい限りで、それは僕の英語の勉強に、大いに拍車をかけました。

数学者を目指して、オトポス大学に進学した年のこと。数学が天才的にできる学友と出会い、僕の家にその彼が泊まりに来たことがありました。
「彼は僕より数学が出来るんじゃないか・・・」あるとき、母の前でそんなことを口にすると、
「私はおまえが賢いから愛しているんじゃない、おまえは私の子供だからだよ」そんな母の言葉は、僕をものすごく安心感に包んでくれた。よし頑張ろうと思ったことがありました。

父は詩や御伽噺を書くのも好きでヨーロッパでフクロウは賢い鳥されていますが、これは、中学のときに読んだ、父の作ったお話です。

親フクロウと子フクロウが出てきて、子フクロウが「人間は何歳までが若いのか、何歳から年をとったというのか」と親フクロウに聞く。すると、親フクロウは、こう答える。

「人間には過去や経験や思い出がある。また同じように夢や希望や計画がある。。両方を天秤に乗せて、夢、希望、計画が重たい人は若い人、逆に過去、経験、思い出が重たい人は年を取った人だよ。若いか年を取っているかは年齢ではないんだよ。」

父も母も子供とは別れたくなかったでしょうけど、僕は79年にフランスに亡命をして。僕は祖国を捨てたわけですけれど、それから父が元気だった10年くらいは、毎年必ず1ヶ月くらい良心とイタリアやイスラエルとか、いろんなところを旅行しました。

北海道から沖縄まで、日本を3人で旅行したのは、86年。日本で生活を始めたのは、88年からでした。

日本人は一生懸命に仕事に取り組む。あおの父と母に育てられた僕は、アメリカとは違いお金がある人より、一生懸命やっている人が認められる、そんな日本の社会が気に入ったのです。

「遠くなりますね・・・」僕が日本で暮らすと知った父の感想は、その一言でした。

85歳の父が、僕の生まれ故郷のシュバールで亡くなったとき、家も賃貸の市営住宅で、相続する遺産は、一銭もありませんでした。

「あなたの財産は頭と心だけだ」という父の言葉を思い出します。

人は生まれてくる国や時代を選ぶことはできない。そのことをブツブツ言う前に、一回きりの人生だから、前向きに楽しく生きるべきだ。それがたいへんな時代を生きた父の結論だと僕は思っています。その精神を日本の若者たちにも考えてもらいたい。

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