劇場空間の創造、構図に秘めた心のドラマ(美の美)

レオナルドの眼

レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス絵画をきわめた。中でも「最後の晩餐」は「モナ・リザ」とならぶ最高峰だ。近年の大修復により、構図に秘められた驚異的な発想がわかってきた。壁画の残る食堂はまさしく劇場空間だった。

「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」

死を悟ったイエスの一言で、十二人の弟子に動揺がはしる。レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二―一五一九年)の壁画「最後の晩餐(ばんさん)」は、聖書に書かれたその瞬間をとらえた西洋絵画史上もっとも劇的な画面のひとつ。

ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院で、二十年余りにおよぶ大修復が終わったのは七年前。食堂に残る壁画から、後代の加筆や汚れが取りのぞかれた。色のないところは水彩で慎重に塗りかさねられた。はなやかで明るい色彩がよみがえっただけではない。あざやかな構図がまざまざと息をふきかえしたのである。

「これはまさに劇場空間なのです」

そう説明してくれたのはミラノ工科大学教授のピエトロ・マラーニ氏だった。修復にかかわった中心メンバーで、「最後の晩餐」については世界で一番くわしい専門家だ。

マラーニ氏は一枚の図を書いてくれた(左ページ参照)。彼のとなえる劇場空間説とは、こうだ。洗浄によってはっきりと姿を現した上部と左右の帯(枠)は、いわば舞台の額縁にあたる。レオナルドは食堂の建物をそっくり劇場に見立て、正面に額縁つきの舞台を置いた。食堂に入った人は、さしずめ劇場で映画を見る感じがしたはずだ。

イエスの口がたしかに開いていることもわかった。口元からもれる言葉の衝撃が起点となって激しい心の動きが周囲に広がり、パニックとなる様子がいよいよ鮮明になった。

銀貨三十枚でイエスを売ったユダをみてみよう。修復前は汚れがひどく、横顔と思われていた。だが、実際はわずかに後ろをふりむいていた。はっと机上に崩れ落ちそうになり、そのままイエスを凝視する。ペテロがヨハネに顔を近づけ、裏切り者はだれかを聞きだそうとしているから、かたわらのユダは気が気でない。しかもペテロはナイフをかまえている。

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当時、修道院の食堂に最後の晩餐図を描くのは、ふつうのことだった。聖書の逸話を追体験することは修行のうちだったからだ。同時代に生きたギルランダイオの傑作(左ページ)のように、ユダだけを目立たせ、反対側にすわらせる構図が一般的だった。

ユダを他の使徒の中にまぎれこませたのはレオナルドが初めてだった。そうすると裏切り者がだれだか、にわかにはわからない。聖書の教義を説明することより、実録のドラマを見せることをむしろ優先させたのである。裏切り者はだれだ、という食卓の疑心暗鬼が手に汗にぎる瞬間を形づくる。

十二使徒は三人ずつのグループに分かれ、絶妙の配置をとると指摘されてきた。マラーニ氏によれば、使徒の配置の妙はそれだけではない。列は奥から手前にゆるやかな曲線を描き、教会の半円形の後陣のようになっている。

微妙な明るさも考え抜かれたものだ。奥の三つの窓から光が射し、左から右の壁に強い光があたる。食堂自体からも光が入り、群像が浮かび上がるのだ。マラーニ氏はこう表現する。
「これはイエスを主演俳優にした三次元映像なのです」

【図・写真】レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」
(1495-97年、漆喰にテンペラ、460×880センチ、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院)

中央で手を広げているのがイエス。十二使徒の顔は右からシモン、タダイ、マタイ、ピリポ、大ヤコブ、トマス、イエスを越してヨハネ、ペテロ、ユダ、アンデレ、小ヤコブ、バルトロマイ。使徒たちの手の動きは水流に似ている、と多くの研究者が指摘してきた。イエスの口元から始まる心の動きのドラマは、まさに波紋のように広がる。

▼最後の晩餐 ユダヤ人の過越しの祭りに際し、エルサレム入りしたイエスは信仰の腐敗を怒る。神殿に集う商人をむちで打ち、店をひっくり返した。大祭司たちはイエス逮捕を決める。晩餐の席で弟子の裏切りを予言し、パンとワインを自分の体と血にたとえ、分け与えた。ユダは逮捕の手引きをし、イエスは十字架にかけられる。